第18話 あの蝉時雨の向こう側で君に出会う
六月十日。
その日付を聞いた瞬間、蒼汰の脳裏に昨日の歴史の授業が鮮明に蘇った。
田中先生が静かな、しかし確かな熱を帯びて語った言葉――土浦海軍航空隊が、米軍のB29によって火の海に変えられた運命の日だ。
「千代は……」
片桐老人の声が、急に喉に何かがつかえたように掠れ、途切れた。
テーブルの上で組まれた皺だらけの両手が、小刻みに、しかし激しく震えている。
老人はギュッと目を閉じ、八十年前の地獄の光景を再びその瞳の裏に呼び覚ますかのように、苦しげな息を吐き出した。
「千代は……田んぼの畦道で発見された。逃げ惑う最中に、米軍機の爆撃に巻き込まれたのだろう。……下半身だけになって、おった……」
ヒュッ、と。
隣に座る月乃が両手で口を強く覆い、悲鳴を押し殺した。
彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ落ちる。
蒼汰は全身の血が瞬時に凍りつき、心臓を冷たい氷の塊で鷲掴みにされたような感覚に襲われた。
モダンなジャズが流れる空調の効いた店内にいるはずなのに、急激な悪寒で奥歯がガチガチと鳴りそうになる。
――――だからか。
だから、彼女は下半身だけの姿で、夜な夜な現れていたのか。
自分が凄惨な死を迎えたことへの恨みや、命を奪われた恐怖からではない。
彼女の魂をこの地に縛り付けていたのは、たった一つ。
愛する人に会えなかった無念と、自分が持っていなければならないはずの「片割れ」への執着だったのだ。
預かったはずの『漆が塗られた木片』を探して、それを必ず彼に返すために……彼女の魂は八十年もの気の遠くなるような時間、あの暗闇の中をたった一人で彷徨い続けていたのだ。
「遺体のそばの泥の中に、この片割れの雷鳥が落ちていた。千代のものだった……。あの凄惨な爆撃の炎の中でも、親父さんが塗った漆のおかげで、燃え尽きずに残ってくれたんじゃ」
老人は、テーブルに置かれた二つで一つの雷鳥を、慈しむように、壊れ物を扱うようにそっと撫でた。
「ワシはそれを握りしめて、今日まで生きてきた。なんで自分だけが生き残ってしまったのかと、何度も死にたいと思ったよ。千代の後を追うように、ワシも特攻隊員として爆装した戦闘機に乗り込み、出撃もした。だが……無情にも途中でエンジンの不調に見舞われ、引き返すことになり、そのまま終戦を迎えてしまった……」
死に場所すら与えられず、生き残ってしまった絶望。
老人の口から紡がれる言葉の一つ一つが、重い鉛のように蒼汰たちの心にのしかかる。
戦争という巨大な暴力が、一人の青年の人生からあらゆる色を奪い去ってしまった事実がそこにあった。
蒼汰がふと感じる違和感……年齢を感じさせる老いた語尾と、ふとした瞬間に素に戻ったような力強い口調が入り混じるその生々しい喋り方が、かえって彼の抱える悲痛なまでの現実味を帯びていた。
「ワシは、千代以外の女性とは絶対に結婚しないと誓った。『ワシの妻は千代だけだ』と。そう頑なに言い続けて生きてきた。家の都合で養子を迎え、孫もいるが……ワシがこんな頑固な性格で、心の中にはずっと千代しかおらんかったせいか、今ではすっかり家族とも疎遠になってしまってな。長い、本当に長い人生の中で、ワシは千代との約束だけを抱えて、ただ一人で生きてきたんだ」
老人の目から、再びとめどなく涙が溢れ出し、シミの浮いた頬を伝ってテーブルへと落ちた。
ポタリと小さな音を立てて木目の天板を濡らすその雫は、八十年という途方もない歳月の重みを含んでいるかのように、どこまでも重く、切なかった。
店内に低く流れるレトロなジャズがもたらすオシャレな雰囲気や、挽きたての珈琲豆が醸し出す芳醇な香り、エアコンの心地よい冷気――そうした洗練された空間の全てが、老人が吐き出した過酷な半生とあまりにも対極的で、蒼汰の胸を締め付けた。
「……先日のことだ。この喫茶店で、君たちが話しているのを偶然耳にしてしまったんじゃ」
老人は涙を拭おうともせず、真っ赤に充血した目で、蒼汰、月乃、蒼翠の三人を順番に見つめた。
その眼光にはもはやあの日の凶暴な怒りはなく、ただ深く傷ついた魂の叫びだけが宿っていた。
「『下半身だけのモンペ姿の少女の霊が出る』……『木片』そう聞こえた瞬間、ワシは頭に血が上って、君たちを怒鳴りつけてしまった。……だが、その下半身のモンペ……それは、間違いなく千代だ」
老人の口から発せられたその言葉に、蒼汰は胸を強く突かれたようにハッと息を呑んだ。
時間が凍りついたかのような錯覚の中、蒼汰の脳裏にあの日――まさにこのカフェのテーブルで自分たちが交わしていた会話が、鮮明に蘇ってきた。
『不気味なモンペをはいた下半身の霊……早く何とかしたいな』
『本当に……毎晩、誰かのところに必ず現れるでしょう?怨念すごいのよ』
『これだけ続くと、本当に不気味だよな』
冷や汗が全身の毛穴から一気に噴き出すのが分かった。
……自分たちはあの時、一体何を言っていた?
自分たちを襲う恐怖と不快感から逃れたい一心で、何の罪もなく亡くなった少女の悲劇を「不気味な化け物」として扱い、うっとうしがり、怨念だの何だのと軽蔑の言葉を浴びせていたのだ。
――――その少女はただ、愛する人から託された大切な思い出の品を、愛するその人に渡したかった……ただそれだけなのに。
そして、その少女は――この老人が八十年もの間、途方もない孤独に耐えながら、命を懸けて愛し続けてきた最愛の人だったのだ。
自分たちは、この老人の人生そのものである「愛」を、踏みにじり、侮辱していたのだ……怒鳴りつけられても何の文句が言えようか。
恐る恐る隣に目をやると、月乃の顔からはすっかり血の気が引き、蒼白な唇を震わせていた。
向かいに座る姉の蒼翠もまた、目を見開いたまま固まっている。
二人も同じだった。
自分たちが吐き捨てた身勝手で無神経な暴言の罪に、今さら気づいたのだ。
「ごめんなさい……」
月乃の口から、掠れた声が漏れ出た。
彼女は両手で顔を覆い、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら肩を激しく揺らし始めた。
「私……私、なんてことを……っ!千代さんが……そんなに悲しい思いをして探していたのに……っ!何て酷いことを言ったんだろう!……ごめんなさい……っ!ごめんなさい……っ!」
一度溢れ出した月乃の号泣は止まらなかった。
自分の浅はかさと、少女の気持ちを傷つけてしまった絆の深さに耐えきれず、子供のように声を上げて泣きじゃくる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
蒼翠もまた、両手をテーブルについて頭を低く下げ、しゃくりあげながら涙を流していた。
蒼汰もまた、喉の奥が固く押し潰されたようになり、溢れてくる涙を止めることができなかった。
言葉が出ない……謝っても謝りきれない罪悪感が、胸の中を黒く塗りつぶしていく。
泣き崩れる高校生二人と、涙を流して絶句する蒼汰の姿を見て、片桐老人は驚いたように目を見開き、それからどこか困ったような、寂しげな微笑みを浮かべた。
「いいんですよ……泣かないでおくれ。霊が不気味だと言ったことに、ワシが勝手に堪忍できなくなって怒鳴り散らしただけなのだから。見知らぬ老人に理不尽に怒鳴られて、恐怖を感じるのは当然のことだ。……悪いのは全て、自分の感情を抑えきれなかった私の方ですよ」
老人の低く優しい声が、カフェの静寂に優しく染み込んでいく。
責める色など微塵もない、あまりにも温かく慈愛に満ちたその言葉。
しかし、それがかえって三人の心を鋭く切り刻んだ。
自分たちの無知と身勝手さを鋭く突かれたようで、胸の奥が痛いくらいに疼く。
八十年もの間、たった一人の女性を想い続けてきた男の愛の深さと、その裏にある途方もない孤独。
二つの雷鳥の木片が秘めた真実を知った今、蒼汰たちの目から流れる涙は、恐怖の余韻などではなく、二人の切なすぎる運命への激しい痛恨と涙へと変わっていた。
「君がどこかで見つけたあの木片は、ワシが持っていくはずだった雷鳥の片割れだろう。千代は……どうにかして、ワシにそれを返したくて仕方がなかったんだろうな。君たちを酷く怖がらせてしまって、本当に申し訳ない。ただ……千代は……ワシにあの約束の雷鳥を、渡したかっただけなんじゃろうなぁ……悪気はなかったんだ……」
嗚咽混じりの老人の声が、静かな店内に溶けていく。
周囲の客たちはもう誰も、彼らの席に注意を払っていなかったが、蒼汰たちのテーブルだけが、まるで八十年前の時間がそのまま切り取られたかのような、重く切実な空気に満たされていた。
「この雷鳥……ワシに返してもらっても良いだろうか?」
当然だった。
この『愛の証』を、蒼汰が持っていていいはずがなかった。
これは単なる古い木片などではない。
八十年の時を超えて、どうしても合わさらなければならなかった二人の「心」そのものだ。
泥に塗れ……血を流し……孤独の中で相手を想い続けた、途方もなく純粋で、悲しい愛の結晶なのだ。
「……もちろんです。それは、片桐さんのものです」
蒼汰は震える声でそう言うと、立ち上がり、深く頭を下げた。
月乃も、蒼翠も、とめどなく溢れる涙を手の甲で拭いながら、言葉にならない声で何度も何度も深く頷いた。
もう、誰も怪異を恐れてはいなかった。
そこにあるのはただ、一組の男女がようやく巡り会えたことへの、言葉に尽くせぬほどの祝福と、深い……とても深い心からの哀悼だけだった。
雷鳥を懐に抱きしめ、老人は店を後にした。
その背中は入ってきた時よりも、ほんの少しだけ真っ直ぐに伸びているように見えた。
その日の夜。
海老山家の蒼汰の部屋には、いつものように月乃と蒼翠が集まっていた。
木片を本来の持ち主に返したのだ。
きっともう、あの怪異は起きないだろう……三人で一緒に眠る最後の夜になるはずであった。
そんな安堵と油断が、三人を深い眠りへと誘っていた。
――しかし。
深夜、不意に全身の筋肉が硬直した。
金縛りだ。
蒼汰は心臓が跳ね上がるのを感じた。
だが、今までとは何かが決定的に違っていた。
いつもの、あの鉄と魚が腐ったような酷い腐敗臭が一切しない。
代わりに……夏の夜の澄んだ空気と、どこか懐かしい山の草の香りが微かに漂ってきた。
金縛りは、数秒であっさりと解けた。
蒼汰がゆっくりと目を開けると、月乃と蒼翠も身を起こしていた。
ベッドの足元――――窓から差し込む淡い月明かりの中に、一人の少女が立っていた。
十七歳くらいの、美しい黒髪の少女だった。
清潔なモンペを身にまとい、どこにも血などついていない。
――――欠損のない完全な姿。
透き通るような肌の彼女は蒼汰たち三人を見つめると、ふっと、花が綻ぶような穏やかな微笑みを浮かべた。
――ありがとう。
声は聞こえなかった。
だが、その表情が全てを物語っていた。
少女の姿は、月光に溶けるようにして静かに消えていった。
部屋に残されたのは、ただ穏やかな静寂だけだった。
「……あ……」
気がつくと、蒼汰の頬を温かい涙が伝い落ちていた。
隣を見ると、月乃も、蒼翠も、声を出さずにポロポロと涙をこぼしていた。
恐怖など微塵もなかった。
ただ、胸の奥が締め付けられるほどに切なく、そして温かかった。
幾日か心霊現象と無縁の日々が続いた。
もうすぐ文化祭が始まる……蝉の鳴き声が徐々に少なくなり始めた九月下旬、蒼汰の携帯電話が短く震えた。
パジャマ姿の月乃と蒼翠が覗き込んできた。
月乃は蒼汰の部屋で寝るのに味をしめたらしく、『霊』を理由にこうやってたまに泊まりに来ていた。
見知らぬ番号からの着信……電話に出ると、相手は先日会った片桐老人の息子……養子であると名乗った。
『……父の遺品を整理していたら手紙を見つけたのでお電話しました。』
静かな、沈痛な声だった。
『父の戸棚に、ひどく震える文字で書かれた遺言状がありまして……自分が死んだら、即座にあなたへ電話をするようにと。手紙の発見が遅くなって申し訳ありません』
「……そんな……」
蒼汰は言葉を失った。
あの日、あんなにしっかりと話をしたばかりなのに。
末期癌だと言っていたが、まさかこんなにも早いなんて。
『父は木彫りの鳥を握りしめて、安らかに眠っていました……こんなに安らかな顔……生前では見たことがありません。それと……伝言が書かれていました』
息子の声が微かに震える。
『ありがとう。私は、千代と一緒になれた……そう伝えてくれ、と』
「ッ……!」
蒼汰の喉の奥から、くぐもった声が漏れた。
電話が切れた後、蒼汰は携帯電話を握りしめたまま、その場にうずくまった。
――――こらえきれなかった。
大声で、嗚咽を漏らして泣いた。
隣でスピーカーで一緒に聴いてた月乃と蒼翠も……三人で抱き合い、声を出して泣いた。
八十年もの間、誰にも知られず、田んぼの泥の中で血を流し、彷徨い続けてきた少女。
たった一つの約束を胸に、孤独に耐えながら生き抜いてきた老人。
二つの雷鳥の木片が合わさった時、長すぎる夏が終わり、二人の魂はようやく一つの比翼の鳥となって、遥かなる空へと飛び立っていったのだ。
朝の眩しい光の中で三人の泣き声だけが、いつまでもいつまでも部屋に響いていた。




