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第16話 遥かなる夏空に散った想い

 翌日。

 四時間目の歴史の授業中、教室には窓の外から夏の終わりを惜しむようなツクツクボウシと油蝉の入り混じった鳴き声が、けたたましく降り注いでいた。


 黒板をリズミカルに叩くチョークの乾いた音。

 紙と古い本、それに誰かが体育の後に振りまいた制汗スプレーの人工的な香りが混ざり合った、学校特有の淀んだ匂い。

 28度という高校生には高すぎる設定温度のエアコンが、生ぬるい風を教室の隅々へと掻き回している。

 多くの生徒にとって、昼食前のこの時間は、最も抗いがたい睡魔が襲ってくる魔の時間帯だった。


 窓際の席では、お調子者の青木蓮が完全に腕を枕にして涎を垂らしかけており、その前の席で伊藤大地がうつらうつらと舟を漕いでいる。

 斜め前の席では、医学部志望の野口麻衣が歴史の授業など一瞥もせず、ノートの下に隠した英単語帳を冷徹な目で睨みつけていた。

 そして、Eスポーツ部の松本健は「だりぃ」とでも言いたげに鼻毛を弄び続けている。

 彼らにとって、歴史とは「テストのために暗記するだけの、自分とは無関係な死人の記録」でしかないのだ。


 以前の蒼汰なら、間違いなく彼らと同じように、絶好の睡眠タイムとして消費していただろう。

(第二次世界大戦?八十年前の昔話なんて、今の俺の人生に一ミリも関係ねぇし。そんな暇があるなら、バスケのゾーンプレスの崩し方や、神谷先輩のシュートフォームを頭の中でシミュレーションした方がよっぽど実用的だわ)

 そう嘯いて、机に突っ伏していたはずだ。

 現に彼の顎には、月乃にいいところを見せようと、ダンクを狙って落下した時の、数針縫った傷跡が微かに疼いている。

 彼の意識は常に、目の前のバスケと日常に向けられていたのだから。


 だが――今の彼は違う。


 蒼汰は『第二次世界大戦』という単語に反応すると、背筋をピンと伸ばし、瞬きすら惜しむように、食い入るような視線で教壇を見つめていた。

 ノートを握る手にはじっとりと嫌な汗が滲み、シャープペンシルの軸が滑る。

 ふと横に視線をやると、隣の席の月乃もまったく同じ状態だった。

 普段は控えめで柔らかい雰囲気を持つ彼女が、今は微かに肩を強張らせ、血の気の引いた横顔で黒板を凝視している。

 その細い指先は、祈るように両手でペンをきつく握りしめていた。


 二人がこれほどまでに異常な集中力を発揮しているのは、この歴史が「過去」などではなく、今まさに自分たちの命を脅かす「現実」に直結していると知ってしまったからだ。


 海老山家に出没するモンペ姿の少女の霊……旧体育館での……旧校舎での惨劇。

 泥に塗れ、呻き声を上げて這いずり回っていた兵士たちの姿。

 彼らはなぜ、この学校の敷地に現れたのか……何を訴えようとしていたのか。

 その答えが、今まさに語られようとしているのだ。


 教壇に立つ田中敬人先生は、白髪混じりの頭に銀縁眼鏡をかけた、五十代半ばのベテラン教師だ。

 普段は抑揚のない声で淡々と教科書を読み進めるだけの彼が、ふとチョークを置き、予定外の「雑談」を始めたのは、ほんの数分前のことだった。

 しかし、その静かながらも熱を帯びた語り口に、蒼汰と月乃は息を呑み、霊の姿を思い返すと金縛りに遭ったように身動きが取れなくなっていた。


「いいか、お前ら……」

 田中先生の低く、腹の底から響くような声が、弛緩しきっていた教室の空気をピリッと引き締めた。

 彼は教卓に両手をつき、机に突っ伏している生徒や、ボーッと窓の外を眺めている生徒たちをぐるりと見渡す。

「今、お前らが当たり前のように座って授業を受けている、この私立霞陵学園高等学校。ここが元々、何の跡地に建てられたか……知っているか?」


 教室は水を打ったように静まり返った。

 歴史に興味のない生徒たちも、いつもと違う教師の雰囲気に押され、戸惑ったように顔を上げる。


「ここはな、元『土浦海軍航空隊』の跡地だ」


 土浦海軍航空隊。

 その単語が耳に飛び込んできた瞬間、蒼汰の心臓がドクン、と痛いほど大きく跳ねた。

 全身の毛穴が一気に開き、冷たい汗が背筋を滑り落ちる。

 瞬時に、あの光景が脳裏にフラッシュバックした。

 旧体育館の床一面に広がっていた、屍の群れ……。

 旧校舎の床から次々と這い出してきた兵士たち……。

 絶望に満ちた呻き声を上げながらすがりついてきた、無数の兵士たちの焼け焦げた軍服……泥に塗れ、焼き尽くされた顔……そして、何かを強烈に訴えかけるような虚ろな瞳――。


「日本の心臓である首都・東京を守るための、防空の要所だ。当時、米軍の巨大な爆撃機B29が、日本の街を焼き払うために大量の爆弾を落としにやって来た。その空の要塞を迎え撃ち、叩き落とすための戦闘機と精鋭パイロットが集められていたのが、この土浦航空隊なんだよ」


「……先生」

 不意に、教室の静寂を破る声が上がった。

 野球部でミリタリー好きの橋本和樹だった。

 彼は普段の真面目すぎる顔つきを少し紅潮させ、早口で言う。

「一万メートルを飛ぶB29を迎撃するには『雷電』などの局地戦闘機が必要だったはずですが、当時の日本の防空網はすでにズタボロだったんですよね?それなのに、何で米軍はここを……土浦なんて所を執拗に狙ったんですか?こんな田舎、ほっといても楽勝だったんじゃないですか?」

 隣の席の飯島健吾も、無口ながらも熱を帯びた目で深く頷いている。


 田中先生は橋本の方を見て、深く頷いた。

「その通りだ、橋本。日米の機体の性能差はすでに絶望的だった。だが、米軍にとって最大の脅威は『飛行機』そのものじゃなかったんだ。……いいか? すごい戦闘機にさえ乗れば、誰でも同じように戦えると思うか?ポンコツの旧式機なら、誰が乗っても弱いままなのか?違うだろう。橋本、お前が操縦席に座るのと、そこの海老山が座るのとで、結果は同じになるか?」


 問いかけられ、橋本も蒼汰も息を呑んだ。

「……結局、一番恐ろしいのはそれに乗る『人間』なんだよ。いかに乗っている機体が劣っていようが、極限の技量を持ち、死すら恐れずに向かってくるパイロットが次々と生み出される場所。それこそがアメリカ軍にとっては最大の悪夢であり、絶対に地図上から消し去らねばならない標的だった。当時の日本人パイロットの執念と腕は……それほどまでに、米軍から底知れず恐れられていたんだ」


 先生はくるりと背を向け、黒板に白墨で『海軍飛行予科練習生』と力強く殴り書きする。

 コンッ、と最後の点を強く叩いた音が、教室に異様に大きく響いた。


「この航空隊と一緒に併設されていた施設。それが『予科練(よかれん)』だ。簡単に言えば、軍用の『超エリートパイロット養成所』だ。全国から運動神経と頭脳に優れた若者だけを集め、厳しい訓練を課し、空の戦士として鍛え上げた場所だ」


 田中先生はそこで一度言葉を区切り、眼鏡の奥の鋭い眼差しで、蒼汰たち生徒を真っ直ぐに見つめた。


「日本軍のパイロットがどれだけ恐れられたか……得意のスマホで調べてみるといい……。土浦航空隊は、その恐るべきパイロットを次々と生み出すエリートパイロット養成所だったんだよ。そのエリートたちの年齢は、十四歳から十七歳。……今の、お前らとまったく同じ年齢だ」


 教室の空気が、シンと冷え込んだ。

 蝉の鳴き声すら、分厚いガラスで遮られたように遠のく。


「彼らは決して、教科書に載っているような『顔のない軍人』なんかじゃない。お前たちとまったく同じように、ここで飯を食い、腹の底から笑い、くだらないことで喧嘩もした。将来への不安や、友達と過ごす時間への執着、誰かへの恋心……授業がめんどくさいと思う怠け心だって、そっくりそのまま持っていたんだ。お前たちと同い年なんだ……。分かるだろう?」

 一際大きな蝉の鳴き声に、刹那、話が途切れる。


「あのグラウンドで泥まみれになって走り込み、故郷の親を想い、時には好きな娘の話で盛り上がったはずだ。……実際に、死地へ赴く恋人とほんのひと時言葉を交わすためだけに、何時間も汽車を乗り継いでこの地を訪れた少女も多くいたという。その時の彼女たちの切実な気持ちが、お前たちには想像できるか?お前たちが今、部活で流している汗と、彼らがここで流した汗に、一体何の違いがある? そんな眩しい青春のまっただ中にいた少年たちが――『国の命運』という、あまりにも重すぎる十字架を背負わされていたんだ」

 もはや、誰も不躾な質問など挟めなかった。


「いいか、彼らはお前たちと何も変わらない。過酷な時代ではあったが、彼らなりにここで精一杯、青春を謳歌していたんだよ。同じように笑い、悩み、生きていた人間だ。……唯一違ったのは、彼らの目の前には、常に『死』が見えていたということだけだ」


 蒼汰は息を詰まらせた。

 俺たちと、同じ年齢。

 バスケ部の大黒柱である赤城先輩や、自分が憧れる神谷先輩、あるいはお調子者の加藤。

 そんな身近な仲間たちが、もし明日、死ぬための訓練を受けろと言われたら?

 もし自分がバスケじゃなくて、敵を殺すための訓練を受けて……月乃が何時間もかけて会いにきたら何を話せばいい?

 俺が戦争に行くなんて言ったら、悲しませるだけじゃねえか……。

 国のため?

 国ってそんな大事か?


 あの泥まみれで必死に蒼汰の足を掴んできた兵士たちは、怨霊などではなかった。 

 蒼汰たちと同じように、くだらないことで笑い合っていたはずの、ただの少年たち……家族を守り、好きな人を思っていた『人』だったんだ。

 そして、あの夜――ベッドの足元に立ち、血を滴らせていた、下半身だけのモンペ姿の少女。

 彼女もまた、この地で青春を奪われた一人なのだろうか。


 カタン、と。

 隣から、小さな音がした。

 月乃が震える手からシャープペンを落とした音だった。

 彼女の顔は紙のように青ざめ、血の気が失せた唇をきつく噛み締めている。

 見開かれた瞳は小刻みに揺れていた。

 

 月乃の持つ深い「情」が、惨劇の怪談と生々しい歴史の事実をリンクさせ、彼らの悲鳴を心で受け止めてしまったのだろう。

 単なる恐怖ではなく「可哀想だ」という彼女の本質が、震えとなって表れていた。


「全国から集められた優秀な若者たちが、日本の空を、家族を、故郷を守るためにここで厳しい訓練に明け暮れた。だが……」


 田中先生の顔に、痛みを堪えるような深い影が落ちた。

「戦局が悪化し、いよいよ追い詰められた日本軍は、その若く優秀な命を、もっとも残酷で狂気じみた形で消費する決断を下す。爆弾を抱えたまま、帰りの燃料も持たずに敵の艦船に体当たりする作戦――」


「……十死零生」

 ぽつりと、教室の反対側から静かな声が響いた。

 剣道部の神代圭吾だ。

 端正な顔立ちを一層冷たく沈ませ、祈るような、あるいは何かを押し殺すような声で呟く。

「帰る場所を捨てた……特攻、ですね」


 その二文字が、重い鉛の塊となって蒼汰の胃の腑にドスンと落ちてきた。

 今まで、教科書の上の理解できない『くだらない狂気の歴史』だと一蹴していたはずだった。

 

 しかし――もしも、自分が命を捨てなければ月乃が死ぬのだとしたら?

 そうか…………国って、偉い政治家のことじゃなくて、月乃や俺の家、家族のことか。

(なら……俺だって、迷わず死にに行くかもしれない)

 脳裏をよぎったその思考に、蒼汰は背筋が凍る思いがした。

 思うことと、引き返せない死へと突き進むことの間には、あまりにも残酷な隔たりがある。


 最初から『死』を前提とされた作戦。

 あの旧体育館の泥の中で怨念を燻らせていた少年兵たちは、大空へと散っていった仲間たちを想う無念だったのだろうか。

 それとも、飛び立つことすら許されず、空襲の炎に包まれて逝った者たちの無念だったのか。

 ――だとしたら、あのモンペ姿の少女は?

 彼女はただの惨劇の被害者なのか。

 それとも……空へ旅立った『誰か』を、ここで今も待ち続けているのだろうか。


(……八十周年企画委員)


 蒼汰は机の下で、震えそうになる拳を強く握りしめた。

 やるしかない。

 いや、俺たちが調べなきゃならないんだ。

 ズボンのポケットに入れたままの『木片』の重みとざらつきが、布越しにはっきりと感じられた。

 

 ――――これはただの木片じゃない。

 誰かが自らの命と引き換えに遺し、八十年の時を超えて、どうしても誰かに伝えたかった「想い」の欠片そのものなのだ。

 彼らがなぜ未だにこの土地に縛られているのか、七不思議という怪談に姿を変えてまで何を求めているのか。

 その答えを見つけ出さなければならない。


 蒼汰がゆっくりと横目で月乃を見ると、彼女もハッとしたように顔を上げた。

 怯えと混乱に揺れていた彼女の瞳に、次第に強い光が宿っていく。

 

 持ち前の情に厚い彼女の心が、恐怖を乗り越えようとしていた。

 彼女は深く一度深呼吸をすると、蒼汰の視線を真っ直ぐに受け止め、小さく、だが力強く頷き返してきた。


 二人の意志は完全に固まっていた。

 あのモンペの少女の無念を解き明かさねばならない。

 

 放課後の第四準備室――八十周年企画委員の集まり。

 それよりも、二人には気になる人物が一人浮かんでいた…………喫茶店で月乃に絡んだあの老人である。

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