第15話 禁忌溢れる夜の旧校舎
「……よし。では、二年H組の十五太助くん。君が企画実行委員長です。君がまとめてください」
一連の濃すぎる自己紹介を冷めた目で見届けていたローレンツが、缶コーヒーの空き缶をゴミ箱へ放り投げながら無造作に告げた。
「えっ、私が……!?いや、しかし手腕としては――」
「戦史に詳しいんでしょう?異論は却下します。明日の放課後から本格的に作業を開始します。以上」
ローレンツは十五の言葉を素気無く遮ると、白衣の裾を翻してあっさりと準備室を後にした。
残された生徒たちは顔を見合わせ、十五が「……やむを得ん。各員、明日からお願いします!」と腹を括って声を張り上げたことで、初日の顔合わせは無事に解散となった。
十七時三十分。
蒼汰と月乃はカバンを第四準備室の隅に置き、嵐のような自己紹介の余韻を感じながら、それぞれの部活へと向かって廊下を駆け出していった。
そして、十八時三十分。
完全下校時刻を知らせる無機質なチャイムが、夕闇に沈みかけた校舎に響き渡った。
「やっべ……カバン忘れた」
部活を終え、制服に着替えた蒼汰は、昇降口で自分の両手が空いていることに気づき、思わず天を仰いだ。
旧校舎の一階、第四準備室に丸ごと置き忘れてきたのだ。
「アンタ、ほんっと抜けてるわね。私も行くわよ、一人で待ちたくないし」
隣でスポーツバッグを肩にかけた月乃が、あきれたように長いため息をついた。
呆れ顔の中にも、蒼汰を一人で行かせることを案じる幼馴染としての気遣いが見え隠れしている。
「わりぃ。弁当箱だけはどうしても回収しねーと、中身が腐って母ちゃんにガチで殺されるんだよ」
「洗い物出さないと怒られるもんねぇ。自業自得だけど」
そんな他愛のない軽口を叩き合いながら、二人は人気のなくなった旧校舎入口の階段を上っていった。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った廊下は、二人の足音だけが不気味なほどよく響く。
日はすでに落ち、窓の外は藍色に染まり始めていた。
薄暗い第四準備室の片隅で、ぽつんと残されていた学校指定のリュック型のカバンを回収する。
「よし、あった。帰ろうぜ」
蒼汰がリュックを背負い、月乃と共に廊下へ出た、その時だった。
――ゾクリ。
突如、次元の境界線そのものが歪むような、圧倒的な違和感が全身の産毛を逆立てた。
「……っ!」
月乃が咄嗟に蒼汰の手をギュッと強く握りしめる。
彼女の手は冷たくて心地よかった。
周囲の空気が、唐突に薄く……不気味な紫色に霞み始めたのだ。
同時に、むせ返るような異臭が鼻腔を殴りつける。
水底のヘドロのような生臭い泥の匂いと、ひどく錆びた鉄――いや、大量の古い血の匂いだ。
夏の夜特有の蒸し暑さはどこかへ消え失せ、気温が一気に急降下する。
吐く息が、冬場のように真っ白く染まっていた。
「……え……」
月乃の口から、恐怖に引き攣った小さな声が漏れる。
蒼汰は息を呑み、旧校舎の一階廊下を見下ろした。
紫色の靄が渦巻く廊下を完全に埋め尽くすようにして、『それら』は蠢いていた。
……一人や二人ではない。
泥とどす黒い血に塗れた、ボロボロの旧日本軍の軍服。
顔の半分を覆う薄汚れた包帯……欠損して包帯から骨が覗く手足。
およそ三十体はいるだろうか。
兵隊たちの亡霊が、眼球のない窪んだ眼窩で一斉に蒼汰たちを見ている。
「……七不思議の一つ、『旧校舎一階の霊』か……!」
蒼汰は呻くように呟いた。
以前、旧体育館で遭遇した時と同じだ……。
三十余体もの怨念が発する圧力が、物理的な重さを持って空気を押し潰してくる。
肺が圧迫され、呼吸すら苦しい。
ゴボリ、ゴボリ――。
喉の奥で血を泡立てるような、おぞましい水音を鳴らしながら、亡霊たちが一歩、また一歩と廊下を歩き始めた。
ずるり、ずるり……。
腹部の裂け目からこぼれ落ちた赤黒い内臓を、びちゃびちゃと廊下に引きずりながら、彼らは距離を詰めてくる。
背中と膝の下に力強く腕を回し、強引に『お姫様抱っこ』の体勢で彼女の身体を宙に浮かせた。
「わっ……蒼汰!?」
「舌噛むなよ、しっかり掴まってろ!」
月乃の細い腕が、命綱にすがるように蒼汰の首に必死に巻き付く。
(金縛りに遭わないだけ、今までよりはマシだ……!)
両手が塞がっている以上、頼れるのは己の足のみ。
蒼汰は毎日の厳しいバスケ部の練習で染み付いたコート全体を把握する視野を無意識に展開し、前方に立ちはだかる亡霊たちの配置と距離感を瞬時に測った。
ダンッ! と床を蹴りつける。
鍛え抜かれた足腰のバネを爆発させ、圧倒的な初速で廊下を一気に駆け抜けようとした。
しかし、亡霊たちの動きは蒼汰の予想を超えて異常に早かった……床から這い出し、ディフェンスの網を厚くするように増えていくのだ。
右への鋭いフェイクを入れてから左へ切り返す。
迫り来る亡霊の腕を、ユーロステップのような変則的な足運びで間一髪躱す。
だが、抜いても抜いても、――――廊下を亡霊たちが次々と埋め尽くしていく。
まるで息の合ったゾーンプレスのように、ジリジリと蒼汰たちの進行方向が塞がれていく。
(くそっ、囲まれる! 完全なトラップだ……!)
ずるり……ずるり……ぴちゃぁっ。
色付いた臓腑を引きずる湿った音が、すぐ隣で鳴っているかのように鮮明に聞こえる。
――――逃げ場が、ない。
絶望が脳裏をよぎった、その時だった。
「――急いで走り抜けなさいッ!!」
空気を切り裂くような鋭い怒声と共に、横手の廊下から猛烈な勢いで一つの影が飛び出してきた。
ヨレヨレの白衣を翻し突っ込んできたのは、担任のヴィクトル・ローレンツだった。
ローレンツは全く躊躇することなく、先頭にいた亡霊の胸ぐらめがけて強烈な回し蹴りを叩き込んだ。
「先生!?」
驚愕して目を丸くする蒼汰の目の前で、ローレンツは亡霊たちを相手に素手で殴り合いを始めた。
生者の物理的な攻撃は、霊の身体を半ばすり抜けているようにも見えた。
しかし不思議なことに、ローレンツの蹴りを受けた亡霊は大きく体勢を崩し、ドサリと後ろへ倒れ込んだのだ。
物理的な質量が効いているというよりも、ローレンツの放つ圧倒的な『気迫』と『闘気』の迫力に、亡霊側が怯み、押し負けているように見える。
ギャアアアッ!と耳障りな絶叫が響き、数体の亡霊がローレンツの白衣を引っ張り、その両腕にすがりついた。
「チィッ……やはり物理は効かないか!あれが欲しいところですねぇ」
ローレンツは忌々しげに舌打ちしながらも、足運び一つ乱すことなく、次々と群がる亡霊の顎を蹴り抜き、鳩尾を殴りつけ、強引に活路を切り開いていく。
その一切の無駄を省いた洗練された体術は、武道ではない。
素人の蒼汰にも紛れもなく死線をくぐり抜けてきた元軍人のそれだと分かる。
「早く行きなさい! ここは私が抑えます!」
「す、すみません!」
ローレンツが強引にこじ開けた一瞬の隙間。
それは蒼汰の目には、味方が身を呈して壁となり、密着するマークを剥がしてくれた『スクリーン』のプレイそのものに見えていた。
蒼汰は月乃を抱きかかえたまま、そのワンチャンスを見逃さず、トップスピードへのチェンジオブペースで一気に隙間へと飛び込む。
横合いから伸びてきた血まみれの腕を、空中で上体を捻るようなボディコントロールでギリギリ回避し、靴箱へ向かって全力で駆け抜けた。
背後から、何かが引き裂かれる音と、亡霊たちの不気味な呻き声が重なって聞こえ続けていた。
ガチャンッ!
昇降口の重い鉄扉を肩から体当たりするように押し開け、二人は外の空気へと転がり出た。
夏の夜特有の生ぬるい風が、恐怖で冷え切った頬を優しく撫でる。
振り返ると、校舎を包んでいた薄い紫色の霞はすっかり消え去り、遠くの草むらで鳴く虫の音だけが、穏やかな日常の帰還を告げていた。
「はぁっ……はぁっ……」
蒼汰は荒い息を吐きながら、腕の中の月乃をそっと地面に下ろした。
「……っ、うっ……ぐすっ……」
足が確かな地面に触れた途端、極限まで張り詰めていた緊張の糸が切れたのだろう。
月乃は両手で顔を覆い、ポロポロと大粒の涙をこぼして泣きじゃくり始めた。
「月乃……」
蒼汰は、しゃくり上げる月乃の華奢な肩を引き寄せると、自分の額を、月乃の額にコツンと優しく押し当てた。
「ひっ……蒼、汰……」
「大丈夫だ。もういない。俺がついてる」
蒼汰の熱を帯びた身体から伝わってくる温もりと、至近距離からほんのりと香る、いつものシャンプーの甘い匂い。
互いの息がかかる距離で見つめ合う蒼汰の瞳には、霊の恐怖に呑まれたような暗い色は浮かんでいなかった。
蒼汰の低く落ち着いた声の響きに、月乃はコクンと小さく頷き、縋り付くように蒼汰のジャージの胸元をギュッと固く握りしめた。
「……先生!」
月乃の落ち着きを取り戻したことでハッと我に返った蒼汰が、暗い校舎に向かって叫んだ、その直後。
ギィ……と重い扉が開く音がして、暗闇の中からローレンツがゆっくりと姿を現した。
白衣にはべっとりと赤黒い血のような汚れが付着している……破れてはいない……怨霊による物理的な攻撃は無いのだろうか。
しかし、その歩みは相変わらず僅かな隙も狂いもなかった。
「無事です……」
ローレンツは懐から煙草を取り出して火をつけると、紫煙を夜の闇へと深く吐き出した。
「しかし、この時間の旧校舎は危ない。今後は気をつけることです。……企画委員の初日から、命を落とされてはたまりませんのでね」
それだけ言い残すとローレンツは駐車場に停めてあった、父親のお下がりだという古い型のベンツEクラスに乗り込んだ。
重厚なエンジン音が夜の静寂を切り裂き、テールランプが赤い尾を引いて走り去っていく。
静けさが戻った昇降口の前。
月乃は人目も憚らず、蒼汰の胸に顔を埋めたまま、いつまでもその腕の中から離れようとはしなかった。
蒼汰もまた、腕の中にいる幼馴染の華奢な背中を、無意識のうちに強く抱きしめ返していた。
開校八十周年記念企画――――過剰に遭遇する怪異の群れ……彼らの日常は後戻りできない異界へと進み始めていた。




