86_アンドロイドは電気羊の夢を見るか。
魂があるのかないのかという問いは洋の東西・そして時代を問わず人気のあるテーマですよね。創作でもいろいろな作品で目にします。
特に私の中で印象的な作品が、この回のタイトルにも引用させてもらったフィリップ・K・ディックのSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』です。かの有名なSF映画『ブレードランナー』の原作です。
フィリップ・K・ディックという作家は、西洋において神聖視されていた『精神』『魂』というものが揺らいでしまうものだと言うことに悲劇を感じているように見えます。それは例えば『トータル・リコール』における『偽の記憶を植え付けられ偽の人生の住人となってしまう男』であったり、『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』における麻薬によって『本来あるべき世界』が混沌に覆われてしまう描写であったり……。そして『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』においては、人造人間が『人間』とは何か・魂とは、感情とは……というところを突きつけてくる。
とはいえ、私から見ればそれはあくまで西洋的な物の考え方です。魂には何か神秘的な本質があるはずであるというのは、私からはイデア論の延長線上に見えます。
私は昔から、人は「うず」のようなものであると考えています。生命とはつむじ風のようなものです。うずには力があり、影響力があり、発生機序があり、中心がある。境界線も、マクロな目でならあるように見える。
しかしどうでしょう。うずとうずではない場所を厳密に区別することはできるでしょうか? 空気のうずは、うずの内側も外側も空気であるのに? うずには中心がありますが、ではうずの中心はうずの本質でしょうか? うずが無くなった後でもその本質は残り得るでしょうか?
自然や宇宙から何かを分離できるということそれ自体を私は信じていません。うずはそれが発生する前もそれがある間もそれが去った後も、自然の一部なのであり特別に分離できるようなものではないと私は考えています。それでも私たちは、うずを見てそれをうずだと思ってしまうし、うずの残した痕跡を見てはうずがそこにあったことに思いを馳せてしまう。
うずが見た夢は、うずがほどけて消えるでしょう。アンドロイドも電気羊の夢を見るかもしれません。しかしそれは世界にほどけて溶ける運命にあるはずです。私たちのそれと同じように。「雨の中の涙のように」。




