Ep 7.『忘れ物を返すだけのはずだった。』
今回は、ちょっとした忘れ物から始まるお話です。
何気ない会話の中にも、その人らしさが見えることってありますよね。
瑆と灯乃の、いつもとは少し違う日常をお楽しみください!
朝の教室には、いつもと変わらない騒がしさが広がっていた。
窓際の席では、何人かの男子が昨日のテレビ番組について盛り上がっている。廊下からは別のクラスの生徒たちの声が聞こえ、教室の前方では女子たちが机を囲んで楽しそうに話していた。
そんな光景を横目に、俺は自分の席へと向かう。
いつも通りの朝。
いつも通りの教室。
そして、いつも通りの平穏な安全ボッチライフ。
……そのはずだった。
机の横に掛けた鞄を開き、中を確認する。教科書、筆箱、ノート。必要なものは一通り揃っている。
その中に、ひとつだけ普段は入っていないものがあった。
消しゴムだ。
昨日、甘城が俺の部屋に忘れていったもの。特別なものではない、ごく普通の消しゴムだった。白い本体には少しだけ鉛筆の汚れが付いていて、角も丸くなり始めている。
わざわざ持ってくる必要があったのかと言われれば、別にそんなことはない。次に勉強するときに返せばよかっただけだ。
けれど、昨日の帰り際に気づいたとき、俺は何となくそれを鞄にしまっていた。
……まあ、忘れ物を返すのは当然のことだろう。
そう自分に言い聞かせながら、俺は消しゴムを筆箱の横に置いた。
問題は、いつ返すかだ。
甘城は朝からクラスメイトに囲まれていた。誰かが話しかければ笑顔で応じ、別の誰かが近づけばそちらにも自然に話を振る。まるで、教室の中心にいることが当たり前であるかのようだった。
あの輪の中に自分から入っていくなんて、考えただけでも気が重い。
別に急いで返す必要はない。昼休みでもいいし、放課後でもいい。何なら次の勉強会のときでも構わない。
……そうだ。今すぐでなくてもいい。
俺がそんな結論にたどり着いたところで、教室の入口が少しだけ騒がしくなった。
「おはよう、瑆くん!」
聞き慣れた声が、こちらに向かってくる。
顔を上げると、甘城灯乃が立っていた。周囲にいた生徒たちに挨拶を済ませたのか、いつもの明るい表情を浮かべている。
「よう、おはよう。朝から元気だな」
「えへへ。朝だからこそ元気にしないとね。瑆くんは眠そうだけど」
「普通だ。これが俺の標準状態」
「それ、昨日も言ってなかった?」
「いや、気のせいだろ」
「そうだったっけ? アハハ!」
甘城は小さく笑い、俺の机の横に目を向けた。
「今日は何か持ってきたの?」
「……別に」
「今、何か隠したよね?」
「隠してない」
「ほんとかなー? 気になるねぇー。」
どうやら、筆箱の横に置いた消しゴムが見えていたらしい。
俺は一度だけ周囲を確認した。近くにいる生徒たちはそれぞれの会話に夢中で、こちらを気にしている様子はない。
「……その、だな。これ、お前のだろ?」
そう言って消しゴムを差し出す。
甘城は一瞬だけ目を丸くした。
「あっ……これ、昨日の!」
「帰ったあとに机の上に残ってた。忘れていったんだろ」
「うわ、本当だ。全然気づかなかった……」
彼女は両手で消しゴムを受け取ると、表面を確かめるように眺めた。
「ありがとう。わざわざ持ってきてくれたんだね」
「いや、持ってきたっていうか、鞄に入れてただけだ」
「それを持ってきたって言うんじゃないの?」
「うるせぇ。細かいことは気にするな。」
「アハハ!」
甘城はまた楽しそうに笑った。
それから、消しゴムを筆箱の中にしまう。どうやら、いつも使っているものらしい。新しいものに替える気はないようだった。
「それ、結構使ってるんだな」
「うん。まだ使えるしね」
「角も丸くなってるぞ」
「そうだけど、使いやすいんだよ。手に馴染んでるっていうか」
そう言いながら、彼女は筆箱のファスナーを閉じた。
たかが消しゴムひとつ。別に、そこまで大切にするようなものでもないと思う。
けれど、使い慣れたものを簡単に手放したくないという気持ちは、少しだけ分かる気がした。
「瑆くんって、物を長く使うタイプ?」
「物による。使えるなら使うし、壊れたら買い替える」
「うーん、合理的」
「いや、それが普通だろ」
「でも、気に入ったものって、なかなか手放せなくない?」
甘城はそう言って、筆箱を机の上に置いた。
「私は、そういうの結構あるよ。新しいものもいいけど、長く使ってるものには思い出もあるから」
「思い出、ね……」
俺は自分の筆箱に目を落とした。
特別な思い入れがあるわけではない。使いやすいから使っている。それだけだ。
「まあ、分からなくはない」
「でしょ?」
甘城は少し得意げに頷いた。
その表情は、昨日の夕方に見せていたものとは少し違っていた。いつもの明るい笑顔ではあるけれど、どこか自然体というか、無理に周囲へ合わせているようには見えない。
……気のせいかもしれないが。
「じゃあ、私そろそろ席に戻るね。返してくれてありがとう、瑆くん」
「ああ。もうなくすなよ」
「もう、なくさないって! まず無くしてないし!」
彼女はそう得意げに言って、自分の席へ戻っていった。
その背中を見送ってから、俺は机に向き直る。
忘れ物を返しただけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう考えていたのだが。
「おーい、瑆」
今度は別の声が聞こえた。
顔を上げると、恵がこちらを見ていた。いつものように、どこか面白いものを見つけたような顔をしている。
「朝から甘城と話してたな」
「忘れ物を返しただけだ」
「へぇー。忘れ物ねえ」
恵は俺の机の端に手を置き、にやりと笑った。
「それで、何を話してたんだ?」
「消しゴムの話」
「消しゴム?」
「そうだ」
「……なんか、平和だな」
何が言いたいのか分からない。
「そもそも、お前には関係ないだろ」
「いやいや、気になるじゃん。最近お前、甘城と話す機会が増えてるし」
「勉強を教えてるからだ」
「それは知ってるって。けど、勉強以外の話もするようになったんだな」
恵はそう言って、俺の隣の席に腰を下ろした。
「まあ、いいんじゃないか? 普通に話せる相手がいるのは」
「普通に話せる相手、ね……」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ考えた。
甘城とは、確かに以前より話すようになった。勉強を教えるために家へ来ることもあるし、学校でも時々声をかけられる。
けれど、それを友達と呼べるのかは分からない。
そもそも、俺と甘城では普段いる場所が違う。彼女は誰とでも話せる人気者で、俺はできるだけ人と関わらずに過ごしたい人間だ。
同じ教室にいるからといって、簡単に分かり合えるわけではない。
「……別に、特別なことじゃない」
「はいはい。そういうことにしておくよ」
恵はそれ以上追及することなく、自分の席へ戻っていった。
その後、授業はいつも通りに進んだ。
黒板に書かれる文字をノートに写し、先生の説明を聞く。窓から差し込む光は少しずつ角度を変え、教室の床に細長い影を作っていた。
昼休みになると、教室は再び賑やかになる。
弁当を広げる生徒、購買へ向かう生徒、机を寄せて話し込む生徒。いつもの光景だ。
俺も鞄から弁当を取り出し、静かに食べ始めた。
少し離れた場所では、甘城が女子たちと一緒に昼食を取っている。楽しそうな声が時折こちらまで届いてきた。
彼女は本当に、誰とでも自然に話せるらしい。
昨日、俺の部屋で見せた落ち着いた表情とは違う。けれど、どちらかが嘘だと決めつけるのも違う気がした。
人には、相手や場所によって見せる顔がある。
俺だってそうだ。学校ではできるだけ目立たないようにしているし、恵と話すときは多少気を抜いている。家にいるときと同じ自分を、誰にでも見せているわけではない。
だったら、甘城だって同じなのかもしれない。
……いや、考えすぎだな。
俺は弁当の最後の一口を食べ、蓋を閉じた。
午後の授業も終わり、放課後がやってくる。
帰り支度を始める生徒たちの声が、教室のあちこちから聞こえていた。部活動へ向かう者、友人と帰る者、それぞれが自分の予定に向かって動き始める。
俺も教科書を鞄にしまい、席を立とうとした。
「瑆くん!」
聞き慣れた声に呼び止められる。
振り返ると、甘城がこちらへ歩いてきていた。
「どうした?」
「今日の勉強なんだけど、いつも通りで大丈夫?」
「ああ。特に変更する予定はない」
「よかった。じゃあ、あとでね」
それだけ言うと、彼女は軽く手を振って友人たちの方へ戻っていった。
俺はその姿を見送りながら、鞄の肩紐を持ち直す。
今日もいつも通りの一日だった。
忘れ物を返して、少し話して、授業を受けて、放課後になった。それだけのことだ。
それなのに、朝の短い会話が妙に頭に残っている。
使い慣れたものには思い出がある。
そんな、何でもない言葉だ。
人との関係も、同じなのだろうか。
長く一緒に過ごせば、自然と大切になっていくものなのか。それとも、ほんの少しの出来事がきっかけで、相手のことを意識するようになるのか。
俺にはまだ、よく分からない。
「……まあ、考えても仕方ないか」
小さく呟き、教室を出る。
廊下の窓から差し込む夕日が、床を淡い橙色に染めていた。
今日も、いつも通りの ーはずだった。
だが、日に日に変わってきている気がする。
ただ、明日もまた甘城と話すことになるのだろうと思うと、ほんの少しだけ、いつもとは違う気がした。
第7話を読んでいただきありがとうございます!
今回は大きな出来事こそありませんでしたが、瑆と灯乃の何気ない会話を中心に描いてみました。
少しずつ変わっていく二人の関係を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。
次回もよろしくお願いします!




