Ep 6.『いつも通りの“彼女”の、はずだった。』
いつも通りの勉強会。
いつも通りの甘城。
……のはずだった。
人には、まだ知らない一面がある。
そして、それを知りたいと思う理由も、人それぞれなのかもしれない。
窓の向こうでは、夕方の空がゆっくりと色を変え始めていた。
オレンジ色の光が住宅街の屋根を照らし、向かいの家の窓に反射している。遠くから聞こえる車の音も、昼間に比べればずいぶん少なくなっていた。
俺の部屋には、数学の教科書とノートが広がっている。
そして、その向かいには甘城灯乃が座っていた。
最近では、すっかり見慣れた光景だ。
「瑆くん、ここなんだけど。途中までは分かるのに、最後の計算でいつも間違えちゃうんだよね」
甘城はノートの一部分を指で示しながら、困ったように眉を寄せていた。
「そこは計算の順番が違う。焦らず、一つずつ確認してみろ」
「うーん……あ、本当だ。ここで符号を間違えてる」
「そういうこと。答えを急ぐより、途中の式を丁寧に書いた方がいい」
「分かってるんだけどね。早く解こうとすると、つい間違えちゃうんだよ」
「だったら、早く解こうとしなければいい」
「それができたら苦労しないんですけどー!」
甘城はシャープペンシルを持ったまま、少しだけ頬を膨らませた。
その様子を見て、俺は小さく息を吐く。
最初の頃と比べれば、彼女もずいぶん成長した。以前は問題文を読んだだけで困った顔をしていたのに、今では自分で考えて、間違えたところを見つけられるようになっている。
教えている側としても、悪い気はしない。
「よし、できた!」
しばらくして、甘城がノートをこちらに向けてきた。
途中式を確認し、最後の答えに目を通す。
「正解。今度はちゃんとできてるな」
「本当? やった!」
「さっきの説明を覚えていたら解ける問題だしな」
「それでも解けたんだから、褒めてくれてもいいと思うんだけど」
「はいはい。よくできました」
「なんか適当じゃない?」
そう言いながらも、甘城は嬉しそうだった。
窓から差し込む夕日が、彼女の髪の端を淡く照らしている。学校で見かけるときは、いつも周りに人がいて、笑顔を向ける相手も絶えない。
けれど、今この部屋には俺と甘城しかいない。
誰かの視線を気にする必要も、周囲の話し声に合わせる必要もない。
それでも彼女は、いつも通り明るかった。
「ねえ、瑆くん。ちょっと休憩しない?」
「まだそんなに時間は経ってないぞ」
「でも、結構集中したよ。頭が疲れちゃった」
「問題を三つ解いただけだろ」
「三つも解いたんだよ。しかも、ちゃんと自分で考えたんだからね」
「そのうち一つは途中で間違えてたけどな」
「うっ……そこは言わなくてもいいじゃん」
甘城はノートを閉じ、机の上にそっと置いた。
俺もシャープペンシルを置く。時計を見ると、確かに少し休憩を挟んでもいい時間だった。
窓の外では、夕日が少しずつ低くなっている。さっきまで明るかった部屋の隅には、薄い影が伸び始めていた。
「五分だけな」
「やった。瑆くんって、意外と優しいよね」
「勉強を続けても集中できないだろ」
「そういうところだよ」
「どういうところなんだよ……」
甘城は小さく笑った。
それから、窓の外へ視線を移す。
「……静かだね」
不意に、そんな言葉が聞こえた。
「そりゃ、家だからな。学校とは違うだろ」
「うん。学校って、いつも誰かの声が聞こえるでしょ? 休み時間も、授業の前も、放課後も。静かになる時間って、あんまりないから」
彼女は窓の外を眺めたまま続ける。
「だからね、こういう時間って少し、私的には落ち着くんだよね」
俺は少し意外に思った。
「甘城って、にぎやかな方が好きなのかと思ってた」
「あはは。そう見える?」
「まぁそうだな。少なくとも、学校ではそうだろ。いつも誰かと話してるし」
「まぁ、にぎやかなのも嫌いじゃないよ。でも、ずっとあの調子だと疲れちゃうこともあるし」
そう言って、彼女は窓の外からこちらへ視線を戻した。
その表情には、いつもの明るさとは少し違う穏やかさがあった。
誰かに見せるための笑顔というより、何も考えずに自然と浮かんだような表情。
ほんの一瞬だったけれど、俺にはそれが少し不思議に見えた。
「……そういうものなのか」
「そういうものなんですー。瑆くんだって、ずっと誰かと一緒にいたら疲れるでしょ?」
「まあ、それはそうだな」
「でしょ?」
甘城は納得したように頷いた。
考えてみれば、俺だって学校で考えていることを全部口にしているわけじゃない。むしろ、言わずに済むなら何も言わない。
人にはそれぞれ、他人に見せる部分と見せない部分があるのだろう。
「じゃあ、瑆くんは学校にいるときと家にいるときで違う?」
「俺は別に変わらないと思うけど」
「本当に? 家ではもっとおしゃべりだったりしない?」
「そんなわけないだろ。家でも大して変わらない」
「そっか。なんとなく、瑆くんらしいね」
甘城は机の上に頬杖をついた。
「でも、瑆くんって学校でも家でも瑆くんだよね。無理して誰かに合わせたりしなさそう」
「……それは褒めてるのか?」
「うん。……たぶん!」
「たぶんって何だよ」
「あはは、ごめんごめん」
彼女の笑い声が、静かな部屋に広がった。
こうして話していると、甘城のことを少し分かったような気がする。
学校で見かける彼女とは違う一面。いつも明るいわけではなく、静かな時間を好むこともある。
それだけのことかもしれない。
けれど、俺が知っている甘城灯乃は、まだほんの一部分なのだろう。
「ねえ、瑆くん」
「今度は何だ?」
「人ってさ、見えているところだけで、その人のことを分かったつもりになっちゃうことってあると思う?」
唐突な質問だった。
甘城は机の端を指先でなぞりながら、こちらを見ている。
「急にどうしたんだよ……まぁ」
「あるんじゃないか。というか、普通はそうだろ。相手の全部なんて分かるわけないし」
「そっか」
「それに、全部知る必要があるとも思わないけどな」
俺としては、ごく普通の答えだった。
他人には他人の事情がある。知らない部分があって当然だし、無理に踏み込む必要もない。
それが俺の考えだ。
しかし、甘城は少しだけ考え込むように視線を落とした。
「私は、少し知りたいけどな」
「何を?」
「その人の、普段は見えないところ。そういうところを知ったら、今までとは違う見方ができるかもしれないでしょ?」
彼女の声は、さっきよりも少し静かだった。
「……まあ、そうかもな。」
「好きな人とかだったら、なおさら」
思いがけない言葉に、俺の手が止まった。
「好きな人って……」
「あっ、いや! 別に今、誰かのことを言ったわけじゃないよ!?」
甘城は慌てて両手を振った。さっきまで落ち着いていた表情が、急にいつもの調子へ戻っていく。
「聞いてない」
「そ、そうだよね! うん、そういうこと!」
彼女は少し早口になり、手元のノートへ視線を戻した。
俺も、それ以上は何も言わなかった。
恋愛。
正直、俺にはあまり縁のない話だ。
誰かを好きになるとか、相手のことをもっと知りたいとか。そういう感情がどういうものなのか、俺にはよく分からない。
ただ、誰かを好きになったら、その人の知らない部分まで知りたくなるものなのだろうか。
それとも、知らないままでいたい部分もあるのだろうか。
窓の外では、夕日が建物の向こうへ沈みかけていた。部屋の中も少しずつ暗くなり、机の上に広げたノートの白さだけが目立っている。
「……瑆くん?」
「ん?」
「そろそろ勉強に戻ろうか。五分って言ってたのに、結構休んじゃったし」
「あー、確かにそうだな」
甘城は何事もなかったようにシャープペンシルを持ち直した。
俺も教科書を開く。
それからは、いつも通りだった。
分からない問題を説明して、間違えたところを直して、次の問題へ進む。甘城が正解すれば喜び、間違えれば少し悔しそうにする。
何も変わらない。
少なくとも、表面上は。
やがて勉強会が終わる頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
甘城は教科書を鞄にしまい、忘れ物がないか机の周りを確認している。
「今日もありがとう、瑆くん。最初の頃より、だいぶ分かるようになってきた気がするよ」
「それならよかった。今日やったところは、次までに復習しておけよ」
「はーい。頑張ります」
「不安なんだが、本当に分かってるのか?」
「もちろんだよ!……たぶん」
「また、"たぶん"なのかよ」
最後まで、彼女は明るかった。
玄関まで見送ると、甘城は靴を履いてこちらを振り返った。
「じゃあ、またね」
「ああ。またな」
扉が閉まる。
家の中に、再び静けさが戻ってきた。
俺は部屋へ戻り、机の上を片づけ始める。教科書を棚に戻し、ノートを重ね、シャープペンシルを筆箱にしまう。
そのとき、机の端に小さな消しゴムが残っていることに気づいた。
「……忘れ物か」
甘城のものだろう。
明日、学校で渡せばいい。
そう考えて、消しゴムを机の隅に置いた。
それから、椅子に座り直す。
今日も、いつも通りの勉強会だった。
けれど、少しだけ違った気がする。
学校で見せる笑顔。静かな時間を好む一面。そして、好きな人のことをもっと知りたいという言葉。
どれも、俺が今まで知らなかった甘城の一部分だ。
彼女は、俺が思っていたよりもずっと複雑な人間なのかもしれない。
「甘城って、案外分かるようで分からない、不思議なやつだな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
窓の外には、街の明かりがいくつも浮かんでいる。
明日になれば、また学校でいつもの甘城に会うのだろう。
きっと、いつも通りに笑って、いつも通りに誰かと話している。
でも。
今日見たあの表情を、俺はもう知らないふりできないのかもしれない。
……まあ、別に気にすることでもない。
………はずだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は机の隅に置いた消しゴムをもう一度見た。
第6話を読んでいただきありがとうございます!
今回は、いつもとは少し違う灯乃の一面が垣間見えるお話でした。
誰にでも見せる顔と、そうではない顔。
人を好きになるということは、その人の知らない部分まで知りたいと思うことなのかもしれません。
まだまだ、お互いに知らないことばかりの二人。
これから少しずつ変わっていく関係を、見守っていただけたら嬉しいです。
次回もよろしくお願いします!




