Ep 5.『すぐに帰るはずだった。』
今回は、いつも通りの勉強会……のはずだった。
少しだけ予定が変わった、そんな放課後のお話です。
放課後。
俺の部屋には、数学の教科書とノート、それからシャープペンシルの音だけがあった。
机を挟んで向かいに座っているのは、甘城灯乃。こうして二人で勉強するようになってから、まだそれほど日は経っていない。それでも、最初に家へ招いた日のような落ち着かなさは、少しずつ薄れてきた。
もちろん、完全に慣れたわけじゃない。
自分の部屋にクラスメイトがいる。それも、教室ではいつも周りに人が集まっている甘城が、当たり前のように俺の机でノートを広げている。冷静に考えれば、今でも十分に不思議な光景だ。
「瑆くん、ここなんだけど」
甘城がノートの端を指で押さえた。さっき説明したばかりの問題だ。
「そこは、今の説明で分かったんじゃなかったのか?」
「うん。説明を聞いてるときは分かった気がしたんだけど……」
「気がしただけか」
「うっ、釘刺された気分。そう言われると、何も言い返せない……」
甘城は困ったように眉を下げ、それから小さく笑った。
俺はもう一度、ノートに式を書き込む。途中の計算を飛ばさず、できるだけ簡単な言葉で説明する。甘城は今度こそ理解しようと、ペン先を動かしながら真剣に聞いていた。
その横顔を見ていると、普段の教室での姿とは少し違って見える。教室では誰かに話しかけられれば明るく返し、いつも笑顔を絶やさない。けれど、勉強しているときの甘城は、分からないことに悩んだり、答えが合えば素直に喜んだりする、ごく普通の同級生だった。
……まあ、だからといって、特別な感情があるわけではない。はず…。
俺は余計な考えを追い払うように、ノートの問題を指で叩いた。
「じゃあ、今度は自分で解いてみろ」
「はいっ!」
甘城は背筋を伸ばし、問題に向き直った。
しばらく、部屋にはペンの走る音だけが続いた。窓の向こうから、遠くを走る車の音がかすかに聞こえる。夕方の光がカーテンの隙間から差し込み、机の上に細長い影を作っていた。
「……できた!」
甘城がノートをこちらへ向ける。
途中の式を確認し、最後の答えまで目を通す。計算に少しだけ不安なところはあるが、考え方は合っていた。
「正解」
「やった。今度はちゃんと分かったよ」
「次に同じ問題が出ても解けるようにしておけよ」
「そこは復習しておきます!」
甘城は得意げに胸を張った。さっきまで悩んでいたのがまるで嘘みたいだ。
そんなやり取りをしているうちに、時計の針はいつもの終了時間に近づいていた。今日はここまででいいだろう。俺が教科書を閉じると、甘城もそれに気づいてノートを片づけ始めた。
「今日もありがとう、瑆くん」
「礼を言うほどのことじゃない。ちゃんと復習しておけよ」
「はーい!」
甘城は鞄に筆記用具をしまい、椅子から立ち上がった。俺も玄関まで見送るために部屋を出る。いつも通りの流れだ。勉強をして、片づけて、甘城が帰る。それだけのことだった。
ところが、玄関へ向かう途中で、窓の外が目に入った。
雨が降っていた。
最初は、ガラスに小さな水滴がついているだけかと思った。けれど、よく見ると庭の地面にはいくつもの雨粒が跳ね、道路の色も少しずつ濃くなっている。さっきまで空は明るかったはずなのに、雲が広がり、あたりの景色を薄暗くしていた。
「……あれ?」
隣にいた甘城も窓の外を見上げた。
「雨、降ってるね」
「ああ。いつの間に……」
窓に当たる雨音が、少しずつ大きくなっていく。どうやら、すぐに止みそうな降り方ではない。
甘城は鞄を開け、中を確かめ始めた。教科書やノートを避け、奥の方まで探している。何を探しているのかは、聞かなくても分かった。
「……傘、持ってきてないや」
「昼は晴れてたからな」
「うん。帰るころには止むかなって思ってたんだけど」
甘城は窓の外を見ながら、少し困ったように笑った。
俺も玄関先から外を確認する。屋根のある場所までは少し距離があるし、この雨の中を走っていけば、鞄も制服も濡れてしまうだろう。かといって、傘を貸せば俺の分がなくなる。家にもう一本あったかどうか、すぐには思い出せなかった。
どうしたものか。
別に、雨が止むまで待っていけばいい。それが一番簡単な話だ。けれど、わざわざ引き止めるように聞こえないだろうか。そんなことを考えていると、甘城がこちらを見た。
「瑆くん、どうしようか?」
「……雨が止むまで、ここで待っていればいいだろ?」
「えっ、いいの?」
「いいも何も、この雨の中を帰らせるわけにはいかないだろ」
できるだけ何でもないことのように答えたつもりだった。
甘城は一瞬だけ目を丸くして、それから、ほっとしたように表情を緩めた。
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
「大げさだな。雨宿りくらい普通だろ」
「でも、助かるよ」
そう言って甘城は、もう一度窓の外へ目を向けた。
俺もつられて外を見る。雨粒は途切れることなく落ち続け、道路の端には小さな水たまりができ始めていた。空はまだ明るさを残しているのに、雨のせいでいつもより時間が遅くなったように感じる。
とりあえず、部屋に戻って待つことにした。甘城が椅子に座り、俺も少し離れた場所に腰を下ろす。さっきまで勉強していた机の上には、閉じた教科書と、使い終えたノートが重なっている。
勉強は終わった。帰る予定も、いったん先送りになった。
けれど、何を話せばいいのかは分からない。
教室なら、周りに人がいる。勉強中なら、問題について話せばいい。だけど今は、ただ雨が止むのを待っているだけだ。静かな部屋の中で、窓を打つ雨音だけが続いている。
「……なんだか、不思議だね」
甘城がぽつりと言った。
「何が?」
「いつもは勉強が終わったら、すぐ帰るでしょ? こうして何もしないで待ってるのって、ちょっと珍しいなって」
「まあ、そうだな」
「でも、こういう時間も……その……悪くないかもね」
甘城は窓の外を眺めたまま、穏やかに笑った。
俺は返事に困って、視線を机の上へ落とした。別に、特別なことをしているわけじゃない。ただ雨が降っていて、帰れないから待っている。それだけだ。
それなのに、いつもの勉強会とは少し違う時間が流れているような気がした。
しばらくして、雨音が少しずつ弱くなってきた。窓の外を見ると、さっきまで白く霞んでいた道路の向こう側が、ぼんやりと見えるようになっている。完全に止んだわけではないが、これなら帰れそうだ。
「少し弱くなったな」
「本当だ。これなら大丈夫そう」
「気をつけて帰れよ」
「うん。今日はありがとう。勉強も、雨宿りも」
甘城は鞄を肩にかけ、玄関で靴を履いた。
「じゃあ、またね。瑆くん」
「ああ。またな」
扉が閉まると、家の中はいつもの静けさに戻った。
俺は玄関に立ったまま、しばらく外の雨を眺めていた。さっきまでそこにいた甘城の声が、まだ少しだけ耳に残っている気がする。
予定より、少し長い勉強会になった。
ただそれだけだ。
……そういうことにしておこう。
窓の外では、弱くなった雨がまだ静かに降り続いていた。
お読みいただきありがとうございます!
今回は、突然の雨によって生まれた二人だけの時間を描きました。
いつもとは少し違う放課後。
瑆にとって、この時間はどんなものだったのでしょうか。
次回もよろしくお願いします!




