第30話 鍋の婆と鍋守り
町の人たちは、国の神よりも先に、竈の神を拝みます。
鯨のよだれ亭の帳場の老婆が、千年鍋に入れる縄には名前を唱えない決まりだ、と言いました。あの決まりがどこから来たのか、今日はそのお話です。
【町の信心】
◆鍋の婆
竈と味と記憶の神。千の舌を持つ老婆の姿で描かれる。鍋に残った味を守る神で、誰かが忘れてしまった味も、鍋の婆だけは覚えているとされる。
町の人は、食べる前にひと匙を床に落とす。鍋の婆への取り分である。国教は鍋の婆を「綯い母の下働き」としか認めていないが、下町と港町では、綯い母より先に名を呼ばれる神である。
◆鍋守り
千年鍋の火を絶やさない者のこと。資格も位もなく、宿や酒場の主が、いつのまにか鍋守りになっている。鍋守りは、町の人の生まれから死までの節目に立ち会う。
生まれた赤子の顔には千年鍋の湯気を当て、鍋の婆に顔を覚えてもらう。婚礼では、二人が同じ具をひとつずつ鍋に入れる。鍋がその具を吐き出さなければ、婚礼は認められる。人が死ねば、最後の縄を鍋に入れ、送り名を結んだ紐を取っ手に足す。縄を鍋に入れるとき名を唱えないのは、鍋の婆が、その人のいちばん覚えていた味を自分で選ぶからだ。
鍋守りの教えは短い。「死んだ者の味と名は鍋に入れて、生きている者が覚えておけ。覚えているあいだ、死者はそばにいる」。
国教から見れば、これは死者の縄を国へ返さない縄隠しの罪にあたる。それでも港町では、役人も見て見ぬふりをする。役人の母親もまた、千年鍋の湯気で顔を覚えてもらった者だからだ。
◆迎え鍋
一年に一度、送り月の満の夜に、家の戸口へ小さな鍋を置き、死んだ家族が好きだった汁を温めておく習わし。朝になって鍋が少しでも減っていれば、帰ってきた証だとされる。たいていは野良犬が飲んでいるのだが、それを口にする者はいない。
◆聖典にない段
国教の聖典に書かれていない創世の話が、ひとつだけ残っている。下町の年寄りしか語らず、語るときも、子どもが寝ついてからにする。鍋守りの中にも、その中身を知らない者は多い。
鯨のよだれ亭の帳場の老婆は、港町でいちばん古い鍋守りです。トウマがガルドの縄を鍋に入れたあの夜、彼女は紐を一本、取っ手に結び足しました。あの紐にどんな送り名を結んだのか、彼女は誰にも話していません。
次は、国の神の話を。この国の聖典に書かれた、世界の始まりのお話です。




