43.怒りの矛先5〜元公爵令息〜
ルイス。
かつては公爵家の跡継ぎとして将来を約束されていた少年だった。
何不自由ない生活。
最高の教育。
誰もが頭を下げる身分。
未来は輝いているはずだった。
だが今のルイスには爵位も。名誉も。未来もなかった。
残ったのは乙女ゲームの呪縛に囚われた嘘つきの家族である姉と消えない罪だけだった。
毎朝、まだ日も昇り切らないうちに起こされる。
粗末な朝食を食べ。重い資材を運び。土を掘り。石を砕く。
身体はすでに傷だらけだった。
それでも一番痛いのは身体ではない。
人々の視線だった。
ルイスが食堂へ入れば会話が止まる。
「来たぞ。」
誰かが呟く。
「女売り。」
「最低な奴。」
「よく平気な顔して生きてられるな。」
ルイスは聞こえないふりをする。
もう慣れた。
慣れてしまった。
最初の頃は怒った。
反論もした。
だが意味がなかった。
何を言っても。
『親子を娼館送りにした男』
その事実だけは消えない。
とりあえず適当な席へ座る。
すると近くにいた女性労働者が露骨に顔をしかめた。
「行こう。」
「うん。」
一人が立つ。二人が立つ。三人が立つ。
誰もルイスの近くに座ろうとしない。
まるで汚れたものを見るような目。
「気持ち悪い。」
若い女性が吐き捨てた。
「近くに座るぐらいなら、私だったら死んだ方がマシ。」
「親子を売った奴なんてね。」
ルイスの手が震える。
だが何も言えない。
言い返す資格などないと知っているからだ。
昼休憩。
労働者達の会話が耳に入る。
「リリア嬢の記事読んだか?」
「ああ。」
「今じゃ発明家として有名らしいな。」
「すごいよな。」
「それなのに昔はいじめやら盗作やら散々だった。」
「母親も亡くなったんだろ?」
「可哀想にな。」
そして。
視線がルイスへ向く。
「原因作ったのがあいつだ。」
「姉の言葉を信じて暴走した馬鹿。」
「もし俺がリリア嬢なら絶対許さねぇ。」
「俺も。」
「死ぬまで恨む。」
ルイスは俯いた。
心が少しずつ削れていく。
だが、それも当然だと思った。
それ程の罪を犯したのだから。
ルイスは逃げるようにその場から立ち去った。
そんなある日の仕事帰りだった。
空は赤く染まり始めていた。
宿舎への近道を通る。
たまたま人通りが少なかった。
ルイスは疲れていた。
「おーい。」
声が聞こえて振り向く。
帝国軍の軍服を着た、四十代くらいの太った見知らぬ男だった。
酒臭く、目が濁っていた。
ルイスは怪訝そうな顔をする。
「何ですか。」
男はにやりと笑う。
その笑顔に嫌なものを感じた。
「お前、有名人だよな。」
ルイスの表情が曇る。
「親子を娼館送りにした坊ちゃん。」
心臓が嫌な音を立てた。
男は楽しそうだった。
まるで面白い玩具を見つけたように。
「娼館が好きなんだろ?」
「・・・何が言いたい。」
男はさらに近付く。
「だったらさ。」
ぐっと顔を寄せてきた。
酒臭い息。
「俺とも遊ぼうぜ。」
ルイスの身体が凍り付く。
嫌だ。危険だ。
本能が叫ぶ。
男の手が肩に伸びる。
ルイスは反射的に振り払った。
「触るな!」
男は笑った。
「照れるなよ。」
その笑顔が恐ろしかった。
ルイスは走った。全力で。
後ろから足音が聞こえる。
追いかけてくる。
「待てって!」
待てるわけがない。
恐怖で息が詰まる。
心臓が暴れる。
路地を曲がる。
転びそうになる。
だが止まれない。
男が諦めずに追ってくる。
その時、背中に衝撃が走った。
服を掴まれた。
ビリィッ!!
シャツが大きく裂ける。
ルイスは悲鳴を上げた。
必死に身体を捻る。振り払う。逃げる。
その拍子に靴が脱げた。片方だけ。
だが拾えない。
拾ったら捕まる。
片方裸足のまま走った。
石畳が足裏を切る。
痛い。痛い。
でも止まれない。
怖い。怖い。怖い。
ようやく人通りの多い道へ飛び出した時。
男の姿はなかった。
ルイスはその場に崩れ落ちた。
肩で息をする。
全身が震える。
涙まで出てきた。
破れたシャツを見る。裸足になった片足を見る。
みっともない姿だった。
通行人が怪訝そうに見ている。
だが立ち上がれない。身体が動かない。
怖かった。
本当に怖かった。
ふと、リリアの顔が浮かんだ。
そして。
リリアの母エミリア。
会ったこともない女性。
だが、自分が娼館へ送った女性。
それが原因で死なせてしまった・・・自分が殺したも同然の女性。
ルイスの呼吸が止まりそうになる。
理解した。
いや、今まで理解したつもりだった。
罪だと分かっていた。後悔もしていた。
だが違った。
何も分かっていなかった。
ほんの数分。
見知らぬ男に性的な目で見られ、追い回されただけ。
それだけで。
こんなにも恐ろしい。
こんなにも怖い。
こんなにもおぞましい。
こんなにも心が壊れそうになる。
それなのに。
自分は、何の罪のない少女とその母親を。
自分の意思で。
自分の判断で。
娼館へ送った。
「うっ・・・。」
あの時の自分の異常性に吐き気が込み上げる。
胃の中の物を吐き出す。
涙が止まらない。
「ごめんなさい・・・。」
震える声が漏れた。
何度も。何度も。何度も。
謝る。
だが誰にも届かない。
リリアにも。
エミリアにも。
届かない。
死人は戻らない。
壊れた人生も戻らない。
ルイスは破れたシャツを握りしめた。
自分が犯した罪は。
人を傷付けた程度のものではない。
人の人生そのものを地獄へ突き落とした罪だったのだと。
その倫理観が、娼館に2人を送ろうなどと思う前に備わっていれば、今頃エミリアは・・・。
その夜。
ルイスは眠れなかった。
目を閉じるたび。
娼館で怯えるリリアと名前しか知らないエミリアの姿が浮かび続け、こうやって眠れぬ夜が何日も何週間も続き、朝になると死んだような顔で労働する。
そしてしばらくの間、中年男性を警戒し怖がりながら働くのだった。




