第九十六話 黒狐、奥乃院に立つ
扉が開いた瞬間、室内の空気が止まった。
蒼麻と麻那へ向けられた視線が、その隣に立つ女へ吸い寄せられていく。
艶やかな黒髪。人の姿を取りながら、人では決して持ち得ない気配を纏う女。
真響は集まった神代一族たちの視線を受けても、立ち止まりもしなかった。
むしろ、値踏みするように室内を見渡した。
「……多いな」
第一声がそれだった。
蒼麻が小声で言う。
「もう少しこう、挨拶とかない?」
「こいつらに必要か?」
「一応、ここ他人の本拠地だから」
真響は少し考えた。
「そうか」
それで終わった。
麻那が口元を押さえる。
室内には十数名ほどの人間が集まっていた。
神代一族の現当主、神代橘。その傍らには祭祀を担う紫苑。すでに到着していた宴をはじめ、今回の案件に関係する者たちが資料を囲んでいる。
その中の一人が椅子から立ち上がった。神代一族に仕える優秀な術者なのであろうと思われる。
「待て貴様」
真響がそちらを見る。
「なんだ」
「なんだ、ではない。ここがどこか分かっているのか」
「馬鹿か。ここは奥乃院であろうが」
「そういう意味ではない」
「なら違う言葉で言ってみろ」
男の眉が動く。
蒼麻は思わず額へ手を当てた。
麻那は何も言わない。真響の性格を知っているだけに、止めても仕方がないと思っているらしい。
男は声を低くした。
「妖狐が無断で立ち入っていい場所ではないと言っている」
「無断ではない」
真響は麻那を指差した。
「そこの妹に乗せてきてもらった」
麻那が一瞬だけ目を瞬かせる。
「まあ……そうですね」
「麻那様」
男が咎めるように名を呼ぶ。
「何を考えているのです」
「私が同行を認めました」
「妖狐ですぞ」
麻那の表情から笑みが消える。
「それはわかっています」
その答えに男が言葉を詰まらせた。
真響は興味を失ったように視線を逸らす。
「話はまだか?」
「貴様……」
男の神気がわずかに膨らんだ。
その瞬間だった。
真響の黒髪が、風もないのに僅かに揺れた。
一瞬で室内の温度が落ち、影が濃くなる。いくつかの黒い狐火が静かに灯った。
神代側の何人かが反射的に身構えた。
しかし真響は一歩も動いていない。
「くだらぬ問答は好かぬ。舌を焼くぞ」
その静かな声に、すぐさま蒼麻が割って入る。
「真響、待った」
「今度はなんだ」
「今日はそれ、やめよう」
真響は蒼麻を見て少し考える。
「……分かった」
爆ぜる寸前の膨れ上がりかけた妖気が、嘘のように消えた。
室内に別の意味での沈黙が落ちる。
今度は何人かの視線が蒼麻へ向いた。
たった一言でこれを止めるのか、と。
妖狐を、しかも黒狐を手懐けているとは。
そんな視線の意味に、蒼麻本人は気付いていなかった。
「何ですか?」
誰も答えない。
そばにいた宴がとうとう吹き出した。
「面白いものを見たよ」
「幕原さん、いや神代宴さん。ここに居るのはやっぱり本当に神代一族なんですね。何が面白いんです?」
宴は寒川大神の権能による簡易結界を展開していた。小さな怪異程度では絶対にこの場所に到達できないのだ。それを意にも介さず侵入してくる黒狐の狐火である。爆ぜればただでは済まないだろう。
「いや。あれを言葉で止められることに驚いているよ」
そして宴が真響を見る。
「初めまして黒狐殿。わたしは神代宴といいます」
真響は宴を見返す。
「真響だ」
その楽し気な表情から、どうやら宴は真響を気に入ったらしい。
紫苑は二人のやり取りには加わらず、真響を静かに観察していた。
やがて口を開く。
「黒狐・真響」
真響の目が紫苑へ向く。
「貴船に連なる黒狐で間違いありませんね」
「だったらなんだ?」
「確認です」
「貴様は見れば分かるであろうが」
「確証と推測は別物ですから」
真響は紫苑をしばらく見た。
「……おまえ、面倒だな」
「よく言われます」
「そうか」
不思議なことに、紫苑にはそれ以上噛みつかなかった。
その時、部屋の奥から落ち着いた声がした。
「そこまでにしましょう」
神代橘。
現在の神代一族を束ねる当主である。
六十代に差しかかり、髪には白いものが混じっている。声を荒らげることはほとんどなく、若い一族の者からは「橘様が本気で怒ったところを見たことがない」と言われるほど穏やかな人物だった。
だが、その評価には必ず続きがある。
――怒らせない方がいい。
桃は橘を「古い人だ」と評する。しかし、その判断を軽んじたことは一度もない。紫苑は祭祀に関する意見で衝突することがあっても、現当主としての資質には疑いを持っていない。鬼灯は「あの人は甘い」と口にしながら、最終的な裁定だけは必ず受け入れる。
竜胆に至っては、橘について多くを語ろうとしない。ただ一度だけ、「あの人だけは借りを返せない」と漏らしたことがあるという。
一族の中では、橘を最強と呼ぶ者はいない。
剣なら葵。
体術なら百合。
怪異の殲滅なら竜胆。
知略なら桃。
祭祀なら紫苑。
それぞれに橘を凌ぐ者がいる。
それでも、誰も橘に代わって当主になろうとはしなかった。
本家と分家。
保守と革新。
表と裏。
それぞれが勝手な理屈を抱え、時には互いを敵視する神代一族にあって、それら全ての話を最後まで聞き、最後には一つの決断へまとめることができる人物。
それが神代橘だった。
一族の古参は、時折こんなことを言う。
「橘様は、一族で一番強い人ではない」
そこで少し間を置き、
「一族が一番弱い時に、最後まで立っている人だ」
と続ける。
だから、橘が「そこまでにしましょう」と言っただけで、室内の空気は静まった。
大声ではない。
神気を見せつけてもいない。
しかし、それだけで室内の全員が自然と口を閉じる。
真響だけは閉じなかった。
橘を見る。
橘も真響を見る。
しばらく二人の視線が交わった。
「お前が橘か」
室内の何人かが息を呑む。
現当主を呼び捨て。しかも初対面である。
蒼麻は目を閉じた。
「真響……」
「何だ」
「いや、もういい」
橘は気分を害した様子もなかった。
「そうです。神代橘です」
「ふうん」
真響はじっと橘を見る。
「おかしな奴だ」
今度こそ空気が凍った。
麻那がさすがに小声で言う。
「真響さん、それはちょっと……」
「悪口じゃない」
「じゃあ何?」
真響は橘から目を逸らさない。
「この人、いっぱい入ってる」
蒼麻の表情が変わる。
橘も僅かに目を細めた。
神議。
神代一族を束ねる橘の特殊な神降し。
真響はその性質を、説明される前から何かしら感じ取っているらしい。
「一人なのに、一人じゃないみたい」
真響が続ける。
「気持ち悪い奴だ」
「結局悪口じゃない?」
蒼麻が呟く。
宴は肩を震わせていた。
橘は怒らなかった。
むしろ、ほんの僅かに笑った。
「なるほど。妖狐からはそう見えますか」
「見えるんじゃない、感じる」
橘は一度頷いた。
「では真響殿」
「殿はいらない」
「真響さん」
「さんもいらない」
「……真響」
「それでいい」
宴がとうとう声を上げて笑った。
「うちの当主に二度呼び方直させたぞ」
麻那は額へ手を当てている。
蒼麻はなぜか少しだけ申し訳ない気持ちになった。
橘だけが平然としていた。
「では、真響。あなたがここへ来た理由を聞いても?」
真響は即答した。
「蒼麻が行くからだ」
また室内が静かになり、蒼麻が振り返る。
「それだけ?」
「それだけじゃない、神殻は好かぬ」
紫苑が反応する。
「以前にも遭遇したことがあるのですね?いつ頃ですか」
「人間の暦など覚えてない」
あまりに堂々とした答えだった。
だが、次の言葉で空気が変わる。
「神殻は怪異じゃない」
真響の声から、先ほどまでの刺々しさが少し消えた。
「神でもない」
誰も口を挟まない。
「降りたかったものと、降ろしたかった人間。そのどっちも途中で壊れた残りもの」
蒼麻は真響を見る。
これまで真響が神殻について詳しく語ったことはなかった。
「だから好かぬ」
真響は静かに言った。
「見てると、気分が悪くなるでな」
紫苑が問う。
「同情ですか」
真響の目が鋭くなる。
「神を器に入れれば何でもできると思ってる人間にも。人間の器なんて気にせず降りようとする神にも怒りを覚える」
その言葉には、妖狐として長い年月を見てきた者だけが持つ重さがあった。
「どっちも馬鹿者だ」
宴が小さく笑う。
「神代一族の本拠地でそれを言いますか」
「だから言っておるのだ」
真響は宴を睨む。
「お前達もずっと同じことしてるのだから」
笑っていた宴の表情から、ほんの少しだけ軽さが消えた。
真響は室内を見渡した。
「神を降ろす、力を借りる、それは便利な言葉だ」
そして蒼麻を見る。
「でも、器が壊れたら終わりだぞ。取り返しはつかない」
麻那も兄を見る。蒼麻は何も言わなかった。
真響が何を言いたいのか、分かったからだ。
建葉槌命。
九尾狐の欠片。
神酒縫。
自分の中には今、あまりにも多くのものが入り始めている。
橘が静かに口を開いた。
「耳の痛い話です」
真響が橘を見る。
「なら覚えておけ」
「そうしましょう」
その答えが気に入ったのか、真響はそれ以上何も言わなかった。
橘は卓上の端末を操作した。
大型の画面へ九州の地図が映し出される。
「では、本題に入ります」
室内の空気が一変した。
表示されたのは九州北部。
山間部の一角が赤く示されている。
「第二の神殻が確認されたのは、本日未明」
紫苑が説明を引き継ぐ。
「最初の異変は、周辺地域で発生した局地的な地鳴りでした」
画面が切り替わる。
ひび割れた地面と山道。
倒れた木々。それら地面そのものが、何か巨大なものに内側から押し広げられたように奇妙に隆起している。
「人的被害は?」
麻那が尋ねる。
「現時点で死者は確認されていません。ただし、周辺住民には避難してもらっています」
「表向きの理由は?」
「地滑りの危険性です」
麻那は頷く。
蒼麻は画面を見つめる。
胸の奥が、微かにざわついた。車の中で感じたものと同じ。
神気とは違うもっと細いもの。何かが遠くで引っ張られている。
蒼麻は無意識に胸へ手を置いた。
真響がすぐに気付く。
「感じるのか?」
蒼麻が真響を見る。
「……少しだけだ」
室内の視線が再び蒼麻へ集まる。
紫苑が問う。
「何を感じる?」
「分からない」
蒼麻は正直に答えた。
「ただ……何かが引っ掛かってる」
「神気ですか?」
「なにか違うと思う」
蒼麻は画面へ近付いた。
赤く示された地点を見る。
「糸みたいな……」
その言葉に、萩を知る者の何人かが反応した。
麻那だけは意味を知っている。
神酒縫。
麻臣が蒼麻へ施した封印。
土地の記憶、人々の祈り、感謝を紡いだ無数の糸。
真響が蒼麻の横へ立つ。
「お前やっぱりまた変わった」
「昨日からそればっかりだな」
「本当の事だから」
真響は地図を見て僅かに眉を寄せた。
「……これ」
橘が問う。
「何か分かりますか」
真響はしばらく黙っていた。
「神気が広がってるんじゃない」
紫苑の目が鋭くなる。
「どういう意味ですか」
「逆」
真響は画面上の赤い地点を指差した。
「ここに集めてる」
室内が静まり返る。
「何を?」
麻那が尋ねる。
真響は答えた。
「土地の力」
蒼麻の胸の奥で、何かが強く震えた。
その瞬間、遠く離れた九州の山中で、大地が低く鳴った。
橘はすぐに立ち上がった。
「現地へ向かいましょう」
すでに移動手段は整えられていた。
奥乃院から一行は車両で都内のヘリポートへ移動し、神代側が手配したヘリで空港へ向かう。そこから九州へ飛び、現地では別働隊と合流する。
橘が同行者を確認していく。
麻那。蒼麻。宴。紫苑。
そして最後に、真響を見る。
「あなたにも同行をお願いします」
真響は少しだけ首を傾げた。
「最初から行くつもりだ」
「そうでしたね」
真響は蒼麻の肩を軽く指で押した。
「これを連れて帰るためについて行く」
蒼麻が振り返る。
「これって俺?」
「お前しかいないであろうが」
「せめて人扱いしてくれない?」
「している」
「本当に?」
麻那が思わず笑った。
緊張していた室内の空気がほんの少しだけ緩む。
だが、その中で橘だけは蒼麻を静かに見つめていた。
九尾狐の大きな欠片と麻臣の神酒縫、そして建葉槌命。
さらにその蒼麻の傍らに自ら立つ黒狐。
これまで別々に存在していたものが、一つの場所へ集まり始めている。
偶然なのか。それとも何かがそうさせているのか。
橘にはまだ判断できなかった。
ただ一つ。
第二の神殻が発生したこの時に、蒼麻が初めて神酒縫の糸を感じ始めた。
その事実だけは、決して軽く見るべきではないのかもしれない。
出発まで、あと三十分。
第二の神殻が待つ九州へ。
神代一族と、一柱の妖狐が動き始めた。




