第九十七話 第二の神殻
九州へ向かう機内で、誰も眠ろうとはしなかった。
窓の外には夜の雲海が広がっている。普段なら静かな景色だった。しかし蒼麻には、その遥か先から何かが引っ張っているように感じられた。
胸の奥が疼くが痛みではない。それは急に存在を認識した糸だ。
萩から神酒縫について聞くまで、蒼麻はこの感覚に名前を付けることができなかった。今なら分かる。
自分の中に張り巡らされた無数の何かが、九州の方角へ向かって僅かに震えている。
隣に座る真響が目を開いた。
「またか?」
「うん」
「強くなってるのか?」
「さっきよりも」
真響はそれだけ聞くと、窓の外へ目を向けた。
少し離れた席では、紫苑が現地から送られてくる情報を確認している。その表情は時間が経つほど険しくなっていた。
やがて端末を閉じる。
「状況がまた変わりました」
全員の視線が集まった。
「隆起範囲が拡大しています。いまは当初確認されていた範囲の、およそ三倍です」
麻那が尋ねる。
「避難誘導はどうしますか?」
「周辺住民については完了しています。ただし、このまま拡大が続けば次の集落も対象になります」
宴が腕を組む。
「速度はどの程度ですか?」
「一定ではありません。止まったと思えば、一気に数百メートル進む」
「生き物みたいですね」
「ええ」
紫苑は否定しなかった。
「しかも、地殻変動では説明できません」
画面へ現地の映像が映し出される。
山だった場所が、山ではなくなっていた。
谷が消えている。
川が途中で折れ曲がっている。
地面が盛り上がったのではない。
まるで巨大な手が土地そのものを掴み、別の形へ捏ね直している。現実ではない夢の中の世界を見ているようだった。
蒼麻は息を呑んだ。
「……何だよ、これ」
真響が画面をみたまま低く言う。
「これは土地を作ってる」
現地へ到着した時、その意味を全員が理解した。
風がなかった。鳥もなく虫の声すら聞こえない。
それなのに、大地だけが鳴っている。
ごう。
ごう。
腹の底へ響く低い音。
蒼麻は車両から降りた瞬間、足元へ視線を落とした。
地面がスロープのようにゆっくり動いている。
「……嘘だろ」
土がゆっくりと水のように流れているのだ。
岩も、砂も、木の根も何も関係ない。
あらゆるものが一つの方向へ引き寄せられている。
麻那が息を呑む。
「これ全部……」
紫苑が答える。
「神殻へ向かっています」
遠くの山肌が崩れた。
だが、下へ落ちない。
巨大な岩塊が宙へ浮き、山の向こうへ引きずられていく。
続いて地面が隆起する。
道路が割れた。
アスファルトが土ごと持ち上がり、数十メートル先で新しい地面の一部となる。
宴が初めて笑みを消した。
「これは洒落にならないな」
その時だった。
鳴り響く轟音に全員が振り返る。
遠くを流れていた川が消えた。
正確には、水が消えたのではない。
川床そのものが物理法則を無視して持ち上がった。
何百年、何千年とかけて水が削ってきた谷が、数秒で閉じていく。
水が行き場を失い、巨大な波となって左右へ溢れた。
「結界!」
紫苑の声が飛ぶ。
複数の術者が一斉に術を展開する。
だが、宴がすぐさま前へ出た。
「間に合わない、下がれ!」
両手を広げる。
神気が爆発的に膨れ上がった。
「――神降し」
大地へ幾重もの神紋が走る。
寒川大神。
八方除け。
あらゆる災厄の方位を制し、侵入を阻む凄まじい神威。
押し寄せた土石の濁流が見えない壁へ激突した。
水飛沫が夜空へ舞い上がる。
結界は耐え続け、宴が叫ぶ。
「今のうちに上へ急げ!」
全員が高台へ走る。
蒼麻も駆け出した。
しかし途中で足が止まる。
「……待ってくれ、これは」
麻那が振り返る。
「お兄ちゃん!逃げないと!」
「違う」
蒼麻は立ち止まって地面を見る。
感覚を凝らして無数の糸を感じ取った。
土地から伸びている。
山。川。道。田畑。学校。
小さな社に古い井戸。
そして酒蔵。
それぞれの場所に、人が積み重ねてきた記憶がある。
祈りがあり感謝がある。
それらが今、一本ずつ引き抜かれているのを蒼麻は感じるのだ。
「こいつ……土地だけじゃない」
紫苑が蒼麻を見る。
「何が見える」
「まだ見えない。でも、分かる」
蒼麻は胸を押さえる。
「こいつは土地に残ってるものまで引っ張っていってる」
麻那の表情が変わる。
「土地の記憶?」
「たぶんそうだ」
真響が蒼麻の横へ来た。
「だから気持ち悪いのだ」
その顔には、いつもの気怠さがなかった。
「土地を集めてるだけじゃない」
真響が遠くを見る。
「そこに定着した祈りや時間まで、一緒に引きずり集めてる」
その時、紫苑の端末へ新たな解析結果が届いた。
表示された文字を見た瞬間、紫苑の表情が固まる。
「……神格候補が出ました」
橘が静かに問う。
「誰です」
紫苑は画面から目を離さなかった。
「大地主神」
蒼麻には聞き覚えがあった。
大地主神。
土地そのものを鎮め、治め、国土の安定に関わる神格。
本来ならば、人の営みを支える側にある神だった。
宴が地面を見る。
「それが権能だけ暴走すると、こうなるのか」
「正確には、大地主神そのものではありません」
紫苑が答える。
「降ろし損ねた結果、神格から人格と神意が失われ、権能だけが残ったものです」
土地を治める。土地を整える。土地を一つにし整備し完成させる。
その権能だけが、命令を終えられず動き続けている。
麻那が呟く。
「……この場合は何をもって完成というの?」
誰も答えられなかった。
その問いこそが、この神殻の恐ろしさだった。
悪意はなく憎しみもない。
人間を殺したいわけでもない。
ただ土地を整え続ける。
山が邪魔なら崩す。谷が邪魔なら埋める。川が邪魔なら流れを変える。
村があれば、その下にある土地ごと組み直す。
県境も。国境も。人間が積み上げてきた歴史も。そんなものは何も関係ない。
神殻には意味がない。
紫苑が低い声で言った。
「このまま拡大した場合……」
一度、言葉が止まる。
「九州全域が対象になる可能性があります」
蒼麻が顔を上げる。
「九州全部ですか?」
「それで止まる保証もありませんが」
誰も何も言わなかった。
その時、大地が轟音と共にまた大きく揺れた。
今までとは違う。
一度だけ。巨大な心臓が脈打ったような震動。
山の向こうから、何かが立ち上がる。
月明かりを遮るほど巨大な影だった。
人の形に似ている。しかし人ではない。
岩。土。木の根。砕けた鳥居。
石垣。道路標識。
何百年もそこに存在した土地の欠片を継ぎ合わせた、異様な巨体。
頭部に顔はない。
ただ胸の中心に、巨大な神紋だけが浮かんでいる。
第二の神殻。
その姿を見た瞬間、蒼麻の身体から力が抜けた。
「っ……!」
膝をつく。
「お兄ちゃん!」
麻那が駆け寄る。
だが蒼麻の耳には届かなかった。
蒼麻は聞いた。声ではない何千、何万という音を。
祭りの囃子。子どもの笑い声。田植えの掛け声。
祝詞。楽しく騒ぐ酒宴。けたたましい泣き声。
誰かが誰かへ言った「ありがとう」。
土地に刻まれていた記憶が、神殻の中で混ざり合っている。
そしてさらに見えた。
蒼麻の瞳に、初めてはっきりと。これを何かの覚醒と呼ぶのだろうか。
無数の光の糸。あらゆる場所から伸びた糸が、第二の神殻へ吸い込まれている。
「……見える」
蒼麻が呟く。
麻那が少し呆然としている兄を見る。
「何が?」
「糸」
その瞬間。
第二の神殻が動いた。
腕らしきものを上げる。
ただ、それだけで次の瞬間、数百メートル先にあった山が消えた。
爆発も崩壊もない。山を構成していた土砂と岩石が、一斉に地面から剥がれた。
夜空を覆う瓦礫。そして再び巨大な濁流となって、神殻へ向かって流れ始める。
宴が叫ぶ。
「全員すぐに伏せろ!」
寒川大神の結界が展開される。
紫苑の祭祀結界が重なる。
複数の神代一族が神降しを開始する。
神気が夜空を染める。
それでも。
第二の神殻は止まらない。
人間など見ていなかった。神代一族など見ていなかった。それは道を歩く人間の足元にいる小虫に等しい。
存在を認識していない。ただ自らの権能を遂行している。
土地を集める。土地を整える。土地を完成させる。
永遠に。
真響が蒼麻の腕を掴んだ。
「早く立て」
「真響……」
「呆けてる場合じゃないだろうが」
その目は神殻だけを見ていた。
「来る」
「何?」
真響の顔から血の気が引いた。
「全部」
轟音が響いた。
左右の山々が同時に動き始める。谷が閉じ川が逆流する。
大地が隆起し彼らが立っている土地そのものが、第二の神殻へ向かって動き始めた。
神殻とは、神の力を持った怪物ではない。
神の権能から、慈悲も、理性も、終わりという概念すら失われたもの。
そしてそれは、人間が戦って勝つことを前提に生まれた存在ではないのである。




