第九十八話 神を止める者たち
大地が荒々しく流れていた。
比喩ではない。山を構成していた岩も、樹木も、道路も、田畑も、すべてが第二の神殻へ向かって動いているのだ。
「全員、宴の後ろへ!」
橘の声が飛んだ。
その一言で、ばらばらだった動きが変わった。
宴が最前線へ駆け出る。
「こういう役ですね!」
両手を大地へ向ける。
「――神降し」
再び神気が爆発する。これで3度目だ。
長時間この状態を維持すれば、人間としての器が壊れ、この場で第三の神殻が顕現しないとは言えない。
寒川大神。災厄を除き、方位を正し、侵入する禍を何もかもを阻む神威。
宴を中心として巨大な神紋が大地へ展開された。
流れてきた岩石が、見えない壁へ轟音と共に激突する。
衝撃で空気が震え、宴の身体が僅かに後ろへ滑る。
「重っ……!」
次の瞬間、さらに巨大な岩塊が飛来した。
「宴さん!」
麻那が叫ぶ。
「分かってる!」
結界が軋む。
神紋に亀裂が走る。
それでも宴は退かない。
二撃目。
三撃目。
寒川大神の神威が、そのすべてを受け続け止める。
だが紫苑はすぐに気付いた。
「宴、これは長くは持ちません!」
橘は神殻を見据えた。
「紫苑」
「はい」
「これは我々で止められますか」
紫苑は即答しなかった。大地主神の神紋。地形。霊脈。
神殻へ流れ込む土地の力、そのすべてを見比べる。
「止めることは不可能です」
麻那が振り返る。
「不可能?」
「今の術式では」
紫苑は続けた。
「ですが、遅らせることならできます」
橘が頷く。
「それで十分です」
その一言で紫苑は動いた。
懐から数十枚の札を取り出し、大地へ放つ。
札が風に乗り、周囲へ散る。間髪を入れず四方へ光が走る。
「四境固定」
巨大な結界が形成された。
大地の流れが、一瞬だけ止まる。だが。
ばきん。
術式の一角が割れた。
紫苑の眉が動く。宴はこんなものを何度も凌いでいたのか。
「……強い」
真響が横から言う。
「やり方が間違ってるぞ」
紫苑が振り返る。
「何がです」
「止めようとしてるから壊される」
「ではどうする」
真響は神殻を見る。
「流せばいい」
紫苑の目が細くなる。
「どこへ」
「戻す」
真響は足元を指差した。
「土地へだ」
紫苑が一瞬だけ考える。
そして理解した。
「なるほど」
宴が叫ぶ。
「二人とも、納得してないで早く説明して!全然わかりません!」
紫苑はすぐに札の配置を変え始めた。
「宴さん、結界を閉じないでください!」
「開けるの!?」
「一方向だけ」
「どっち!」
真響が指を差す。
「東」
「なんで!」
「川がある」
宴は一瞬だけ真響を見る。
「信じますよ」
「好きにしろ」
真響が僅かに目を見開いた。
「こういう時は余裕の顔をしてる方が格好いいんです」
結界の東側が開いた瞬間、押し寄せていた土砂がそちらへ流れ始めた。
真響が前へ出る。
蝋梅の香りと黒髪が舞う。
水の妖気が膨れ上がる。空気が冷えた。
その背後に巨大な黒狐の影が浮かび上がる。
「真響さん」
その異様な気配に麻那が心配そうに見る。
「少し黙れ」
真響が両手を広げる。
押し寄せていた光と闇、その冥陰波動だけが、真響のその身体へ流れ込む。
蒼麻の表情が変わった。
「おい真響!」
「大丈夫」
「いや、そんなもの取り込んだら……」
「私が何者なのか、忘れたのか」
真響は振り返らない。
黒狐は水と受容の化身でもある。穢れも、痛みも、悲しみも、拒まず受け止める性質。
しかし蒼麻は知っている。
受け止めた側が傷つかない訳ではないことを。
「無理するなよ」
真響が少しだけ振り返る。
「蒼麻に言われたくない」
「それはそうか」
「納得するな」
その一瞬だけ。
いつもの空気が戻った。
「来る!」
紫苑が叫ぶ。
第二の神殻が腕を上げ大地が震える。
またしても地面そのものが隆起した。
巨大な壁となった高さ数十メートルの瓦礫と木々。
それがこちらへ倒れてくる。
麻那が一歩前へ出た。
「お兄ちゃん、伏せて」
「え?」
「いいから伏せて!」
蒼麻が反射的に身を低くする。
麻那が見えざる弓を引く。
神気がすぐさまそこに収束し姿を現す。
「――神降し」
瞳が変わる。
天穿日子。
麻那の背後に光の弓が現れた。
そして眩しい光を放つ一本の矢。
ただし狙うのは神殻ではない。
紫苑が作った術式の一点。
「そこだ!」
紫苑が叫ぶ。瞬間麻那が矢を放つ。
光が夜を裂いた。
矢は土壁を貫き、その向こうにある霊脈へ突き刺さる。
岩同士が衝突する轟音。
土地を引き寄せていた流れが、一瞬だけ乱れた。
「今です!」
紫苑の札が一斉に光る。
宴が結界で押し返す。
真響が冥陰波動を引き受ける。
第二の神殻の動きが止まった。
橘が蒼麻を見る。
「蒼麻さん」
「はい」
「あなたにはいま、何が見えていますか」
蒼麻は答えられなかった。
目の前には、無数の光の糸。
この土地に生きた人々の記憶。
それらすべてが第二の神殻へ繋がっている。
「いっぱいの糸が……」
橘は迷わなかった。
「では、それを見てください」
蒼麻が振り返る。
「我々には見えません」
橘は第二の神殻を見る。
「あなたにしか見えないなら、それはあなたの役目です」
胸の奥が熱くなる。
以前なら怖かった自分だけが見えるもの。
自分だけが感じるもの。
それは、自分が人間ではなくなっていく証拠のように思えた。
今はそれが父が残したものだと知っている。
蒼麻は立ち上がった。
「……分かりました」
目を閉じ呼吸を深くする。
神酒縫。
麻臣が少彦名命から引き出した権能。
蒼麻には使えない。
少なくとも、そう思っていた。
だが。
見える。
一本。
二本。
百本。
千本。
その中に。
一本だけ。
他とは違う糸があった。
土地からではない。
第二の神殻の胸から伸びている。
細い。
今にも切れそうな糸。
その先は――。
「……人?」
蒼麻が呟く。
紫苑が振り返る。
「何ですか?」
「こいつ」
蒼麻は神殻を見る。
「まだ繋がってる」
「何と?」
蒼麻は答える。
「降ろした人間」
全員の表情が変わった。
神殻とは、術者を失い、神の権能だけが残った存在。
そう考えられていた。
しかし。
もし。
術者が完全には失われていないとしたら。
「生きているということですか?」
麻那が尋ねる。
「分からない」
蒼麻は糸を見つめる。
「でも、ある」
真響も神殻を見る。
そして低く言う。
「だったら切るな」
蒼麻が真響を見る。
「え?」
「その糸」
真響は断言した。
「絶対に切るな」
「どうして?」
真響の目が鋭くなる。
「それが最後だから」
その瞬間。
第二の神殻が咆哮した。
初めてだった。
これまで何の声も発さなかった存在が。
苦しむように、泣くように。
空へ向かって叫んだ。
大地が震え山が動く。
川が逆流し宴の結界が砕け始める。
「まずい!」
発火した紫苑の札が燃え尽きようとしている。
麻那が次の矢を構える。
真響の身体から黒い妖気が溢れる。
橘が静かに前へ出た。
そして。
「――神議」
声が変わった。
一人の声ではない。
幾重もの響きが重なる。
その瞬間。
暴れていた神気が、一斉に沈んだ。
宴。
紫苑。
麻那。
そして真響すら、思わず橘を見る。
橘の足元から巨大な神紋が広がっていく。
神代一族を束ねる者。
神々の意思を一つの場へ集め、異なる神威の衝突を抑え、秩序立てる権能。
「聞いてください」
橘の声が全員へ届く。
怒鳴っていない。
それでも逆らえない。
「宴さんは守りを維持」
「了解」
「紫苑さんは霊脈を固定」
「承知しました」
「麻那さんは神殻ではなく、紫苑さんが示す接続点だけを射抜いてください」
「わかりました」
橘の視線が真響へ向く。
「真響」
「何だ」
「あなたには、流れ出す冥陰波動を引き受けてほしい」
真響が僅かに眉を上げる。
「命令か?」
「お願いです」
数秒。
「……よかろう」
最後に。
橘は蒼麻を見る。
「蒼麻さん」
「はい」
「あなたは、その糸を追ってください」
「俺も戦えます」
「戦わなくていい」
即答だった。
「今ここに、戦える者は他にもいます」
橘の目が蒼麻を真っ直ぐ捉える。
「ですがその糸が見える者は、あなたしかいない」
蒼麻は息を呑む。
父の言葉ではない。
萩の言葉でもない。
それでも。
どこか同じものを感じた。
一人で全部やる必要はない。
自分にできることをやればいい。
蒼麻は黒桃のような名刀も持っていない。
麻那のような神弓もない。
宴ほど強い結界で守れない。
紫苑ほど術を知らない。
真響ほど長く生きてもいない。
橘のように人を束ねることもできない。
それでも視える、ならば。
「分かりました」
蒼麻は神殻へ向かって歩き始めた。
麻那が一瞬だけ兄を見る。
「お兄ちゃん、ちゃんと帰ってきて」
蒼麻は笑った。
「今日それ、二人目」
後ろから真響の声が飛ぶ。
「言われるようなことしてるからだ」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
麻那が思わず笑った。
その笑顔を確認して。
蒼麻は再び前を向く。
第二の神殻。
その圧倒的な巨体へ。
人間一人が歩いていく。
倒すためではない。救えるのかどうかすら分からない。
ただ神と人を繋いでいる、最後の一本を辿るために。
その背後では。
寒川大神が災厄を防ぎ。
天穿日子が霊脈を射抜き。
紫苑の祭祀が土地を縫い留め。
黒狐が溢れる穢れを受け止め。
神代橘の神議が、それら本来なら相容れない神威と妖気を一つの目的へ束ねていた。
神殻一柱に対して。
神代一族と妖狐が、同じ陣を組んで臨んでいる。
そしてその中心を歩いているのは。
まだ誰よりも未熟な、神代蒼麻だった。




