第九十九話 神を還す
第二の神殻へ近づくほど、蒼麻には世界が二重に見えた。
一つは現実の景色。
地面を引き剥がし、山を崩し、川の流れさえ変えながら巨大化していく、岩と土でできた異形の巨体。
もう一つは、無数の光の糸が張り巡らされた世界だった。
田畑から伸びる糸。森から伸びる糸。小さな祠から伸びる糸。人の住まなくなった集落から伸びる糸。そして遠く離れた酒蔵からも、淡い光が引き抜かれようとしている。
その一本一本に、何かが宿っていた。
豊作を願って頭を下げた人。子どもの成長を祝った家族。
祭りの日に酔って笑った男たち。亡くなった者へ酒を供えた老婆。
仕込みの無事を祈る蔵人。土地に残された記憶だった。
それらがすべて、第二の神殻へ吸い込まれている。
「違う」
蒼麻は歩きながら呟いた。
いま、この神殻は土地を壊しているのではなく、土地を集めている。
山も、川も、そこに刻まれた人間の時間さえも区別せず、一つの「国土」としてまとめようとしているのだ。
大地主神。本来は土地を守り、治めるはずの神。
その権能だけが残れば、守るべき人間など存在しない。
残るのはただ、土地を整えるという使命だけだった。
背後から轟音が響いた。
宴の寒川大神による結界が、また一枚砕けた。
「蒼麻! そんなにゆっくり行くな、こっちはそろそろ限界なんだ!」
「急いでます!」
「全然そう見えない!」
別方向から紫苑の声が飛ぶ。
「三十秒後、北側の霊脈固定を解除します! 麻那さん、第四接続点を!」
「分かりました!」
天穿日子の権能、天之麻古弓。
古代神話で神さえ殺す、と言われるほど強力な麻那の放った輝く天羽々矢が夜を貫き、神殻へ流れ込んでいた巨大な霊脈の一つを射抜いた。
大地がまた激しく鳴動する。
第二の神殻が腕を振るい、岩塊が空へ舞い上がる。
その一部が蒼麻へ向かった。
「蒼麻!」
真響の声。
黒い影が横から飛び込み、蒼麻の身体を押し倒した。
次の瞬間、巨大な岩が二人のすぐ横を通過する。
「何してる」
真響が蒼麻を睨む。
「糸を見てた」
「前も見ろ」
「はい」
真響は蒼麻の服を掴んだまま、神殻を見る。
その顔色は良くない。
受け止め続けた冥陰波動が、確実に彼女自身を蝕み始めている。
蒼麻が眉を寄せる。
「真響、お前も無理してるだろ」
「していない」
「嘘つけ」
「今それ言う?」
「俺が言われたから、言い返したくて」
「馬鹿か」
真響は手を離した。
「早く行け、私は自分で帰れる」
黒い瞳が蒼麻を真っ直ぐ見る。
「お前も帰ってこい」
蒼麻は一瞬だけ黙り、それから頷いた。
「分かった」
立ち上がり再び糸を見る。
無数の光の中に、一本だけ異質なものがあった。
目を凝らすとその1本は土地へ繋がっていない。
神殻の胸部から伸び、内部へ向かって垂れ下がっている。
細く、弱く、今にも消えそうな糸。
蒼麻はそれを追った。
「そこか」
第二の神殻が蒼麻の存在へ気付いた。
初めて、その顔のない頭部がこちらを向く。
神威が津波のように押し寄せてくる。
足が止まった。息ができない。
身体が巨大な見えざる圧力で地面へ押し潰されそうになる。
これが神。
人格を失い、権能だけになったものですら、人間一人では立っていることさえ難しい。
蒼麻の膝が沈む。
「くっそ……」
その時、胸の奥で何かが熱を持った。
金色の紋が瞳の奥へ浮かぶ。
空気が変わった。
織物を引き裂くような音が、どこからともなく響いた。
蒼麻の背後に、一瞬だけ巨大な影が立つ。
それは建葉槌命。
完全な神降しではないし、呼んでもいない。
だが、蒼麻の中にある神格が、自ら反応した。
第二の神殻から押し寄せていた神威が、蒼麻の周囲だけ左右へ分かれていく。
まるで目に見えない布を両側へ織り分けるように。
紫苑が遠くからそれを見る。
「建葉槌……だと?」
橘は何も言わなかった。
ただ蒼麻を見ている。
蒼麻はゆっくり一歩前に進んだ。そしてもう一歩。
神殻が再び地面を揺らす。
「違うだろ。お前がやりたいのは、こんなことじゃないだろう」
蒼麻は神殻へ向かって言ったが、返事はない。
それでも蒼麻は歩く。
「おまえは土地を守りたいんだろ」
神殻の巨体が僅かに震えた。
「だったら」
蒼麻は足元から伸びる糸を見る。
「そこにいた人まで消してどうする」
初めて、神殻の動きが止まった。
ほんの一瞬だったが十分だった。
蒼麻は胸から伸びている一本の糸へ手を伸ばす。
触れた。
刹那、世界の色が反転して視えた。
暗く息が苦しい。奥から声が聞こえてくる。
『もっと』
『もっと降ろせる』
『耐えられる』
『神代の血なら』
『器を開けろ』
誰かの記憶だった。
床に座る一人の人間。周囲には何人もの影。術式と祝詞。
震える指。そして血。
『もう無理です』
若い声が聞こえる
『もう止めてください』
しかし誰も止めない。
『あと少しだ』
『ここまで来て止められるか』
『大地主神を完全に降ろせれば、土地そのものを支配できる』
『神代の新しい力になる』
蒼麻の表情が歪んだ。
「……ふざけんな」
神殻は事故ではなかった。
少なくとも、単純な失敗ではない。
誰かが無理に降ろさせようとした。器が壊れるまで。
そして最後に聞こえた言葉はこうだった。
『故郷に、家に帰りたい』
その一言だけだった。
景色が戻る。
蒼麻は神殻の前に立っていた。
頬を涙が伝っていた。
自分の涙ではない。
神殻の中に残された術者の感情が流れ込んできたのだ。
「……帰りたかったんだな」
神殻が震え胸の神紋が明滅する。
大地が鳴る。
しかし先ほどまでとは違う。怒りではない。
神殻は泣いていた。
真響が遠くからそれを感じ取った。
「……そういうこと」
蒼麻はその頼りない糸を両手で掴んだ。
何をすればいいのか分からない。
神酒縫を教わったわけではない。
少彦名命を降ろせるわけでもない。
それでも父がどうしたのかは聞いた。自分にも何かできる方法はないのか。
土地の記憶。人の祈り。感謝。それらを一本ずつ紡ぐためなら。
「戻れ」
蒼麻が呟く。
糸が光った。
「これらはお前のものじゃない」
神殻へ吸い込まれていた無数の糸を見る。
「山も」
一本。
「川も」
二本。
「畑も」
十本。
「酒も」
百本。
「そこで生きた人たちの記憶も」
千本。
蒼麻の瞳に金色の紋様が広がる。
九尾狐の欠片が反応した。
記憶を縫い留める力。
失われようとする過去を、そこに存在したものとして固定する力。
それが神酒縫の糸へ触れる。
蒼麻自身にも、何が起きているのか分からなかった。
ただ。
切れかけていた土地の記憶が、元あった場所へ縫い戻されていく。
酒蔵へ。田畑へ。社へ。村へ。山へ。
神殻が奪った「時間」が、一本ずつ離れていく。
第二の神殻が巨大な腕を振り上げた。
苦しんでいる。なにかに抵抗しているようだった。
権能はまだ土地を集めようとしている。
しかしその時。
蒼麻の背後に、建葉槌命の神影が明確に現れた。
そこに在るという圧倒的な存在感があった。そしてゆっくりと神気が轟く。
攻撃しない。剣も振るわない。
ただ。神殻の前に立った。
武甕雷と、経津主の2柱でも、力で従わせられなかった神を、かつて対話によって平定したとされる神。それが建葉槌命。
蒼麻の口から、自分のものではない声が重なった。
「もうよい」
低く静かな声だった。
神殻が止まる。
「土地は、お前が抱えるものではない」
神威がぶつかる。
大地主神の権能。
建葉槌命の神意。
空気が激しく震える。
「人に還せ」
長い沈黙。
やがて第二の神殻の腕が、ゆっくりと下がった。
紫苑が息を呑む。
宴も。
麻那も。
橘さえ、黙って見ていた。
そして不意に神殻の巨体から土が崩れ始める。
岩が落ちる。
木々が離れる。
砕けた鳥居。
道路標識。
石垣。
奪われた土地の欠片が、次々と大地へ戻っていく。
「今です!」
紫苑が叫ぶ。
宴が寒川大神の神威を最大まで展開する。
「八方、鎮まれ!」
暴れていた地脈が固定される。
紫苑の札が四方へ飛ぶ。
「山河返脈――還!」
土地へ戻ろうとする霊脈を正しい位置へ導く。
麻那が弓を引いた。
狙うのは神殻ではない。
最後まで暴走を続けている神格の接続点。
「お兄ちゃん!」
蒼麻が振り返る。
麻那は一瞬だけ迷った。
「そこ?」
蒼麻には見える。
一本だけ残っている濁った糸。
術者と大地主神の権能を無理やり縛っている糸。
誰かが施したもの。それは本来あるべきではない繋がり。
蒼麻が指差した。
「あそこ!」
麻那が放つ。
天穿日子の天羽々矢が夜空を裂き、光が神殻の胸を貫く。
糸が切れると同時に第二の神殻が天を仰ぐ。
声が響く。
今度は咆哮ではなかった。
長い息を吐くような音だった。
そしてすべてが崩れていった。
一瞬の無の静寂。
風が戻った。
虫の声が聞こえた。
遠くで水が流れる音がする。
大地は傷だらけだった。
山の形も変わっている。
すべてを元通りにはできない。
それでも。
土地はもう動いていなかった。
蒼麻は崩れた土の中心へ歩いた。
そこに、一人の人間が横たわっていた。
若い男だった。
身体は痩せ、全身に神紋の痕が残っている。
麻那が駆け寄り首元へ指を当てる。
数秒。
「……生きてる」
宴が大きく息を吐いた。
紫苑はその場へ膝をつき、男の身体に刻まれた術式を見る。
表情が険しくなる。
「これは……」
橘が近づく。
「どうしました」
「本人が行った神降しではありません」
全員の視線が紫苑へ向く。
紫苑は男の胸元に残された黒い術印を見つめる。
「外部から神格との接続を強制されています」
麻那の顔色が変わる。
「誰かが意図的に?」
「ええ、おそらく」
宴の笑顔が消えた。
真響が遅れて歩いてくる。
顔色は悪い。
それでも男を一度見ると、冷たく言った。
「馬鹿が」
蒼麻が真響を見る。
「この人に言ってる?」
「いや」
真響は男の胸に残された術印を見る。
「これをやった奴にだ」
その声には明確な怒りがあった。
「神を使って遊ぶとは」
誰も反論しなかった。
蒼麻はその場に座り込んだ。
突然、全身から力が抜けたのだ。
「お兄ちゃん!」
麻那が振り返る。
真響がすぐ横へ来きて受け止めた。
「蒼麻」
「あ、柔らかい」
「言ってる場合か。顔が白いぞ」
「ちょっと疲れただけ、かも」
「ちょっとな訳があるか」
蒼麻は笑おうとした。
しかし上手く笑えなかった。
胸の奥では、まだ何かが混ざり合っている。身体が半分、自分の物ではないような感覚。
神酒縫。九尾狐の欠片。建葉槌命。
どれがどこまで自分の力なのかも分からない。
ただ一つだけ分かることは、今回自分は神を倒していない。
人と神の間に絡まったものを、ほどいただけという事だった。
橘が蒼麻の前へ来た。
「蒼麻さん」
蒼麻が顔を上げる。
「はい」
「今、あなたは何をしましたか」
「……分かりません」
蒼麻は途切れ途切れに正直に答えた。
「糸が見えて」
「戻せる気がして」
「建葉槌命が出てきて」
「気付いたら終わってました」
橘はしばらく蒼麻を見る。
やがて、穏やかに頷いた。
「それで構いません」
「いいんですか?」
「今は」
橘は崩れた神殻の跡を見る。
「名前を付けるのは、理解してからでもいいのです」
蒼麻はその言葉に少し救われた気がした。
真響が横から言う。
「その前にわたしも寝かせてくれ」
「真響?」
「わたしも倒れそうなんだが」
「いや、まだいけるって」
支えてもらっている蒼麻が励ました。
麻那が反対から蒼麻の腕を組んで支えた。
「みんなで帰るって約束したよね」
真響が頷く。
「よし、帰るぞ」
麻那も蒼麻も笑った。
遠くで夜が明け始めていた。
山の端から朝日が差し込み、傷ついた土地を照らしていく。
その光の中で、蒼麻には最後に一本だけ糸が見えた。
倒れている術者から伸びた糸。
細く。
弱い。
それでも切れてはいない。
どこか遠くへ繋がっている。
誰かへ。
蒼麻は目を細めた。
「……まだあるのか」
「何が?」
麻那が尋ねる。
蒼麻は答えなかった。
その糸の先は、見えなかった。
ただ。
第二の神殻を生み出した何者かへ繋がっている。
そんな気がした。
九州の山中で発生した第二の神殻は、ここに鎮まった。
しかし。
神殻を生み出したものが何者なのか。それはまだ終わっていなかった。




