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第百話 百合は笑って潜り込む

その女が神代百合だと知る者は、そのビルの中には一人もいなかった。


肩までの黒髪。目立たない紺色のパンツスーツ。薄い化粧。姿勢はわずかに猫背で、歩幅も狭い。社員証には「白石由佳」とある。


三か月前から、彼女はそういう人間として存在していた。


都内に本社を置く投資コンサルティング会社、東央アセットマネジメント。

地方企業の事業承継支援、企業再生、海外投資を掲げる急成長企業だが、その裏では資金洗浄、企業恐喝、内部情報の売買を行い、経営難に陥った企業へ意図的に債務を背負わせて支配下に置いていた。


さらに悪質だったのは、最近になって神代系列企業へ手を伸ばし始めたことだった。


役員の家族構成。


系列企業の資本関係。


地方拠点。


そして、一族の人間しか知らないはずの名前。


それらを誰かが集めている。


だから百合が入った。


怪異案件ではなく神降しも必要ない。


人間が作った巣なら、人間として潜り込めばいい。


三か月間、百合は何もしなかった。


コピーを取る。会議室を予約する。頼まれれば残業する。酒席では笑う。噂話には少しだけ興味を示し、自分からは決して核心へ触れない。


その結果、誰も彼女を警戒しなくなった。


「白石さんって、本当に普通だよね」


同僚からそう言われた夜、百合は心の中で笑った。


最高の褒め言葉である。


そして今日。


地下二階にある、社員名簿には存在しない会議室へ入る権限を得た。


電子錠を抜ける。


監視カメラは十五秒前から同じ映像を繰り返している。


扉の向こうには五人。さらに奥の部屋に三人。


全員、人間だった。


百合は内心で少し安心した。


怪異が相手ならまた、担当が違っただろう。


今日は、人を殴っていい日なのだった。


「白石」


会議室の中央に座る男が呼んだ。


東央アセット専務、久我原。


「はい」


百合はいつもの弱々しい声で答える。


「例の資料は?」


「こちらになります」


茶封筒を机へ置く。


久我原は中身を見る。


神代系列企業一覧。


役員構成。


商工会との関係。


藤村、川野、塚田、前川、小笠原、梁、森、畠山。神代企業群と関連が深い企業の一覧と、いくつかの人名。


詳細な資料を目にした久我原の口元が思わず笑みを作る。


「やっと使える奴が入ったな」


百合は微笑んだ。


「ありがとうございます」


「これでようやくあの神代も崩せる」


その言葉に、百合の笑顔がほんの少しだけ深くなった。


「そうですか」


久我原が顔を上げる。


「どうした?」


「いえ」


百合は眼鏡を外した。


机へ置く。


髪を後ろでまとめていた留め具も外す。


猫背だった背中が、ゆっくり伸びた。


立ち方が変わる。


それだけで、同じ顔なのに別人になった。


久我原の表情から笑みが消える。


「お前……」


百合は首を軽く左右へ倒した。


「三か月」


声まで違う。


「長かったな」


誰かが立ち上がる。


百合は続けた。


「神代系列に喧嘩売るなら、もう少し身辺調査をした方がいいわね」


久我原が椅子を蹴って立つ。


「誰だ」


百合は笑った。


「神代百合」


室内の空気が変わった。


一人が真っ先に動いた。


体格のいい男だった。右足を一歩引き、顎を引く。


百合はそれだけで分かった。


ボクシング経験者で右ストレート。


速い。


百合は大きく避けなかった。頭を数センチ外へ逃がしながら前へ入る。拳が頬の横を抜ける。


男が左を返そうとした時には、距離が消えていた。


百合の左前腕が男の胸元に触れ、右手が肘の位置を押さえる。


殴らず軸だけをずらす。


男の上半身がわずかに浮いところへ流れるように足払いをかける。


畳の上なら柔道の小外刈に近い。


だが、百合が狙ったのは投げではなかった。


立て直そうとした足がなくなる。


男は横向きに崩れ、会議机へ肩から突っ込んだ。簡単には立てぬよう急所を角に当てる。


百合はすでに次を見ている。


二人目は構えが低い。


腰が落ちている。


レスリングだろうと予想をつけた。


「へえ」


男がタックルへ来る。


百合は後ろへ下がらない。


腰を引き、相手の肩へ体重を乗せる。


頭を外へ押し出しながら身体を半身にずらす。


男がしつこく脚へ食らいつく。


「ちゃんとしてる」


百合は少し嬉しそうだった。


男が立ち上がりながら組み直す。


百合は腕を差し入れ、内側の位置を取る。


互いの肩がぶつかる。


そこから一瞬だけ、柔道の形になる。


男が力を掛けた方向へ百合は逆らわない。


引かれれば進む。


押されれば回る。


重心が男の爪先へ乗った。


その瞬間、百合の腰が入る。


投げ飛ばす。


派手な一本背負いではない。


相手の身体を腰へ完全には乗せず、回転の途中で床へ落とす。受け身など取らせない。


男の背中が絨毯へ叩きつけられ、肺から空気が抜けた。


百合は追撃しない。


立てなくなれば、それで十分だった。


三人目が椅子を投げた。


百合は身体をずらしてかわす。


その陰から低い蹴り。


ムエタイ経験者らしい脛を使った蹴りだった。


百合は脚で受けなかった。


半歩だけ距離を外し、蹴り脚が通り過ぎるのを待つ。


男が戻る瞬間。


百合の足裏が男の支持脚へ軽く触れた。


強く蹴らない。


それでも、片脚になった人間には十分だった。


男の姿勢が崩れ、百合が首の後ろへ手を掛ける。


クリンチ。


今度はこちらがムエタイの距離だった。


男の目が変わる。


百合は膝を振り上げる――ように見せた。


男が腹を守る。


その瞬間、百合は首を引きながら身体を回した。


膝は来ない。


代わりに男自身の勢いが固い壁へ向かい激突する。


鈍い音がして男が床へ座り込んだ。


百合は髪を耳へ掛ける。


「これで三人」


奥の扉が開いた。


残りの男たちが出てくる。


その中の一人を見た瞬間、百合の目つきが僅かに変わった。


他とは違う。


四十代。


大柄ではない。


構えてもいない。


しかし重心が低く、肩に力がない。


そして、こちらの足しか見ていない。


百合は笑った。


「あなた、本職ね。それとも私の美脚に見惚れてるのかしら」


男は答えなかった。


踏み込みがかなり速い。


拳ではなく鋭い掌底。


百合は受け流す。


続けて肘。


百合が頭を下げる。


膝。


横へ逃げる。


初めて百合が三歩下がった。


久我原が叫ぶ。


「早くやれ!」


百合はそんな声は聞いていなかった。


相手の分析が楽しくなっていた。


相手は、おそらく空手を基礎に複数の格闘技を学んでいるのであろう。


無駄打ちもせず、間合いの詰め方が上手いと感心する。


百合が踏み込む。


男が前蹴りで止める。


百合は片手で軌道を外すが、そこへ右拳が来る。


頬を掠めた。


「……へーぇ」


百合が笑う。


男の表情が初めて変わる。


「何がおかしい」


「久しぶりに当てられた」


「化け物が」


「美女にむかって失礼ね」


次の瞬間、百合の動きが変わった。


それまでの柔らかい動きではなかった。


短いステップに鋭い拳の打ち込み。


ジャブを放つ。


男が反応する。


今度は完全にボクシングの動きだった。


男がガードを固める。


百合はそこへ付き合わない。


右へ回りこむ。


男も向きを変えるたところを百合は左、右また右と攪乱する。


視線は肩。足は相手の外側。


打ち合わず、位置だけを奪う。


男が焦れて踏み込んだ。


そこを百合は待っていた。


拳を受け流しながら内側へ入る。


肩が接触する。


肋骨を狙った肘。


男が防ぐ。


インパクトの瞬間、百合の腕がそのまま相手の腕へ絡む。


合気柔術に近い動き。


ただし技を掛けようとはしない。


関節を極めるのではなく、その腕を「そこに置いておけない位置」へ導く。


そのままでいれば間違いなく壊されるからだ。


男が嫌って身体を回すと百合はその回転を使った。


足が入り大内刈を決めようとする。


しかし男の踏ん張りが強く崩れない。


「強っ」


百合が呟く。


男が百合の襟元を掴んだが百合はその手を剥がさなかった。


掴ませたまま近付き相手の手首を固定する。


頭の位置を相手の顎の下へ置き、腕を内側へ差し込む。


今度はレスリングの動きであった。


男の腰が浮くが、なんとか耐えている。


ならば、と百合は持ち上げず方向を変える。


壁へ押しつける。


男が背中を壁へ付けた瞬間、百合は力を抜いた。


支えを失った男が前へ出る。


次の瞬間、男の身体が宙へ浮いた。


床へ落ちる直前、百合は相手の腕を掴んで、頭を打たない角度へ変えた。


男が床へ横たわる。


意識はあるが、もう立とうとはしなかった。

これ以上やれば百合は手加減せず身体を壊されるだけだと気付いたのだ。


百合は息を整える。乱れてもいない。


それを見た男が苦笑した。


「……おまえは一体何者なんだ」


「だから言ったでしょ」


百合はにこりと笑った。


「神代百合」


背後で金属音がした。


久我原が拳銃を構えていた。


「動くな!」


百合の表情から笑みが消えた。


「それ」


一歩前に出る。


「嫌いなのよね」


「動くなと言ってる!」


百合は止まった。


両手をゆっくり上げる。


久我原が近付いてくる。


距離、三メートル。


二メートル。


一メートル半。


百合は小さくため息をついた。


「撃つなら、遠くにいればよかったのにね」


久我原の顔が引きつる。


百合が動く。


何をしたのか、久我原には分からなかった。


銃口が逸れた。


手首を掴まれたと思った時には、身体が机へ押し付けられていた。


拳銃が床へ落ちる。


百合はそれを足で遠くへ滑らせた。


「銃ってね」


久我原の背中へ軽く体重を掛ける。


「持っただけで強くなった気になる人がいるから嫌い」


「離せ……!」


「嫌」


躊躇なく銃を握っていた指を反対側にへし折った。


「お前、自分が何をしてるか分かってるのか!」


百合は首を傾げた。


「企業犯罪組織への潜入調査かな」


「それは違法だぞ!」


「あなたに言われると笑えるわね」


久我原が黙る。


百合は彼の腕を解放し、椅子へ座らせた。


「さて」


机の上へUSBメモリを置く。


「三か月分」


資金洗浄の記録。架空会社。恐喝。贈収賄。政治家との接触記録。


地方企業への違法な圧力。すべて入っている。


「言っておくけどこれ、もう外へ出てるから」


久我原の顔色が変わる。


「どこへ」


「あちこちに決まってるでしょう?」


百合は笑った。


「税務、警察、金融庁。それと、あなた達に潰された会社にも」


「ふざけるな!」


「あと」


百合は別の紙を一枚取り出した。


そこには神代一族に関する調査記録が印刷されていた。


「これだけは私が持って帰る」


久我原は息を飲んで口を閉じた。


百合の目が変わったことに気付いたからだ。


「誰から買ったの?」


「何の話だ」


「神代の情報」


沈黙。


「本家と分家の人間関係まで調べてる。あなた達にできる調査じゃないわね」


「知らん」


「そう」


百合は久我原の左指を見ながら微笑む。


「じゃあ、ゆっくり思い出してもらおうかしら」


その時、遠くからサイレンが聞こえ始めた。


久我原が顔を上げる。


百合は腕時計を見る。


「予定より二分早い」


地下へ続く階段から足音が響いてくる。


百合は眼鏡を拾い、壊れていないことを確認して胸ポケットへ入れた。


倒れている男たちを見回す。


骨折は最小限。


意識もある。


呼吸にも問題はない。


誰一人死んでいない。


百合は満足そうに頷いた。


「よし」


久我原が呆然と尋ねる。


「なぜ……殺さない」


百合は振り返った。


その顔には、いつもの柔らかな笑みが戻っていた。


「私、格闘家ですから、徹底的にやるのが好きだけど」


少しだけ間を置く。


「殺し屋じゃないの」


そして地下室を出ていった。


地上へ上がると、夜風が心地よかった。


百合はビルの裏口を出る。


停めていたピンク色のスポーツカーが街灯の下で光っている。


運転席へ乗り込む前に、スマートフォンが震えた。


忍冬(にんどう)だった。


『終わったかい?』


百合は短く返信する。


『終わったー』


すぐ返ってくる。


『怪我はない?』


百合は頬へ触れた。


先ほど拳が掠めた場所が少し熱い。


『ない』


数秒。


『嘘』


百合は思わず笑った。


「……なんで分かるのよ」


伴侶というものは、こういう時に面倒だった。


そして少しだけ嬉しい。


百合は車へ乗り込み、エンジンを掛ける。


その時、助手席へ置いた資料の束から一枚の紙が滑り落ちた。


先ほど回収した神代一族の調査記録だった。


拾い上げるとページの下部に、小さな文字が並んでいる。


百合の表情から笑みが消えた。


『奥乃院』


『九尾狐』


『神殻』


そして。


『康和五年――地震記録』


西暦へ直せば、一一〇三年。


百合はしばらくその文字を見つめた。


「……ずいぶん古いところまで調べてるじゃない」


企業犯罪組織を潰した。


それで終わるはずの仕事だった。


しかしどうやら彼らは、別の誰かから神代一族について調べるよう依頼されていたようだった。


百合はスマートフォンを取り出した。


電話を掛ける相手は神代橘。


呼び出し音が二度鳴る。


「橘様」


百合は資料を見ながら、静かに言った。


「ちょっと面倒なもの拾いました」


百合が最も得意なのは、人を倒すことではない。


敵の懐へ入り敵から情報を奪い、それを持ち帰ってくること。


神代一族最強の体術家は、その夜、一人で企業犯罪組織を壊滅させた。


だが彼女が持ち帰った一枚の紙は、拳よりも遥かに大きな波紋を神代一族へもたらすことになる。

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