第百一話 拾わせた情報
神代百合が奥乃院へ戻ったのは、日付が変わる少し前だった。
三か月間「白石由佳」として過ごした痕跡は、もうほとんど残っていない
。黒髪はいつもの形へ整えられ、地味だった化粧も落としている。歩幅も姿勢も違う。
同じ顔なのに、別人だった。
ただ一つ。
右頬に薄く残った赤みだけが、数時間前まで彼女が企業犯罪組織の地下室で男たちを相手にしていたことを物語っていた。
奥乃院の一室へ入ると、橘がすでに待っていた。
紫苑もいる。
そして、もう一人。
「おかえり」
忍冬だった。
百合の足が止まる。
「……なんでいるの?」
「怪我したって聞いたから」
「してない」
「頬っぺが腫れてるぞ」
「これは怪我じゃない」
「じゃあ何?」
百合は少し考えた。
「拳との接触」
忍冬はため息をついた。
百合は何事もなかったように橘の前へ座る。
「橘様。報告します」
「その前に」
橘が百合の頬を見る。
「少し冷やした方がいいのでは?」
「橘様まで」
「腫れていますよ」
「これくらいなら、明日には消えます」
忍冬が横から言う。
「だから冷やそうか」
百合が睨む。
「あとでいいよ」
「先にやったほうがいい」
「まだ仕事中だから」
「それは冷やしながらできる」
橘が穏やかに言った。
「忍冬さんの意見を採用しましょう」
「当主権限の使い方、それでいいんですか?」
「一族の健康管理も仕事ですからね」
百合はしばらく橘を見つめたあと、諦めた。
「……わかりました」
忍冬が用意していた冷却材を差し出す。
百合はそれを頬へ当てた。
紫苑は資料を見ながら、何も言わない。
ただ口元が二人のやり取りを見てほんの僅かに緩んでいる。
「紫苑」
「何ですか」
「いま笑ってた?」
「いいえ」
「絶対笑ってた」
「報告をお願いします」
百合は小さく舌打ちした。
それから表情を変える。
机へ一枚の紙を置いた。
「これです」
橘が見る。
『康和五年』
『地震』
『大谷村』
『神代牡丹』
そして。
『九尾狐』
紫苑の目が止まった。
「大谷村?」
「丹波国桑田郡」
百合が答える。
「牡丹様が生まれ育った村です」
室内の空気が変わった。
橘が紙を手に取る。
「東央アセットが、なぜこれを?」
「そこなんですよね」
百合は冷却材を頬へ当てたまま椅子へ深く座った。
「おかしいんです」
「何がですか」
紫苑が尋ねる。
「全部が」
百合は答えた。
「東央アセットは確かに悪質でした。資金洗浄、恐喝、企業乗っ取り、情報売買。証拠も十分。でもね」
指先で紙を叩く。
「こいつら、神代について調べるには頭が悪すぎるんです」
紫苑が眉を寄せる。
「随分な評価ですね」
「三か月いたからね」
百合は即答する。
「誰が仕事できるか、誰が口だけか、誰と誰が繋がってるか、だいたい分かります」
それこそが百合の本当の強みだった。
変装ではない。格闘でもない。
百合は、人の本質を見る力に長けていた。
声の高さ。視線。靴。机の使い方。部下への頼み方。
酒を飲んだ時に誰の悪口を言うか。失敗した時、最初に誰を見るか。
そうした些細なものを積み重ね、その人間がどこまで信用できるのかを判断する。
だから三か月もあれば十分だった。
「久我原は小賢しい。でも、歴史に興味なんてありません。社長も同じ。神代について調べてた連中も、欲しいのは企業情報と弱みだけ」
百合は紙を見る。
「こんなものを掘り出す理由がないんですよ」
橘が尋ねる。
「外部からの依頼?」
「それが一番自然です」
「依頼主は?」
「分かりません」
百合はあっさり答えた。
「だから面倒なんです」
紫苑が資料をめくる。
「資金の流れから追えませんか」
「やりました」
「結果は?」
「海外法人を七つ経由して、その先が消えてます」
「意図的ですね」
「でしょうね」
忍冬が口を開いた。
「だったら、その人は神代について相当詳しい?」
百合が忍冬を見る。
「たぶん牡丹様のことまで知ってる。そして九尾狐も」
「うん」
忍冬は資料を見た。
「これ仕掛けてるのって、神代の人間じゃないの?」
百合は少し笑った。
「私も最初にそれ考えた」
橘は何も言わなかった。
否定もしない。
神代一族は巨大である。
本家。分家。奥乃院。企業群。神職。退魔を担う者。
一族から離れて暮らす者。
そして、現在の神代に不満を持つ者。
全員の思想が同じであるはずがない。
百合が続ける。
「ただ、もう一つ変なことがあります」
「何でしょう」
「資料の置き場所」
紫苑が顔を上げる。
「置き場所?」
「私が侵入した地下二階の保管庫」
百合は資料を一枚ずつ並べた。
「機密度別に棚が分けられていました。資金洗浄関係は奥。政治家関係は別の金庫。神代系列企業の情報は端末管理」
そして、1103年の資料を指差す。
「これは机の引き出し」
沈黙。
忍冬が先に気付いた。
「簡単すぎるってこと?」
「そう、簡単すぎる」
百合が笑った。
紫苑の表情が変わる。
「あなたが見つけることを想定していたってことか?」
「可能性はあります」
「しかし、あなたが潜入していることは――」
「誰にも知られていなかった」
百合はそこで言葉を切った。
「……はずだった」
橘が静かに百合を見る。
百合も当主を見る。
「橘様」
「はい」
「私、これを盗ってきたんじゃないかもしれません」
百合の指が、康和五年の文字をなぞる。
「意図的に拾わされたのかも」
その一言で、部屋の温度が下がったように感じられた。
もしそうなら。
東央アセットは本命ではない。彼らは利用されただけだ。
さらに百合が神代一族へ資料を持ち帰ることまで、何者かが読んでいたことになる。
忍冬が尋ねる。
「目的はなんだろう?」
「それはまだ分からない」
百合は答えた。
「でも、見せたいんでしょうね」
「何を?」
百合は一枚の紙を抜き出した。
そこには、古い記録から転載された文章があった。
康和五年。
畿内を襲った大地震。多数の死者。
山崩れに家屋倒壊。
そして、その混乱の中で現れた異形。
九尾を持つ狐。
その後に続く一文を、百合は黙って読む。
『神代牡丹、これを災禍の元凶と定め――』
百合の指が止まる。
「ここ」
橘が見る。
「何か?」
「断定してる」
百合は言った。
「地震の後に九尾狐が現れた。それは書いてある」
紙を持ち上げる。
「でも、九尾狐が地震を起こしたとは、どこにも書いてない」
紫苑が黙る。
百合は続ける。
「なのに、この後の神代側の記録は全部、九尾狐を災禍の元凶として扱ってますよね」
橘の目が僅かに細くなった。
「因果関係が逆転している、か」
「少なくとも、原記録だけでは断定できません」
百合は頬から冷却材を外した。
「これ、誰かが私たちに気付かせようとしてませんか」
誰も答えなかった。
千年。
あまりにも長い時間だった。
その間、神代一族は一つの物語を受け継いできた。
九尾狐が災いを起こし、神代牡丹がそれを封じた。
だから神代一族は九尾狐の封印を守ってきた。
単純で。明快で。疑う必要のない歴史。
しかしもし、そもそもの最初の一行から違っていたら。
橘が資料を閉じた。
「この件は、まだ広めないでください」
百合が頷く。
「そう言うと思いました」
「紫苑さん。奥乃院に残る康和年間の祭祀記録を確認してください」
「承知しました」
「百合さん」
「はい」
「依頼主を追えますか」
百合は少し考える。
「追います」
橘が僅かに笑った。
「ではお願いします」
百合は立ち上がった。
そこで忍冬が手を伸ばす。
「待って」
「何?」
冷却材を百合の頬へ戻す。
「まだ十分も経ってない」
「もういいって」
「駄目だよ」
百合が橘を見る。
「橘様」
橘は資料を読んでいる。
「橘様?」
「聞こえています」
「助けてください」
「忍冬さんの判断を尊重します」
「さっきからそっちばっかりじゃないですか!」
紫苑が今度こそ少し笑った。
「紫苑おまえ!」
「笑っていません」
「笑ってるじゃないか!」
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
百合は不満そうに冷却材を頬へ押し当てる。
その時だった。
机に置かれた資料の一枚を、誰も見ていなかった。
そこには古い筆跡を写した文字がある。
『狐、災いより生ず』
『狐、災いを生ず』
僅か二文字。
「より」。
いつの時代か。
誰かが、その一文字を落としていた。
そして、その小さな欠落によって。
「災害から生まれた狐」は。
千年もの間。
「災害を生んだ狐」として語り継がれていた。
遠く離れた場所で、女が目を開いた。
細く流れる輝く白銀の髪。
雫瑠だった。
眠っていたわけではないが、突然。胸の奥に引っ掛かるものがあった。
忘れていた何か。それもずっと昔に。
人々が泣いていた。大地が割れていた。炎が上がっていた。
そして。誰かが叫んでいた。
――違う!
雫瑠は眉を寄せた。
「……何が違う?」
もちろん答えはない。記憶はそこで途切れているのだ。
ただ妙にはっきりと思い出したものがあった。
九つの尾が災いの中に立っていた。
けれど、それは災いを起こしている姿ではなかった。
「……真響」
雫瑠は立ち上がる。
会わなければならない。
一柱では思い出せないのなら。
他の狐たちも、何かを覚えているかもしれない。
長い間、互いに近付きすぎることを避けてきた五柱が。
千年前に失った記憶へ向かって。
再び集まり始めようとしていた。




