第百二話 京都大地震の記憶
雫瑠から連絡が来た時、真響は酒を飲んでいた。
南青山の小さな店、そのカウンターの端で、目の前には半分ほどグラスに残った吟醸酒がある。
スマートフォンが震え、画面を見ると、雫瑠から届いた文字はたった一言だった。
『会いたい』
真響はしばらく画面を見つめた。雫瑠がこんな連絡をしてくることは珍しい。用件があるなら用件を書く。何か聞きたいなら最初から聞く。だから真響も短く返した。
『何?』
返事はすぐに来た。
『昔のことを聞きたい』
真響の指が止まった。何となく嫌な感じがした。
『いつの話?』
『康和五年』
酒を口へ運びかけていた手が止まる。
一一〇三年。人間が使う暦の数字そのものを鮮明に覚えているわけではない。長く生きる彼女たちにとって、年号などは時の流れに打たれた小さな杭に過ぎない。
それでも「康和五年」という響きを聞いた瞬間、胸の奥に黒いものが滲んだ。
地面が割れている。人が走っている。泣いている。何かが燃えている。
そして、狐。
九つの尾。
真響は杯を置いた。
『どこに行けばいい?』
雫瑠から場所が送られてくる。真響は立ち上がり、店主へ「帰る」と告げた。
「1杯で帰るなんて珍しいですね。まだ残ってますよ」
指摘されて杯を見る。確かにまだ酒が残っていた。真響は少し迷ってから、「……もったいない」と呟いて座り直し、残った酒を香りを楽しみながら飲み干した。そしてもう一度立ち上がる。
「帰る」
「そこは飲むんですね」
真響は答えず、店を出た。
五柱が同じ場所へ集まることは、それ自体が異常である。
人里から離れた山中に、すでに神を祀る者もいなくなった古い社がある。鳥居は朽ち、石段の隙間から草が伸び、長い年月の中で森へ還ろうとしているような場所だった。
最初に来たのは雫瑠だった。次に翠霞が現れ、「雫瑠」と声を掛けた。
「久しぶり」
「あなたから呼ばれるなんてかなり珍しい」
「私もそう思う」
翠霞が小さく笑ったところへ、三番目に紅沙がやって来た。遠くから二柱を見るなり、露骨に嫌そうな顔をする。
「本当に集まってるじゃん?」
「とか言ってアナタも来たじゃない」
翠霞が笑うと、紅沙は「雫瑠が変なこと言うからだよ」と腕を組んだ。
「変なことって?」
「昔を思い出した、とか」
「思い出したというより、引っ掛かったんだ」
「同じじゃないの?」
そこへ四番目の気配が近づく。深宵だった。
深宵は三柱の姿を見ると、その場で足を止めた。
「……ちょっと近くない?」
紅沙が呆れたように言う。
「まだ十メートル以上あるわよ」
「距離の話じゃない」
その言葉だけで全員が理解した。
空気が僅かに震えている。
黒、白、黄、朱、蒼。彼女たちはかつて一つだった。同じものから分かれ、それぞれの時間を過ごし、それぞれの人格を得た。それでも根にあるものは同じだ。四柱が一か所へ集まっただけで、互いの存在が微かに共鳴を始めている。
翠霞が頷いて少し離れた。
「これくらいかな?」
深宵が頷く。
「そのくらい」
紅沙は腕を組んだまま、「面倒ね、私たち」と呟いた。
誰も否定しなかった。
最後に真響が現れた。
五柱。
その瞬間、空気が変わった。
風が止まり、虫が鳴き止む。五柱の髪が、風もないのにそれぞれ僅かに揺れた。真響はその場で立ち止まり、嫌そうに眉を寄せる。
「……近いぞ」
「アンタもそれ言うの?」
紅沙が額へ手を当てた。
「じゃあ、どこにいればいいのよ」
「もっと向こう」
「話せないでしょうよ」
翠霞が楽しそうに「叫びながら話すとか?」と言うと、紅沙は即座に「そんなの疲れるから嫌よ」と返した。
結局、五柱は朽ちた社を囲むように、妙に広い間隔を空けて座ることになった。人間が見れば、互いに仲が悪すぎて近くに座りたくない集団にしか見えないだろう。実際には逆だ。近付きすぎれば、本当に一つになりかねない。
「で?急ぎなんでしょ、その確認したいことって」
紅沙が雫瑠を見る。
「わざわざ私たちを集めてまで聞きたい事って何?」
雫瑠は少し間を置いてから答えた。
「康和五年の話だ」
それだけで、誰も喋らなくなった。
やはり、と雫瑠は思った。
全員に何かがある。
「皆も覚えてるか?」
「何を」
「あの地震」
翠霞の表情から笑みが消えた。深宵が目を伏せる。真響だけは黙って雫瑠を見ていた。
「実は私も少し覚えているような気がする」
真響が答える。
「何を覚えてる?」
答えるまでに少し時間がかかった。
「人が死んだ。たくさん。みんな泣いてた」
断片。それ以上の形にならない。
雫瑠は自分の記憶を辿るように言った。
「私は、九尾を見たんだ」
紅沙がはっと顔を上げる。
「私も!」
「それ、どこで?」
「分かんないんだ」
「もしかして地震の前?」
紅沙は答えようとして、止まった。
「え……前?」
初めてその問いを考えたような顔だった。
翠霞が「待って」と声を上げる。
「私、地震の前の九尾を覚えてないかも」
深宵が静かに続けた。
「私も知らない」
雫瑠の胸がざわつく。紅沙は眉を寄せた。
「だから何? 見てなかっただけかもしれないでしょう」
「五柱だれも知らないなんてことがあるか?」
「私たちが一緒にいたとは限らないじゃん」
「それでも、事実として誰も覚えてない」
翠霞の言葉に、紅沙は黙った。
深宵が目を伏せたまま言う。
「あの大きな地震は覚えている。九尾も覚えている。でも、わたしの中ではその二つが繋がらない」
雫瑠は小さく頷いた。
それだった。ずっと胸の奥に引っ掛かっていた違和感
。記憶の中には確かに地震がある。その後には九尾狐がいる。
だが、九尾狐が地震を起こしている場面がない。
紅沙が苛立ったように言った。
「じゃあ何? ウチらが千年近くずっと勘違いしてたっていうの?」
誰も答えられない。
その時、真響が地面を見つめたまま呟いた。
「……違う」
雫瑠が振り向く。
「何が?」
「思い出した」
真響の声が僅かに震えていた。
五柱の視線が集まる。
真響は目を閉じた。思い出せ、思い出せ。
地面が揺れている。山が鳴っている。人間が泣いている。
助けを求める無数の声がある。
それは言葉であり、願いだった。
もっと生きたい。まだ死にたくない。元に戻して。早く助けて。もう殺して。誰か救って。
互いに矛盾する願いが、人々の恐怖や怒りと混ざり合いながら一つの場所へ集まっていく。
記憶の中の九尾を探す真響が息を呑んだ。
「いた」
紅沙が身を乗り出す。
「九尾か?」
「いや違う」
真響は目を開いた。
「まだ九尾じゃない」
誰も意味を理解できなかった。真響自身も、自分が見たものをどう言葉にすればいいのか分からないようだった。
「何かいた。でも、形がない。巻き戻しの反動を核にして、人間の願いが集まってた」
黒い狐の瞳が、遠い過去を見ている。
「それが、あとから狐になった」
雫瑠の背筋に冷たいものが走る。
紅沙が立ち上がりかけた。
「待って。それって――」
「落ち着いて。座って」
深宵がすぐに制する。
「そんな場合じゃないでしょ!」
「近いってば」
紅沙は舌打ちして座り直した。
翠霞が冗談めいた響きを完全に失った声で呟く。
「じゃあ、九尾が地震を起こしてないじゃない」
誰も答えない。
「地震が……九尾を生んだってこと?」
その瞬間だった。
五柱全員の頭の中で、何かが弾けた。
景色が流れ込む。
同じ景色。
大地が裂けている。人が泣いている。炎が上がり、家が倒れ、山が崩れている。
その中で、人々から無数の何かが立ち昇っていく。
黒い。白い。赤い。金色。
色すら定まらない。
恐怖。祈り。怒り。願い。
それらが空中で混ざり合い、徐々に形を作っていく。
一尾。
二尾。
三尾。
尾が増えていく。
そして最後に九つ。
巨大な狐が目を開いた。
五柱全員が同時に息を呑む。
共鳴している。
一柱では欠けていた記憶が、五柱の間で繋がり始めている。
だが、同時に別のものまで繋がり始めた。
黒。白。黄。朱。蒼。
五つの気配の境界が、薄れていく。
どこまでが自分で、どこからが他の四柱なのか。感覚が僅かに曖昧になる。
真響が叫んだ。
「離れて!」
全員が弾かれたように動いた。紅沙は後方へ跳び、翠霞は木々の向こうまで距離を取る。深宵と雫瑠もそれぞれ反対方向へ離れ、真響自身も大きく後退した。
共鳴が切れた。
止まっていた風が戻り、虫が再び鳴き始める。
しばらく誰も喋らなかった。
危なかった。
あと少し。もう少しだけ記憶を共有しようとしていたら、何かが起きていた。
神狐。
自分たちが元々一つだった頃の姿。
遠くから紅沙の声が飛んでくる。
「これだから集まりたくないのよ!」
木々の向こうから翠霞が返す。
「でも思い出したじゃない!」
「ウチらが消えたらそんなの意味ないでしょう!」
「消えるとは決まってないよ!」
「でも、わかんないじゃん!」
真響が低い声で言った。
「うるさい」
離れているせいで、いつもより少しだけ声が大きかった。
雫瑠は木にもたれながら呼吸を整えた。
「でも、これで分かった」
全員が彼女を見る。
地震。人々の願い。九尾狐。これまでの認識と順番が違ったのだ。
九尾狐が現れた時には、すでに大地は壊れていた。
深宵が静かに呟いた。
「牡丹は?」
その名前が出た瞬間、空気が変わる。
神代牡丹。
後に神代一族の始祖となり、九尾狐を封じた人間。
真響の脳裏に、また何かが浮かんだ。
若い女。まだ少女と言ってもいい。
泥だらけになり、泣いている。
その少女が狐を睨んでいる。後ろには倒れた家があり、人が死んでいる。
そして少女が叫ぶ。
――お前がやったの?
そこから先がない。
真響は額を押さえた。
「いた」
雫瑠が尋ねる。
「牡丹?」
「たぶん」
「その時は何をしてる?」
「怒っている」
「九尾に対して?」
「うん」
「どうして?」
「そこまでは分からない」
記憶はまたそこで切れている。
すると、離れた場所にいた紅沙が、また妙なことを言った。
「私、もしかして牡丹と話したことあるかも」
全員が紅沙を見る。
「それはいつ?」
「分からないって」
「何を話したの?」
「だから覚えてないの!」
苛立ちながら答えた紅沙だったが、何か一つだけ残っている。言葉。少女の声。
紅沙はそれを探るように口にした。
「……『あれを止めるにはどうしたらいい』っていってた」
雫瑠が尋ねる。
「九尾を?」
「たぶん」
「それは違う」
真響が首を横へ振った。
「何が?」
真響は自分の中に残っている景色を辿る。
九尾狐は、その時何をしていた。
人を襲っていたか。
違う。
山を壊していたか。
違う。
ただ立っていた。
そして、何かを見ていた。
「九尾も」
真響が呟く。
「止めようとしてた」
今度こそ、誰も言葉を発しなかった。
千年前。災害の中で、一人の少女は九尾狐を災いだと思い、止めようとしていた。
そして九尾狐もまた、別の何かを止めようとしていた。
同じ災厄を前にしながら、互いを敵だと思ったまま。
五柱は、その光景を見ていたようだった。
それなのに、忘れた。
雫瑠が小さく言った。
「会わないといけない」
真響が見る。
「誰に」
「牡丹」
紅沙が眉を寄せた。
「居るのは奥乃院でしょう?」
「うん」
「神代の本拠地みたいな」
「うん」
「私たち五柱で?」
雫瑠は少し考えてから、首を横に振った。
「それは駄目」
全員が同意した。
いろいろな意味で駄目だった。
翠霞が尋ねる。
「じゃあ誰が行く?」
四柱の視線が、一斉に真響へ向いた。
真響が嫌そうな顔をする。
「……何だ」
紅沙が言った。
「神代と仲良しじゃん?」
「違う」
深宵も続ける。
「奥乃院に入ったことがあるよね」
「一回だけだ」
翠霞が楽しそうに笑った。
「蒼麻もいるしねぇ」
「関係ない」
最後に雫瑠が言う。
「真響、お願い」
真響は黙った。
四柱が見ている。
「……嫌」
紅沙が即座に返す。
「もう!行きなさいよ」
「なんで私が」
「アンタが一番馴染んでるから」
「馴染んでない」
「いつも酒まで一緒に飲んでるじゃん?」
真響の目が細くなった。
「誰に聞いた」
紅沙が笑う。
「秘密」
「紅沙」
「怖い怖い」
久しぶりに、本当に久しぶりに、五柱の間に小さな笑いが生まれた。
同じものから生まれ、同じものへ戻ることを恐れ、近付きすぎることさえできない五柱。それでも千年前に置き忘れた何かを知るために、もう一度だけ互いの記憶を信じてみようとしていた。
真響は夜空を見上げた。
「……蒼麻に聞く」
紅沙がすぐに笑う。
「ほら」
「何」
「やっぱり仲良し」
「違う」
「はいはい」
真響は睨んだ。
だが、否定する声はいつもより少しだけ弱かった。
その頃、東京の奥乃院では、神代百合が持ち帰った一枚の記録を前に、紫苑が同じ結論へ辿り着こうとしていた。
九尾狐は災厄を起こしたのではない。
災厄の中から生まれた。
千年間、人間と妖狐。それぞれ別の側から失われていた記憶が、ようやく同じ一点へ向かって動き始めていた。




