第百三話 忘れた者たち
真響が蒼麻の前へ現れたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
世田谷の赤堤にある小さな酒屋。蒼麻は棚に並ぶ季節酒を眺めながら、一本ずつラベルを見比べていた。
「また酒か」
背後から声がした。
振り返ると真響が立っている。
「なんで俺の居場所がわかるんだよ。またって何だ」
「この前も酒を見てたじゃないか」
「仕事と趣味が近いんだから仕方ないだろ」
真響は棚を見る。
「どれを買うんだ」
「いま、悩んでるところ」
「長い」
「選ぶ時間も楽しいんだよ」
「わたしも好きそうなやつを選べ」
「一緒に飲む気満々じゃねーか」
少し間があった。
「うむ」
「じゃあ、買ったら付き合ってもらうか」
蒼麻は笑った。
いつもの真響だった。
だが、何かがおかしい。
表情ではない。
声でもない。
立っているだけなのに、どこか意識が別の場所へ向いている。
蒼麻は一本の瓶を棚へ戻した。
「何か、あったんだよな?」
真響は答えない。
「その顔、何かあった時のやつだろ」
「そんな顔あるか?」
「ある」
「ない」
「わかるって」
真響は少しだけ目を逸らした。
「……五柱で会った」
蒼麻の手が止まる。
「え?」
「雫瑠に呼ばれた」
「五柱全員?」
「うん」
蒼麻の表情が変わった。
五柱が集まる。
その意味を知らないわけではないからだ。
真響たちは元々、一つの神狐だった。
五柱が強く同調すれば、再び元の存在へ戻る可能性がある。
「大丈夫だったのか?」
「危なかった」
「それを先に言えよ」
「神狐に戻ってないから大丈夫だ」
「そういう問題じゃないだろ」
真響は少し面倒そうな顔をした。
「でも思い出した事がある」
蒼麻が黙る。
「何を?」
「千年近く前」
その言葉だけで、空気が変わった。
真響は店内を見回す。
昼過ぎ。まだ客は少ない。
それでもここで話す内容ではない。
蒼麻も察した。
「場所を変えようか」
真響が頷いた。
二人は店を出て、近くの遊歩道沿いを歩いた。
強くなってきた陽射し。今年の夏も暑くなりそうだった。
真響は日陰を選ぶように歩く。
蒼麻がペットポトルの水を渡す。
「いる?」
「酒じゃないじゃないか」
「昼間から飲ませないよ」
「蒼麻なら飲むに決まってる」
「飲まないって」
真響は水を受け取った。
少し歩いてから、古いベンチへ座る。
蒼麻も隣へ腰を下ろした。
「それで?」
真響はすぐには話さなかった。
「……九尾が」
「うん」
「地震を起こしてないかもしれない」
蒼麻は言葉を失った。
真響は前を向いたまま続ける。
「私たち、大地震が起こった事は覚えてた。九尾の事も覚えてた」
「でも」
一度言葉を切る。
「その二つが繋がってなかったんだ」
蒼麻は眉を寄せる。
「どういう意味?」
「九尾が地震を起こしてるところを、誰も知らない」
「五柱とも?」
「うん」
「それだけなら、たまたま見てなかった可能性もあるだろ」
「そう」
真響は頷く。
「だから雫瑠が聞いた」
「地震の前に誰か九尾を見たかって」
蒼麻の表情が固まる。
真響は静かに言った。
「誰も覚えてなかった」
用水路の水面が陽光を反射している。
遠くで子どもの声が聞こえる。
その平穏な景色の中で、千年前の話だけが異物のようだった。
「それで」
蒼麻が尋ねる。
「何を思い出した?」
真響はペットボトルを握ったまま、ゆっくり目を閉じる。
「地震のあと」
「人間の声がいっぱいあった」
「声って?」
「願いだ。もっと生きたいとか、誰か助けてという類の」
真響は眉を寄せる。
蒼麻は黙って聞く。
「それが集まってた」
「どこに?」
「分からない」
「でも、確実に何かになってた」
真響が目を開ける。
「最初は形がなかったはずだ。それがおそらく、あとから狐になった」
蒼麻の喉が僅かに動く。
「九尾に?」
「うん」
しばらく沈黙が続いた。
蒼麻は視線を落とす。
「じゃあ」
「九尾は地震の原因じゃなく、地震の後に生まれたって事になるんだな」
「たぶん」
「でもそれは確定じゃないんだな」
「記憶だから」
真響は短く答える。
「途中で切れてる」
それが厄介だった。
五柱は長命だ。
しかし長命であるからすべてを覚えているわけではなかった。
まして彼女たちは何度も神狐へ戻り、世界そのものの巻き戻しを経験している。
記憶は欠け、混ざる。
自分のものなのか、神狐だった頃のものなのかすら曖昧になる。
蒼麻はしばらく考えた。
「牡丹様は?」
真響の表情が変わる。
「見えた、怒っていた」
「誰に?」
「九尾」
「何て怒ってる?」
真響は首を振った。
「そこはあまり覚えてない」
そして、少し間を置く。
「でも」
「九尾も何かを止めようとしてたんだ」
蒼麻が顔を上げた。
「だけど、何を止めようとしてたのかは分からない。ただ、牡丹は九尾を止めようとしてた」
「九尾も何かを止めようとしてた」
「たぶん同じもののような気がする」
蒼麻は息を吐いた。
「……最悪のすれ違いだな」
真響は答えなかった。
その言葉が一番近い気がしたからだ。
その頃。
神代奥乃院では、紫苑が古い記録を前に座っていた。
卓上には何冊もの写本が広げられている。
康和五年。大地震。大谷村。九尾狐。神代牡丹。
同じ出来事について書かれた記録なのに、年代が下るほど文言が変わっている。
最も古いものにはこうある。
『大災の後、異形狐現る』
後世の写本では。
『異狐、大災を招く』
紫苑は目を細めた。
意味が違う。
決定的に。
そこへ橘が入ってくる。
「何か分かりましたか」
紫苑は一冊の記録を差し出した。
「伝承過程で内容が書き換わっています」
橘が読む。
「意図的にですか?」
「断定できません」
紫苑は答えた。
「ただ、人は意味が分からない文章を見ると、自分が理解しやすい形に直します」
「九尾狐が災害の直後に現れた」
「なら」
橘が続きを言う。
「九尾狐が災害を起こしたのだろう、と」
「はい」
紫苑は別の記録を開く。
「しかも牡丹様自身が九尾狐を災いの元凶と認識していた可能性が高い」
「では単純な誤写ではない」
「ええ」
紫苑の声が少し低くなる。
「初代様の認識が、後世の記録によって確定した歴史へ変わっていった」
橘は黙った。
それは責められるような話ではない。
大災害の直後。人々は死に村は壊れ、その中で巨大な九尾狐が姿を現した。
それを災いと考えるなという方が難しい。
「牡丹様に確認できますか」
橘が尋ねる。
紫苑は一度考えた。
「現在の状態では、慎重に行う必要があります」
「忍冬さんの解呪は?」
「進んでいます。ただし記憶を無理に刺激すれば、冥陰波動との均衡が崩れる危険があります」
橘は古い文字を見つめる。
「千年間守ってきたものの意味が、変わるかもしれませんね」
紫苑は答えなかった。
神代一族は九尾狐を封じるために続いてきた。
もし、その始まりとなった理由に誤解があったとしても。
だからといって、封印そのものが間違いだったとは限らない。
九尾狐が危険な力を持つことも事実なのだから。
正しい理由から始まった正しい行為。
間違った理由から始まった正しい行為。
正しい理由から始まった間違った行為。
歴史は、それほど簡単ではなかった。
「奥乃院へ行く」
真響が言った。
蒼麻は隣を見る。
「牡丹様に会いに?」
「うん」
「入れてくれるかな」
「蒼麻が言えば」
「俺にそんな権限はないぞ」
「妹」
「麻那を何だと思ってるんだ」
「便利」
蒼麻が吹き出した。
「本人の前で絶対にそれ言うなよ」
少しだけ空気が和らいだ。
しかし蒼麻はすぐに真顔へ戻る。
「真響」
「何」
「牡丹様に会って、もし本当に全部勘違いだったって分かったら」
真響が蒼麻を見る。
「どうする?」
少し難しい問いだった。
真響は長く生きている。
牡丹も。九尾狐も。
千年という時間は、謝れば済むには長すぎる。
「分からない」
真響は正直に答えた。
「でも、みんなが知らないままよりいいだろう」
蒼麻は頷く。
真響はペットポトルの水を飲む。
「それに、九尾は覚えてるだろうから」
蒼麻が目を細める。
「全部?」
「たぶん」
「なんで?」
真響は少し嫌そうな顔をした。
「そういう奴だから」
九尾狐。
記憶を縫い留める。
失われるはずだった過去すら、そこにあったものとして保持し続ける存在。
世界が巻き戻っても、五柱が忘れても、九尾だけは覚えている。
もしそうなら千年前の真実を最も正確に知っているのは、封印されている九尾狐本人ということになる。
蒼麻が低く呟く。
「……会えれば早いんだけどな」
真響の目が鋭くなる。
「駄目だ」
「まだ何も言ってない」
「九尾に会うとか考えるな」
「顔に出た?」
「声に出た」
真響は蒼麻を睨む。
「今は駄目だ」
「分かったよ」
その言い方に、少しだけ以前とは違う親しさがあった。
蒼麻は笑う。
「じゃあ、とりあえず奥乃院だな」
真響が頷いた。
「うん」
二人は立ち上がる。
歩き出してから、蒼麻が何気なく尋ねた。
「そういえば五柱で集まって、何か他に思い出した?」
真響の足が一瞬止まる。
「何」
「何か」
真響は少し考えた。
「紅沙が、牡丹と話したことあるかもしれないって」
蒼麻が目を丸くする。
「それ重要じゃない?」
「でも覚えてないって」
「じゃあ今度本人に聞いてみよう」
「今度?」
「会う機会あったら」
真響は嫌そうな顔をした。
「集まるのは嫌」
「神狐になるかもしれないから?」
「それも理由だが」
「他にもなんか理由ある?」
「うるさい」
「紅沙?」
「全員だ」
蒼麻は笑った。
「仲良さそうじゃん」
真響が立ち止まった。
「違う」
「はいはい」
夏の午後。二人の声が川沿いの道へ遠ざかっていく。
その頃、誰も知らない場所で。
一人の男が古い酒盃を指先で弄んでいた。
盃には九尾の狐が描かれている。
男は一枚の報告書を読む。
神代百合。康和五年。大谷村。記録閲覧。そして。妖狐五柱の移動。
男は静かに笑った。
「ようやく」
机の上へ盃を置く。
「思い出し始めたか」
誰なのか。
誰の側なのか。
まだ分からない。
ただ。
千年前のすれ違いを掘り起こそうとしているのは、神代一族だけではなかった。




