第百四話 酒が覚えている
和灯の引き戸を開けた瞬間、蒼麻は少しだけ肩の力が抜けた。
第二の神殻との戦いが終わってからというもの、どうにも話が大きすぎる。
神殻の発生原因、神代一族の内部に残された記録、百合が持ち帰った康和五年の資料、そして九尾狐が大地震を引き起こしたのではなく、大地震によって生まれた可能性まで浮上した。
ついには真響たち五柱まで千年前の記憶を探り始めている。
それに比べれば、和灯は変わらない。
カウンターの向こうでは蓮二がグラスを拭き、冷蔵庫には全国各地の酒が並び、店内には出汁と焼き物の匂いが微かに漂っている。
「いらっしゃい」
蓮二が顔を上げ、蒼麻の後ろにいる真響を見る。
「今日は二人か」
「二人で飲む事になった」
「何飲む?」
蒼麻より真響が先に答えた。
「辛くないやつ」
蓮二は慣れたように続ける。
「甘口です?」
「甘すぎない」
「香りは?」
「うるさくない」
蓮二が蒼麻を見る。
「翻訳機能発動っ」
「穏やかな香りで、旨味があって、甘味はあるけど後口が重くないやつ」
「最初からお前が注文しろ」
「本人の希望を聞くことも大事だろ」
真響が横から言う。
「今度から蒼麻に任せるか」
「ほら、本人が成長を放棄した」
「蒼麻がいるから大丈夫だ」
「俺を何だと思ってるんだ」
「便利」
「麻那と同じ扱いになってる」
真響は何も答えず席へ座った。
蓮二が笑いながら冷蔵庫を開ける。その様子を見ながら、蒼麻も隣へ腰を下ろした。
こういう時間が欲しかった。
蓮二が選んだ酒を二人の前へ置く。真響は香りを確かめ、一口含んでから小さく頷いた。
「悪くないぞ」
「早いな」
「これは良い酒だ」
「それならよかった」
蒼麻も口にする。柔らかな甘味から米の旨味が広がり、最後に軽い酸が残る。香りも強すぎない。
「確かに真響が好きそうだな」
「どういう味だ?」
「派手じゃないけど、後に残る感じ」
蒼麻は、隣にいる女が千年以上を生き、人間とは異なる存在であることを時々忘れそうになる。
その時、和灯の引き戸が開いた。
「蓮ちゃん、いる?」
「いなかったら誰も返事しないですよ」
「相変わらず可愛くないなあ」
入ってきたのは六十代くらいの男だった。和灯では何度か見たことがある。地方へ出かけては酒蔵や酒屋を巡り、時々妙な酒や酒器を持ってくる常連だ。
男は蒼麻を見ると笑った。
「お、酒に詳しい兄ちゃんもいるじゃない」
「そろそろ名前で覚えてくださいよ」
「蒼麻だろ」
「覚えてるじゃないですか」
「酒詳しい兄ちゃんの方が呼びやすい」
「何のための名前なんですか」
男は笑いながらカウンターへ座り、持っていた細長い包みを置いた。
「蓮ちゃん、これ開けようぜ」
包みから現れたのは一本の酒だった。販売用の酒には見えない。
ラベルはほとんど無地で、銘柄らしいものも記されていない。
蒼麻が身を乗り出す。
「何ですか、それ」
「ほら、食いついた」
「そりゃ食いつきますよ」
「丹波の方へ行ってたんだよ。昔付き合いのあった蔵の爺さんに会いに」
「丹波?」
蒼麻が聞き返す。
「もう酒造りはやめてるところだけどな。昔の記録を参考に、身内で少しだけ仕込んだらしい。売り物じゃないよ」
蓮二が瓶を手に取る。
「じゃあ、ここで開けても?」
「そのために持ってきた」
「珍しく気を遣ってくれたんですね」
「帰ろうかな」
拗ねたふりをする常連客を横目に蒼麻がボトルに力を入れた。
「もう開けます」
栓が開く。その瞬間、真響の表情が変わった。
ふわりと広がった酒の香りに反応するように、杯へ伸ばしかけた手が止まる。
蒼麻はすぐに気付いた。
「真響どうした?」
返事がない。
真響は酒瓶を見ていた。
「どうした?」
「……知ってる」
「この酒を?」
真響はすぐには頷かなかった。
「分からない。でも、知ってる感じがする」
蓮二と常連客が顔を見合わせる。
「昔、似た酒を飲んだとか?」
男が尋ねる。
真響は目を閉じた。
香りがある。発酵した穏やかな甘さ。
その奥に、別のものが混ざっているのを嗅ぎ取っていく。酒に溶けた想い、土地の声、水の記憶、
湿った土。山。川。薪の煙。人の声。底に沈んだ記憶の深くへ潜っていく。
少女が歩いていた。
粗末な衣をまとい、髪を後ろで束ねている。手には小さな徳利。
山道。村の外れ。
少女は誰かを探しているようだった。
やがて立ち止まり、少し離れた場所を見る。
そこに男がいる。
顔は見えないが、女が近付き器へ酒を注ぐ。
『飲む?』
男は器を見た。
『なぜ私に?』
少女が笑う。
『ずっとこっち見てるから』
そこで景色が途切れた。
真響が目を開けた。
「……あれは牡丹、か」
蒼麻の表情が変わる。
「牡丹様?」
「ああ」
「今、見えたの?」
「見えた……」
そこまで言って、真響が眉を寄せた。
「待てよ、違うぞ」
「何が?」
「私はこれを見てない」
蒼麻が意味を理解できずに真響を見る。
「見えてたんじゃないの?」
「そうじゃない」
真響は自分の記憶を確かめるように額へ手を当てる。
「ここに私がいた感じがしない」
「その場に?」
「うむ」
蒼麻も考え込む。
真響が千年前の記憶を取り戻しているのだと思っていた。だが、本人にその場にいた感覚がないという。
蓮二が二人を見ながら尋ねた。
「何の話してる?」
蒼麻は少し迷ってから答える。
「昔の酒の記憶……みたいな」
「酒に記憶?」
「そういうこともあるんだよ。たぶん」
「お前の周り、『たぶん』で済ませていいことの範囲が広すぎない?」
「俺も最近そう思う」
常連客が笑った。
真響は笑わなかった。
もう一度酒を見る。
何かが残っている。
映像ではない、感情か。安心。親しみ。感謝。
少女は、あの男を怖がっていなかった。
むしろ昔から知っている、そんな感覚がある。
「……大谷」
真響が呟いた。
蒼麻が振り向く。
「大谷ってなんだ?」
「そんな感じがする」
「人の名前?」
「分からない」
だが蒼麻には、その言葉に覚えがあった。
つい最近、百合が持ち帰った康和五年の資料。その中に記されていた地名。
「丹波国桑田郡……大谷村」
真響が蒼麻を見る。
常連客も反応した。
「大谷村?」
「知ってるんですか?」
「いや、その酒を造った蔵の爺さんが話してた事があるよ。昔、この辺りにはそういう名の村があったって。今の地名とは違うけどな」
蒼麻と真響が顔を見合わせる。
偶然にしては、出来すぎている。
男は続けた。
「それで思い出したけど、妙な昔話も聞いたな」
「どんな?」
「その村には、人間じゃないものが住んでいたって」
真響の目が細くなる。
「人間じゃない?」
「神様みたいなもんだとさ。土地をずっと見守ってる男がいたとか何とか。村の名前と同じで、オオタニって呼ばれてたらしい」
蒼麻の表情が変わった。
「現人神ってことですか……?」
男が笑う。
「そこまでは知らないよ。爺さんの爺さん、そのまた前からの話だ。昔話なんて途中でいくらでも変わるからな」
しかし蒼麻は笑えなかった。
現人神。
神が人の姿を取るのではない。人として存在しながら、同時に神として扱われるもの。
神代一族の資料を調べる中で、その概念についても聞いたことがある。
歴史上、現人神という言葉が向けられてきた存在は一つではない。天皇をそう捉える思想があり、出雲国造家にも神と人の境界に立つような古い祭祀観が残る。そして神を降ろし、その者が神となる諏訪の大祝。そして神代一族に伝わる極めて限られた記録には、それらとは別に、もう一つ奇妙な系譜が記されていた。
どちらにも属さない。
朝廷の権威とも、出雲や諏訪の祭祀とも異なる。
土地そのものに結びつき、その土地に生きる人々から神として認識されながら、人の姿で村と共に存在したもの。
神代の古い記録では、それを便宜上、第四の現人神と分類していた。
そして、その存在について残されている名は一つしかない。
大谷。
蒼麻がゆっくり息を吐く。
「……本当に存在していたのか」
真響が見る。
「知ってるの?」
「名前だけは」
蒼麻は答えた。
「天皇や出雲国造家みたいに、後世まで体系的に残ったものとは違う。ほとんど記録がないんだ。ただ、神代の古い資料に、どれにも属さない現人神がいたって記述がある」
「それが大谷?」
「たぶん」
蒼麻は自分で言ってから苦笑した。
「今日は『たぶん』ばっかりだな」
真響は酒を見る。
「牡丹は知ってた」
「大谷を?」
「ああ」
先ほど流れ込んできた感情は安心、そして親しみ。
少女の頃から、自分たちを見守っていたものへ向ける感覚。
「ずっと前から」
蒼麻は考える。
牡丹が暮らしていた大谷村。
その村を見守る現人神、大谷。
そして後に神代一族の始祖となる少女、牡丹。
「じゃあ、さっき牡丹様が酒を渡してた相手は……」
「その大谷という存在かもしれない」
真響が答えた。
しかしその言葉を口にした瞬間、さらに別の感覚が入り込んだ。
違う光景がもう一つある。
真響は再び目を閉じた。
今度の景色は荒れている。先ほどの穏やかな村ではない。
地面が崩れ、家屋が壊れ、人が泣いている。
大地震の後。
少女――牡丹がいる。
同じように酒を持っている。
だが、その手が僅かに震えていた。
先ほどとは違う。安心ではない。それは恐れ。
目の前にいるものが何なのか分からない。
それでも牡丹は逃げない。
酒を注ぎ、差し出す。
その向こうで何かが動いた。
尾が一つ。二つ。それは重なり、増えて、九つとなった。
真響が目を開けた。
「……なんだこれは」
蒼麻が尋ねる。
「どうした?」
「二つある」
「二つ?」
「牡丹が酒を渡した記憶」
真響は自分でも混乱していた。
「最初はおそらく大谷」
「最初?もう一つは?」
真響は黙る。
さっきまでとは違う感情が、まだ胸に残っている。
恐怖と警戒。そして好奇心。
そして、それでも相手を知ろうとする意志。
「九尾」
蒼麻の目が見開かれる。
「九尾狐にも?」
真響は杯を持ち上げた。
「おかしいんだが、私はそのどちらも見てない」
蒼麻が黙る。
真響は酒を一口飲んだ。
今度は何も見えない。
ただ、胸の奥に残る感覚だけがある。
「これは私の記憶じゃないぞ」
「じゃあ誰なんだ?」
「分からない」
少し考える。
「酒かもしれない」
蒼麻の表情が変わった。
「酒?」
「土地。人。気持ち。いろいろ入ってる」
真響は説明する言葉を持っていないようだった。
だが蒼麻には、その意味が分かった。
神酒縫。
父、麻臣が少彦名命の権能によって蒼麻へ施した封印。
神酒に宿る土地の記憶、人々の祈り、感謝を糸のように紡いでいく力。
「……父さんと同じだ」
「麻臣?」
「神酒縫」
蒼麻は自分の胸へ手を置く。
「父さんは、酒には土地の記憶や人の祈りが宿るって考えてたらしい」
真響が蒼麻を見る。
「これもそうなのかもな」
「分からない。でも、あり得る」
真響は再び酒を見る。
「私、受け取ったのかも」
その言葉が妙に腑に落ちた。
受容。
真響が持つ根源的な性質。
拒絶せず、まず受け止める。
人の感情も。願いも。
そして酒に残された記憶さえも。
「昔の私は、今より勝手に受け取っていたかもしれない」
蒼麻は少し笑った。
蓮二が二人の前へ肴を置く。
「話が終わったなら食え。さっきから酒しか飲んでない」
「ありがとう」
真響も箸を取る。
「これは美味そうだ」
「千年前の記憶よりそっちが優先なんだな」
「今食べないと冷める」
「それが正しい」
蓮二が呆れたように笑った。
常連客も酒を飲みながら言う。
「察するにそのお嬢ちゃんは霊能者なんだろ。俺は酒一本持ってきただけなのに、随分大げさな話になったな」
蒼麻は苦笑する。
「そうですね」
「でもな」
男は杯の中を見ながら続けた。
「蔵の爺さんが言ってたよ。昔は酒って、人が飲むだけのものじゃなかったんじゃないかって」
蒼麻が顔を上げる。
「どういう意味です?」
「井戸に供える。山に供える。村の境に供える。そうやって、今年もここで酒を造らせてもらいますって、土地にも挨拶してただろうってさ」
蒼麻は黙った。
土地へ酒を返す。土地の記憶を酒が受け取る。その酒を人が飲む。
そしてまた、その土地で生きる。
父の神酒縫が、急に遠い昔から続いてきた思想の延長にあるように思えた。
真響がぽつりと言う。
「牡丹もやってたぞ」
「土地に酒を?」
「うん、大谷にも」
少し間を置く。
「そして九尾にも」
蒼麻は杯を見つめた。
大谷。
人間の村を見守り、人間と共に生きた現人神。
九尾狐。
人々の恐怖と願いの中から生まれ、後に神代一族最大の災厄として封じられた存在。
牡丹は、その両方に酒を差し出した。
神だからでもない。怪異だからでもない。
まず相手を知ろうとしたのだ。
「牡丹様って」
蒼麻が呟く。
「変な人だったのかもな」
真響が即座に答える。
「蒼麻と似てる」
「どこが?」
「人じゃないものを見ても、とりあえず話すだろ?」
「俺そんな感じ?」
「うん。酒も出すし」
「……否定できないな」
真響が僅かに笑った。
その表情を見て、蒼麻も笑う。
だが胸の奥には、一つの疑問が残っていた。
大谷には酒を差し出せた。
そして、理解し合えたのかもしれない。
九尾狐にも、同じように酒を差し出した。
それなら何が二人を変えたのか。
酒を差し出すほど相手を知ろうとした少女が、なぜ最後には九尾狐を封じたのか。
真響は杯の中に残る酒を見つめた。
その答えまでは、酒もまだ語ってくれなかった。
ただ真響には分かる。
九尾狐へ酒を差し出した時の牡丹には、確かに恐怖があったけれど憎しみはなかった。
千年前に失われた二人の物語は、敵同士として始まったのではない。
和灯の小さな杯の中から、誰も知らなかったその事実だけが、静かに浮かび上がり始めていた。




