第百五話 残された違和感
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和灯を出たあとも、蒼麻の頭から一つの光景が離れなかった。
若い牡丹が酒を差し出している。
相手は大谷かもしれない。
そして別の日には九尾狐に差し出したのかもしれない。
真響が受け取ったのは自分自身の記憶ではなく、酒に残された土地と人の記憶だろうという。
それが事実なら、牡丹と九尾狐は最初から敵だったわけではない。
少なくとも、酒を差し出せる程度には、言葉を交わそうとしていた。
それなのに最後には封印に至った。そこに何があったのか。
蒼麻はその疑問を抱えたまま、真響とともに奥乃院へ向かうことにした。
翌日。神代奥乃院の一室には、すでに何人かが集まっていた。
橘、紫苑、百合、麻那。
そして蒼麻の隣には真響がいる。
真響が再び奥乃院へ入ってきたことに、廊下ですれ違った一族の何人かはやはり露骨な視線を向けていた。
だが前回ほどの緊張はない。第二の神殻の一件で、真響が神代一族と共闘したことはすでに一部へ伝わっているのだ。
とはいえ、本人はそんなことをまるで気にしていなかった。
案内された部屋へ入るなり、真響は壁際の椅子へ腰を下ろした。
「また多いな」
百合が真響を見る。
「初対面でそれ言うのね?」
真響も百合を見る。
「誰だ」
「神代百合」
「そうか」
「興味薄っすいなぁ」
「必要になったら覚える」
百合は一瞬黙ったあと、面白そうに笑った。
「嫌いじゃないけどね、その感じ」
蒼麻は嫌な予感がして百合を見る。
「百合さん、煽らないでくださいね」
「何で私にだけ言うの」
「真響には言っても聞かないので」
「聞いているぞ」
真響が口を挟む。
「聞くだけだがな」
「ほら」
麻那が小さく笑った。
そんな短いやり取りのあと、橘が卓上の資料へ視線を落とした。
「では始めましょう」
空気が変わる。
机の上には、百合が東央アセットから持ち帰った資料。紫苑が奥乃院から集めた古記録。そして蒼麻が和灯で聞いた話をまとめた簡単なメモが置かれている。
紫苑が最初に口を開いた。
「現時点で、康和五年の大地震と九尾狐の出現について確認できていることを整理します」
資料を一枚めくる。
「最も古い記録群には、地震の後に異形の狐が現れたと記されています。ただし、九尾狐が地震そのものを引き起こしたと断定する記述は確認できていません」
百合が腕を組む。
「そこが大きいのよね」
「はい」
紫苑は続ける。
「後世の写本になるほど、『大災の後、異形の狐現る』という表現が『異形の狐、大災を招く』という意味へ変化しています」
蒼麻が資料を見る。
「順番が変わってる」
「正確には、出来事の並びが因果関係として解釈された可能性が高いです」
麻那が尋ねる。
「単純な誤写ですか?」
紫苑は首を横に振った。
「それだけではないでしょう」
「というと?」
「牡丹様自身が、当時九尾狐を災害の元凶だと考えていた可能性があります」
真響の視線が上がる。
紫苑もそれに気付いた。
「初代様の判断が後世の記録へ反映され、その認識を前提に写本が作られ続けた。結果として、地震の後に現れた存在が、いつしか地震を引き起こした存在へ変わった」
百合が指先で机を軽く叩く。
「人間って、分かりやすい話にしたがるからね」
橘が百合を見る。
「随分辛辣ですね」
「潜入するとよく分かりますよ。複雑な理由より、『あいつが悪い』の方が皆覚えてくれる」
真響が小さく言った。
「人間らしいな」
百合が振り返る。
「狐だって似たようなものでしょ」
「そうかもな」
珍しく真響が素直に認めた。
蒼麻は少し驚いた顔をする。
「それを認めるんだ」
「私たちも忘れてたからな」
その一言で、全員の視線が真響へ集まった。
橘が静かに尋ねる。
「五柱で集まった時の話を、改めて聞かせてもらえますか」
真響は嫌そうな顔をした。
「長くなるから面倒だ」
「必要な部分だけで構いません」
「では短く話す」
真響は少し考えてから口を開いた。
「地震は覚えてた。九尾も覚えてた。でも、九尾が地震を起こした記憶は誰にもなかった」
紫苑が問う。
「五柱全員ですか?」
「そうだ」
「地震以前に九尾を見た記憶は?」
「ない」
百合の表情が変わる。
「誰も?」
「誰もだ」
真響は続ける。
「そのあと、少し思い出した」
「何を?」
「人間の願いがいっぱい集まってた。形のないものが、それを受けて形になった。核になったものは想像がつく」
蒼麻は以前聞いた話だが、改めて聞くと胸の奥がざわつく。
「それが九尾狐?」
麻那が尋ねる。
「たぶん」
「つまり」
百合が言う。
「地震が起きた。人が大量に死んだ。恐怖や祈りが集まった。そのあと九尾狐が現れた。結論はそうなるわね」
真響が頷く。
「そういうことだ」
紫苑は古記録へ目を落とした。
「史料と一致します」
その言葉の重さに、誰もすぐには反応できなかった。
人間側の記録。
妖狐側の記憶。
まったく異なる経路で残っていた二つが、初めて同じ結論を指している。
九尾狐は、大地震を起こしていない。少なくとも、その可能性が極めて高い。
橘が低い声で言った。
「では、千年間守られてきた前提の一つが崩れますね」
麻那が少し硬い表情で尋ねる。
「封印そのものが間違いだったということですか?」
誰もすぐには答えなかった。
真響が先に口を開いた。
「それは違うだろう」
紫苑が見る。
「なぜそう思いますか」
「九尾は危ない」
真響は即答した。
「地震を起こしてなくても」
「力そのものが?」
「ああ」
真響の目が少しだけ遠くを見る。
「人間の願いを全部受けてた。だから、人間より人間のこと知ってる。だが」
言葉を探す。
「あれは分かってない」
蒼麻が真響を見る。
「どういう意味なんだ?」
「願いは分かる。でも、どうしてそう願うかは分からないのだ」
その説明に、橘の表情がわずかに変わる。
真響は続ける。
「生きたいって願った人間が、次の日には死にたいって思う。誰かを助けたいって願った人間が、同じ人を憎む」
「九尾にはそれが理解できなかったのか?」
蒼麻が尋ね、紫苑が静かに頷いた。
「強大な力を持ちながら、人間の矛盾を理解できない存在」
百合が苦笑する。
「それは確かに、ちょっと怖いわね」
真響は言った。
「だから牡丹が全部間違ってたとは思わない」
蒼麻は少し意外だった。
「真響がそう言うんだ」
「何だ」
「いや。九尾側を庇うと思ってた」
真響の目が細くなる。
「九尾側って何だ」
「そういう意味じゃなくて」
「私は九尾じゃないぞ」
「それは分かってるよ」
「ならいい」
一度空気が和らぐ。
そのタイミングで百合が別の資料を取り出した。
「それで、もう一つ」
「何ですか」
麻那が尋ねる。
「この大谷村」
百合は地名を指した。
「昨日から気になってるんだけど」
蒼麻も反応する。
「俺も」
「和灯で何かあったんでしょ?」
「丹波の昔の酒を飲んだら、真響が牡丹様の記憶みたいなものを受け取ったんです」
「みたいなもの?」
「本人の記憶じゃないらしくて」
百合が真響を見る。
「どういうこと?」
「その場にいた感じがしない」
「じゃあ誰の視点?」
「視点じゃない」
「もっと分からなくなった」
真響は少し面倒そうにしながら説明する。
「酒に残ってたものを受け取った感じ」
紫苑の視線が蒼麻へ動く。
蒼麻は頷いた。
「父さんの神酒縫と似ているんです」
橘が静かに聞く。
「麻臣さんの?」
「はい。父さんは、酒には土地の記憶、人の祈り、感謝が宿ると考えていた。神酒縫は、それを糸として紡ぐ力です」
真響が続ける。
「私は受け取る」
百合が納得したように言う。
「黒狐の受容の性質ね」
真響は百合を見た。
「人間は分からないことにも名前つけたがる」
「それは否定できない」
百合が笑う。
蒼麻は和灯で見た真響の反応を説明した。
牡丹が酒を差し出していたこと。
一度目の相手は大谷と思われること。
そして別の日、牡丹が九尾狐にも酒を差し出していた可能性があること。
話し終えると、紫苑が珍しく長い沈黙を置いた。
「大谷」
その名前だけを繰り返す。
百合が聞く。
「何か知ってる?」
「ごく僅かです」
紫苑は答える。
「奥乃院の古記録にも名前はあります。ただし、神名ではありません」
蒼麻が尋ねる。
「現人神というものですか」
紫苑が蒼麻を見る。
「その可能性が高い」
麻那も眉を寄せる。
「大谷という人物が、牡丹様の頃からいた?」
「人物という表現も適切かどうか分かりません」
紫苑は慎重だった。
「朝廷の系譜にも、出雲の国造家にも諏訪の大祝にも属さない。土地そのものと結びつき、人の姿で一つの村を見守っていた存在」
百合が言う。
「第四の現人神」
紫苑が頷いた。
「古い神代の分類では、そう呼ばれています」
真響はその言葉へ反応しなかった。
ただ。
「それ、なんだか知ってる気がする」
全員が真響を見る。
「大谷を?」
「うん」
「直接会った?」
「分からない」
また曖昧な答え。
だが今回は、誰も急かさなかった。
無理に掘り起こせば、記憶が歪む可能性がある。
橘が資料を閉じた。
「ここまでで、一つ分かったことがあります」
全員が見る。
「我々は、記録だけを読んでも足りない」
真響が橘を見る。
「妖狐の記憶だけでも足りない」
橘は続ける。
「酒に残されたものも、土地に残された伝承も。すべて合わせて初めて見えてくる」
百合が腕を組む。
「じゃあ次は現地ですか?」
「そうなります」
紫苑が口を開く。
「ただし、大谷村は現在その名では残っていません。千年前の地名と現在地を照合しながら、祭祀跡、旧道、古社、村落伝承まで探す必要があります」
百合が少し嫌そうな顔をする。
「地味なやつね」
「あなたの潜入よりは」
「私の潜入は派手でした?」
「最後だけ」
真響がぼそりと言う。
「向いてる人間はいるか?」
橘は少し考えたあと、静かに言った。
「……楸を呼びましょう」
蒼麻が聞き返す。
「楸?」
麻那も顔を上げる。
その名前に聞き覚えはあった。
神代一族の中でも、本家や企業群の表舞台にはほとんど出てこない人物。
廃村。旧家。廃寺。酒蔵。古墳。神社。山中の祠。
そうした場所を歩き、中央の記録から消えた歴史を集め続けている女。
正史を嫌っているわけではない。
ただし、まったくもって正史だけを信じない。
地方の老人が話す昔話。言葉の意味の分からない祭文。
誰も歌わなくなった意味の分からない民謡。
地名や杜氏歌。神社縁起や残された伝承。方言の分布の仕方や流れ。
その全てを「記録されなかった史料」として扱う。
神代楸。
紫苑が少しだけ複雑そうな顔をした。
「楸さんですか」
「今回ほど向いている人はいないでしょう」
橘は穏やかに答えた。
「千年前の中央記録がもはや信用できないのなら」
そして机の上に置かれた康和五年の資料を見る。
「中央に残らなかったものを探がす必要があるでしょう」
百合が少し笑う。
「楸が聞いたら喜びそう」
「なぜです?」
「たぶん最初に言いますよ」
百合は楸の口調を真似るように少し声を低くした。
「『正史だけを真実だと思うのは危険ですよ』って」
蒼麻が苦笑する。
「癖強そうですねー」
麻那が即座に返す。
「神代一族で癖の弱い人、お兄ちゃん知ってるの?」
蒼麻は考えた。
数秒。
「……いないな」
真響が短く言う。
「蒼麻もだぞ」
「俺も入るの?」
「当然入るだろ」
「即答か」
小さな笑いが起きた。
しかし。
机の上に広げられた資料が示しているものは、決して軽くない。
人間側の史料は言う。
九尾狐は、大地震の後に現れた。
妖狐側の記憶も言う。
九尾狐は、大地震の後に生まれた。
酒に残された記憶は言う。
牡丹は、九尾狐へ酒を差し出した。
ならば千年前に敵になる前の二人に、確かに何かがあった。
記録に残っていないのならば、その何かを知るためには記録の外側へ行かなければならないのだろう。
橘は最後に一枚の地図を広げた。
「次は、丹波ですね」
蒼麻が地図を見る。
かつて丹波国桑田郡大谷村と呼ばれた場所。
初代・神代牡丹がまだただの村娘だった頃に、生きていた土地。
九尾狐と出会うより前から一人の現人神が、長い長い時間、その村を見守っていた場所。
千年前の真実は紙の上ではなく、まだその土地のどこかに残っているのかもしれなかった。




