第百六話 正史だけを真実だと思うのは危険
神代楸は、約束の時間になっても奥乃院へ現れなかった。
十分が過ぎ、二十分が過ぎた頃、蒼麻は壁の時計を見上げた。向かいでは麻那が端末を確認している。
百合はすでに諦めたように茶を飲み、真響に至っては最初から待つことに興味がないらしく、窓の外を眺めていた。
「……来ないですね」
蒼麻が呟くと、百合が平然と答えた。
「楸だからね」
「それで説明になるんですか?」
「会えば分かる」
「嫌な予感しかしないんですけど」
橘だけは特に気にする様子もなく資料を読んでいる。
さらに十分ほど経ったところで、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。扉が開き、「悪い。遅れました」と言いながら、一人の女が姿を現した。
三十代ほどだろうか。まず目を引くのは、フィールドワークを生業にしている人物とは少々結びつきにくい、華やかな容姿だった。大人びた美貌に加えて、服の上からでも分かるほど豊かな身体の線を持っている。立っているだけでも妙に人目を引く、強い色気のある女性だった。
ただし、本人だけがそのことにまるで興味がない。
肩には大きな鞄。歩きやすさを優先した服装に、土の残った靴。整った顔には薄く汗が浮かび、髪も風に乱れたままだった。大きな鞄からはノート、地図、録音機らしきものに加え、用途の分からない道具まで覗いている。本人にとって自分の容姿など、道端に落ちている石より優先順位が低いのだろう。
楸は部屋へ入るなり橘を見た。
「途中で石碑があったんで」
「そうですか」
「読めそうだったから寄ったんです」
「それは仕方ありませんね」
蒼麻は橘を見る。
「それ、仕方ないんですか?」
「楸ですから」
百合と同じ答えだった。
楸は鞄を肩から下ろす。その動作だけなら妙に艶っぽく見えるのだが、本人は鞄からはみ出しかけた地図を押し込むことにしか意識を向けていない。
そして初対面の蒼麻へ視線を向けた。
「麻臣さんの息子?」
「はい。神代蒼麻です」
「似てないなぁ」
「いきなりですね」
「顔じゃない」
楸は蒼麻を上から下まで見る。その視線には遠慮がないが、異性を見る種類のものでもなかった。
「立ち方」
「そこを見るんですか?」
「人間は立ち方に育ちが出る」
そう言って、今度は真響を見る。
数秒。
真響も見返す。
「もしかして黒狐?」
「そう」
「神代の奥乃院に普通にいるの、めっちゃ面白いな」
それだけだったが真響が珍しく少しだけ困った顔をする。百合が笑いを堪えていた。
楸は空いている席へ座ると、鞄を床へ置いた。自分へ向けられる視線など気にも留めず、すでに意識は机の上に広げられた資料へ移っている。
「で、康和五年だっけ?」
紫苑が資料を差し出す。
「こちらが現在確認されている――」
「いらない」
紫苑の手が止まった。蒼麻も止まった。麻那まで僅かに眉を上げる。
楸は紫苑を見た。
「いや、あとで読むけど。先に聞きたい」
「何を?」
「それ誰が書いた?」
紫苑は資料へ目を落とした。
「複数の記録を照合しています。最古層のものでも成立年代は――」
「そうじゃなくて」
楸は机へ身を乗り出した。
その途端、先ほどまでの華やかな印象が薄れる。美貌も色気も何もかも、目の奥に灯った研究者の熱に押し退けられた。
「地震を見た人間が書いたのか。九尾を見た人間が書いたのか。牡丹から聞いた人間が書いたのか。それとも、百年後の人間が昔の話をまとめたのか」
部屋が静かになった。
「同じ一行でも、誰が書いたかで意味が全然違うでしょ」
楸は資料を受け取った。
「史料は嘘をつかない、なんて言う奴がいるけど、普通に嘘つくからね」
蒼麻が少し笑う。
「言い切りますね」
「書くのが人間だからな」
楸は紙をめくりながら続けた。
「意図的に嘘を書くこともある。勘違いもする。見栄も張る。権力者に都合の悪いことは消す。逆に面白い話なら盛る。何より厄介なのは――」
指が一か所で止まる。
「意味が分からないものを、後世の人間が意味の分かる話に直す」
紫苑が楸を見る。
「今回、それが起きた可能性があると?」
「まだわからんけど」
即答だった。
「だから調べるの」
楸は資料へ目を戻した。しばらく黙って読む。その間、周囲のことは本当に目に入っていないようだった。百合が茶を置いても気付かない。麻那が資料を移動させても反応しない。先ほどまで遅刻してきた人物とは思えないほど、異様な集中力だった。
やがて一枚を抜き出した。
「これ」
『大災の後、異形の狐現る』
すでに何度も問題になっている記述だった。
楸は別の写本を横へ置く。
『異狐、大災を招く』
「これを書いた奴、親切だな」
麻那が尋ねる。
「親切?」
「意味を分かりやすくしてくれてる」
楸は笑った。
「だから信用できないんだよ」
蒼麻は思わず資料を見直した。
楸は続ける。
「古い方は出来事を並べただけだ。大きな災害があった。その後、異形の狐が現れた。それ以上は何も言ってない。後の人間が『なるほど、狐が災害を起こしたのか』と因果関係を作った」
紫苑が言う。
「牡丹様自身が九尾狐を災害の原因だと認識していた可能性もあります」
「それはあるだろうな」
楸はあっさり認めた。
「家が潰れて人が死んでるところに化け物みたいな狐が出てきたら、そんなの私でも疑うわ」
真響が口を開く。
「九尾は地震の後」
楸が見る。
「覚えてるの?」
「少し」
「地震の前には?」
「いない」
「五柱とも?」
「覚えてない」
楸はそこで初めて、明確に興味を示した。
「これは面白いぞ」
真響の目が細くなる。
「何の話だ」
「千年前の生きた史料が喋ってる」
「史料じゃない」
「じゃあ証人」
「なんか嫌だな」
「注文が多いな」
「楸さん」
蒼麻が止める。
「真響は怒ると面倒になるので」
「蒼麻くん」
「はい」
「あとで黒狐に質問していい?」
「それは本人に聞いてくださいよ」
楸が真響を見る。
「いい?」
「嫌」
「そうっか」
断られたのに、なぜか楽しそうだった。
百合が小声で蒼麻へ言う。
「分かったでしょ」
「何がです?」
「楸」
「だいぶ分かりました」
楸は今度は地図を広げた。
丹波国桑田郡。
大谷村。
その文字を指でなぞる。
「こっちの方が面白いぞー」
「大谷ですか?」
蒼麻が尋ねる。
「そう」
楸は古い地図と現在の地形図を重ねていく。つい先ほどまで古文書へ没頭していたのに、今度は地図しか見えていない。頬へ落ちた髪すら払わず、身を屈めて地形を追っている。
「地名はしぶといからな」
「しぶとい?」
「国が変わる。領主が変わる。寺が焼ける。文書が捨てられる。それでも地元の人間は山や川を昔の名前で呼び続けるだろう」
楸の指が山間部を進む。
「中央の文献から神が消えても、土地には残る」
紫苑が尋ねた。
「大谷という現人神について調べるのですか?」
「それもそうなんだけど」
楸は答える。
「ただ、最初から『現人神・大谷を探そう』と思って行くと大体失敗するよ」
「なぜです?」
「見たいものしか見えなくなるから」
楸は地図を畳んだ。
「まず大谷村がどんな土地だったのかを見る。水はどこから来た。田はどこにあった。酒は造れたのか。人はどこに住み、どこに死者を葬った。何を怖がって、何に感謝した」
蒼麻は黙って聞いていた。
「その中に、大谷という存在が本当に必要だったのかを見る」
「必要?」
「神は何もないところから突然生えてこないからな」
真響が楸を見る。
楸は続ける。
「山が崩れる土地なら山を鎮めるものがいる。水が暴れる土地なら水を祀る。獣が怖ければ境に何かを置く。神の性質を知りたければ、その土地で人間が何を恐れ、何を願っていたかを見ればいい」
蒼麻の中で何かが繋がっていった。九尾狐もまた、人間の願いから生まれた。
大谷は土地と共にあった。そして牡丹は、その双方へ酒を差し出している。
「酒の事も見るんですか?」
蒼麻が尋ねた。
楸が蒼麻を見る。
「当然」
その答えだけは早かった。
「酒は面白いぞ。水と米だけじゃない。土地の気候も、人間の仕事も、祭りも、信仰も入る。酒造りが残ってなくても、祭礼の供物を見れば酒の痕跡が出ることがあるしな」
真響が小さく言った。
「牡丹も供えてたくらいだしな」
楸の顔が真響へ向いた。
「どこに?」
「分からない」
「誰に?」
「大谷」
一拍置いて。
「……たぶん」
楸の目が輝いた。
その瞬間だった。
先ほどまでの大人びた美女という印象が完全に消えた。獲物を見つけた研究者の顔で、勢いよくノートを引き寄せる。
真響は嫌そうな顔をした。
「その顔、本当にやめてくれるか」
「どの顔?」
「これから質問をいっぱいする顔してる」
蒼麻が吹き出した。
「分かるんだ」
「分かるぞ」
楸はすでにノートを開いていた。
「大谷に酒を渡した時、牡丹はいくつくらいだった?」
「知らない」
「季節は?」
「知らない」
「器は?」
「……小さい」
「陶器? 木器?」
「知らないってば」
「周囲に植生は?」
「楸さん」
蒼麻が止めた。
「嫌がってますよ」
「まだ五問だぞ」
「数の問題じゃないです」
真響が蒼麻を見る。
「この人嫌い」
「早いな」
楸はまるで気にしていない。
「嫌われても史料は逃げないから大丈夫」
「だから史料じゃない」
百合がとうとう笑い出した。
張り詰めていた部屋の空気が少し緩んだ。
だが楸は、不意に真顔へ戻った。
「九尾にも酒を渡したんだって?」
蒼麻が頷く。
「真響がそういう記憶を受け取っています。ただし、本人が直接見たものではないらしいです」
「酒から得た情報なの?」
「可能性ですが、彼女がどういう存在かを考えれば簡単には無視できません」
楸はしばらく考えた。
その間にも指先だけは無意識にノートの端を叩いている。考え始めると周囲が消えるらしい。蒼麻が一度声を掛けても返事がなく、二度目でようやく顔を上げた。
「それは現地で確かめようか」
「確かめられるんですか?」
「分からんけど」
また即答だった。
「でも、酒から記憶を拾ったなら、同じ土地へ行けば別のものも拾えるかもしれない」
紫苑が尋ねる。
「何を探すんです?」
楸は指を折った。
「地名。神社縁起。廃寺。墓地。井戸。祭文。民謡。昔話。酒造りの痕跡。古い家が残っていれば家伝。あと老人のお話を聞く」
「老人?」
蒼麻が聞き返す。
「重要だぞ」
楸は真面目な顔で答えた。
「期限付きになるが中央に残された文献より、地方の老人の昔話の方が古い記憶を保存してることが多々あるからな」
百合が笑う。
「出た、いつもの」
楸は気にせず続けた。
「特に意味の分からない話は捨てるな。『昔ここに九尾狐がいて村を滅ぼしました』みたいな綺麗な話より、『泣き声を集めたら狐の尾が増えた』みたいな意味不明な話の方が価値がある」
真響が顔を上げた。
「……何て?」
楸が止まる。
「ただの例えだけど」
「もう一回言って」
「泣き声を集めたら狐の尾が増えた」
真響の表情が変わった。
蒼麻も気付く。
「真響?」
「似てる」
「何に?」
「私たちが思い出したのと」
部屋の空気がまた変わった。
楸は真響を見つめる。
先ほどまでなら十個は質問を重ねていただろう。
だが今度は違った。
研究へ没頭すると周囲が見えなくなる女が、逆に何かを掴んだ瞬間だけ、恐ろしいほど静かになった。
「……そうか」
それだけ言うと、地図を鞄へ入れた。
「すぐに行こう」
蒼麻が驚く。
「今から?」
「準備する時間いるか?」
「普通は要るでしょう」
「私はもうできてるが」
楸が足元の大きな鞄を持ち上げる。
そこで蒼麻はようやく気付いた。
最初から荷物が多すぎた。
「もしかして」
「何」
「今日、話を聞くだけのつもりじゃなかった?」
「橘から康和五年と大谷村って聞いた時点で、そんなの行くに決まってるだろ」
橘が静かに微笑んだ。
どうやら最初から分かっていたらしい。
麻那が兄を見る。
「お兄ちゃん、行くんでしょう?」
「まあ……ここまで来たらな」
真響も立ち上がった。
蒼麻が見る。
「真響も?」
「行く」
「楸さんもいるぞ」
真響が一瞬止まった。
「……行く」
「今、迷っただろ」
「うるさい」
楸はそんな二人を見ながら、鞄を肩へ掛けた。大きな荷物を担いだことで身体の線が一層際立ったが、本人は気にも留めない。むしろ鞄の口から覗いた録音機を見つけ、「予備の電池あったかな」と呟いている。
百合がその様子を眺め、僅かに苦笑した。
楸は自分がどう見えるかには驚くほど無頓着だった。
人から向けられる視線に気付かないわけではない。
ただ、それより面白いものが世の中に多すぎるのだ。
千年前の地名。読めなくなった石碑。誰も覚えていない祭文。消えた酒造り。老人の昔話。
それらを前にすると、自分自身に向けられる関心など、本当にどうでもよくなる。
扉へ向かいかけた楸が、不意に振り返った。
「一つだけ覚えといて」
蒼麻が見る。
「何です?」
楸は机の上に残された康和五年の写本を指した。
「正史だけを真実だと思うのは危険だからね」
そして、今度は真響を指す。
「記憶も同じ」
真響が眉を寄せる。
「何て」
「千年生きてても、忘れる時は忘れる」
「知ってる」
「だから土地へ聞く」
楸は扉を開けた。
「人間が書き換えて、妖狐が忘れて、それでも消えなかったものを拾いに行く」
蒼麻は机の上の資料を一度だけ振り返った。
そこには千年間、神代一族が正しいと信じてきた歴史がある。
だが今から探しに行くのは、その外側にあるものだった。
記録されなかった言葉。意味を失った祭り。忘れられた地名。
誰も信じなかった昔話。そして、土地と酒に残された記憶。
千年前、牡丹と九尾狐の間に何があったのか。
答えを知る者がもういないのなら、残されたものを一つずつ拾えばいい。
神代楸は、それをするために来た人間なのだった。




