第百七話 大谷村
かつて丹波国桑田郡大谷村と呼ばれた土地に着いた時、神代楸が最初にしたことは、神社を探すことでも古文書を開くことでもなかった。
土を拾った。
車を降りてまだ数分しか経っていない。蒼麻が周囲の山並みを眺め、真響が何かを探るように鼻先を僅かに上げている横で、楸は道端へしゃがみ込んでいた。大人びた美貌と豊かな身体の線だけを見れば、山間の旧村跡で土を弄っている姿などひどく不釣り合いに見える。だが本人はそんなことなど知ったことではないらしく、指先で土を摘まみ、砕き、今度は地面へ顔を近づけるほど覗き込んでいる。
蒼麻はしばらく黙って見ていたが、やがて我慢できなくなった。
「何してるんです?」
「見てる」
「それはわかりますが、土をですか?」
「そう」
「何が分かるんですか」
「いろいろわかるぞ」
それ以上の説明はなかった。
楸は完全に土へ意識を持っていかれている。おそらく返事をしただけでも上出来なのだろう。
真響は少し離れたところに立ち、山を見ていた。
現在では当然、大谷村という行政上の村がそのまま残っているわけではない。道は舗装され、住宅も建ち、千年前とは景色そのものが違う。それでも山の位置は変わらず、水は低いところへ流れ続けている。
楸は立ち上がると、今度は川へ向かった。しゃがんでいたせいで服の裾に土が付いているが、払う様子すらない。
「水も見るぞ」
「現人神を探しに来たんですよね?」
「だから水を見る」
蒼麻が真響を見る。
「意味分かる?」
「全然分からん」
「だよな」
「でも蒼麻よりは分かる」
「何で一言余計なんだよ」
楸は二人を無視して歩いていく。というより、聞こえていない可能性が高かった。
川沿いまで来ると、大きな鞄から古い地図を取り出した。鞄の中には地図やノートだけでなく、録音機、手袋、巻尺、筆記具、携帯用のルーペまで詰め込まれている。化粧道具らしきものは見当たらない。本人の華やかな容姿と鞄の中身が、まるで一致していなかった。
「この辺りだな」
蒼麻も覗き込む。
「何があるんです?」
「旧道の可能性がある」
現在の道から外れた細い道が山側へ伸びている。草に覆われているが、人が通っていた形跡はまだ残っていた。
「千年前の道がそのまま?」
「そんなに都合よく残らないよ」
「ですよね」
「でも道ってのは理由があってできるもんだ。水場へ行く。山を越えて田畑へ行く。寺社へ行くし、村が消えても、人間が通りやすい場所はいきなり変わらないんだよ」
楸は歩きながら周囲を見ている。さっきまで土しか見えていなかった女が、今度は地形そのものを読んでいるようだった。道の傾斜、川との距離、山肌の形、石の積まれ方。何かを見つけるたびに立ち止まるため、進む速度は遅い。
そして一度立ち止まると長い。
蒼麻が十数メートル先まで歩いてから振り返ると、楸がいない。
「……楸さん?」
戻ってみれば、石垣の隙間に生えている植物を見ていた。
「何してるんです?」
「ちょっと待て」
「置いていきますよ」
「待てって」
本当に置いていったら、おそらく本人は一時間後まで気付かない。
そんなことを繰り返しながら進んでいると、今度は真響が突然立ち止まった。
「……ここ知ってるかも」
蒼麻も止まる。
「ここ?」
「静かにしてくれ」
真響は山を見る。
「似てる気がする」
楸がすぐに戻ってきた。
「何に?」
真響は嫌そうな顔をする。
「また質問いっぱいする顔だ」
「今日はまだ一問だぞ」
「数えるの?」
「当然」
真響は無視して歩き始めた。
楸は楽しそうだった。
「嫌われてますね」
蒼麻が言う。
「生きた史料に嫌われるのは慣れてる」
「その呼び方をまずやめた方がいいですよ」
「じゃあ千年物で」
真響が振り返った。
「聞こえてるぞ」
「耳がいいな」
「狐だから」
「なるほど」
妙な二人だった。
最初の手掛かりは、神社ではなく一軒の古い家から出てきた。
楸が事前に連絡を取っていた土地の古老を訪ねると、九十近い男が三人を迎えてくれた。
老人は玄関に現れた楸を見て、一瞬だけ目を丸くした。
無理もない。山野を歩き回る歴史調査員が来ると聞いて待っていたところへ、大人びた華やかな顔立ちと非常に豊かな体つきをした女が、大きな鞄を担いで現れたのだ。ところが楸本人は相手の反応にほとんど気付かず、挨拶を済ませるや否や鞄から録音機とノートを取り出している。
「大谷村?」
老人は懐かしそうに繰り返した。
「爺さんから聞いたことはあるなあ」
その瞬間、楸の目が変わった。
「録音してもいいですか?」
「こんな爺の話でよければ」
「そういうのが欲しいんですよ」
奥乃院にいた時より明らかに生き生きしている。
「昔、この辺りに大谷って呼ばれる人がいたという話、聞いたことありませんか」
老人はしばらく考えた。
「人だったかなあ」
楸の手が止まる。
蒼麻と真響も老人を見る。
「どういう意味です?」
「爺さんは『大谷さん』って呼んどったな。ただ、爺さんの爺さんの、そのまた昔からいたとか」
老人は笑った。
「そんな人間おらんわな」
楸は笑わない。
完全に研究者の顔になっている。
「どんな人だったと言っていましたか?」
「山におったとか、村におったとか。話によって違うんだよ」
「どこかに祀られていましたか?」
「さあなあ」
「社は?」
「大谷さんの社ってのは聞かんな」
楸の目が僅かに細くなる。蒼麻も気付いた。
神なのに、社がない。どういうことだ。
老人は続ける。
「神様っていうより、村の人みたいな話だったな」
「村人?」
「田んぼ見たり、子ども見たり。山へ入る奴を怒ったり。酒も飲んだとか」
真響が反応した。
「酒だと」
老人が真響を見る。
「好きだったらしいぞ」
蒼麻が思わず笑いそうになる。
「急に親近感が」
「蒼麻と一緒にしないで」
「まだ何も言ってないだろ」
老人は二人を見て笑った。
楸が尋ねる。
「大谷さんに酒を持っていく話を聞いた事ありませんか?」
「どうだったかなぁ」
老人は目を閉じた。
楸は待った。
こういう時だけは急かさない。先ほどまで質問を矢継ぎ早に投げていた人物とは思えないほど静かだった。老人が記憶の奥を探っている間、ノートにすら目を落とさない。
やがて老人が言った。
「女の子の話があったような」
真響の表情が変わる。
「……ぼたん」
老人が続けた。
蒼麻の背筋が伸びる。
「牡丹?」
「そんな名前だったかな」
楸が静かに尋ねる。
「その牡丹という人が、どうしたんです?」
「大谷さんに酒を持っていくんだったかな」
真響の指先が僅かに動いた。
「何で?」
老人は笑う。
「さあ。好いておったんじゃないか?」
蒼麻が真響を見る。
真響も見る。
楸だけは表情を変えなかった。
「恋愛という意味ですか?」
「そこまでは知らんよ」
老人は楽しそうに笑った。
「昔話なんて、若い女と男が出てきたら、すぐ夫婦にしたがるからな」
楸が初めて笑った。
「それはそう。兄妹が夫婦になったりしますもんね」
蒼麻も苦笑する。
千年前の現人神と神代一族の始祖に、まさかここで恋愛説が出てくるとは思わなかった。
老人は続けた。
「ただ、大谷さんは牡丹が小さい頃から知っとったとか、そんな話だった気がするな」
真響が目を閉じた。安心。親しみ。感謝。和灯で酒から受け取った感情。
「……その話、たぶん合ってる」
楸が真響を見る。
「何が?」
「酒の記憶と合う」
「大谷を怖がってなかった?」
「ああ」
「昔から知ってた?」
「おそらくな」
老人は不思議そうに二人を見る。
「何の話だ?」
蒼麻が笑って誤魔化した。
「こっちの話です」
家を出てから、楸はしばらく何も言わなかった。
歩きながらノートへ猛烈な勢いで何かを書いている。前を見ていない。
「楸さん、段差気を付けてくださいね」
蒼麻が言う。
返事はない。
「楸さん」
「ん?」
「段差ありますよ」
「ああ」
避ける。
三歩後には、またノートを見ている。
真響が呟いた。
「危ないやつだ」
「真響に言われるとは相当だなぁ」
「何が」
「いや、何でもないです」
しばらくして楸がようやくノートを閉じた。
蒼麻が尋ねる。
「どう思いました?」
「まだ何も」
「でも牡丹様の名前まで出てたじゃないですか」
「それが危ない」
「危ない?」
楸が振り返る。
「こっちが知りたい話と一致しすぎてるからな」
蒼麻は意味を理解した。
「都合のいい情報だから、疑う?」
「そういうこと。人は信じたいものをすぐに信じるものさ」
楸は頷く。
「一人から聞いただけじゃ弱い。別系統の話が欲しい」
真響が言う。
「面倒だな」
「歴史ってそういうものよ。本当の事は隠されていたりする。だから整合性の取れていない話や矛盾した話は歴史を捻じ曲げた歪みと考えた方がいい」
「覚えてれば早いぞ」
「貴女が思い出せないって言うから、ここに来てるんじゃない」
真響が黙った。
蒼麻は思わず楸を見る。
「強いなー、この人」
「え?」
「真響を黙らせた」
「蒼麻」
「はい」
「あとで覚えてろ」
二つ目の手掛かりは、さらに奇妙だった。
古い寺の跡に近い集落で、楸が別の老人から聞き取った話。
そこでは大谷は「大谷さん」ではなく、「谷守」と呼ばれていた。
山の水を見ている男。
村で子どもが生まれると、いつの間にか家の外に立っていた。
人が死ぬと、葬列の一番後ろを歩いた。
だが誰も彼がどこに住んでいるのか知らない。
ある年には老人で、別の話では若者だった。
さらに別の話では、何十年経っても同じ顔だったという。
蒼麻は話を聞きながら、小声で言った。
「完全に人間じゃないな」
真響が返す。
「最初からそう言ってるじゃないか」
「でも村人は普通に接してたんだな」
「そういうもの」
「真響も?」
「何が」
「人間に普通に混ざってた?」
「たまに」
「ほぉ、どんな感じで?」
「酒飲んだり」
「やっぱり酒じゃん」
「悪いか?」
「いや。なんかすごく安心した」
「何で」
「千年前から全然変わってないなって」
真響に脇腹を軽く殴られた。
夕方近く。
三人は、山裾に残る小さな祠へ辿り着いた。
大谷を祀る祠ではない。現在は別の神が祀られている。
楸は祠へ着くなり周囲を歩き始めた。
二周ほど回って蒼麻が声を掛けようとした時には、すでに三周目へ入っている。
「何を探してるんです?」
返事がない。
「楸さん?」
真響が言う。
「もう聞こえてない」
「本当に周り見えなくなるんだな」
「放っておけ」
「放っておいたらこのまま帰ってこない気がする」
結局、楸が止まったのは祠そのものではなく、脇に転がっていた古い石の前だった。
しゃがみ込んで次の瞬間、膝を地面についた。
服が汚れることなど完全に忘れている。
華やかな外見も、その豊かな身体つきも、今の楸には何の意味もなかった。
目の前にある摩耗した石の方が、本人にとってはよほど魅力的なのだろう。
「これ、誰かに動かされてるな」
蒼麻が覗き込む。
「分かるんですか?」
「下」
苔の付き方が違う。
長く地面へ接していた面が、現在は横を向いている。
楸は許可なく動かすことはせず、しゃがんだまま見える範囲を確認した。鞄からルーペを取り出し、角度を変え、今度は横から光を当ててみる。
「文字?」
蒼麻が尋ねる。
「たぶん」
摩耗していてほとんど読めない。
だが一部だけ、楸が指で空中をなぞる。
「……哭」
「泣く?」
「哭く、だな」
その下にも判別できる箇所があった。
「声」
そして。
さらに下。
狐を示すような文字。
楸の表情が消えた。
蒼麻も気付く。
「楸さん」
「分かってる」
真響が近付いた。
石を見る。
その瞬間。
息を止めた。
「……これ」
「読める?」
「文字じゃない」
真響は石へ触れようとして、止めた。
「知ってるぞ」
真響の脳裏に、五柱で共有した記憶が蘇る。
大地が裂け、人々の願いが溢れだした。
そして尾がどんどん増えていく様子。
真響が呟いた。
「この地で尾が増えた」
蒼麻の背筋に寒気が走った。
昨日、奥乃院で楸が何気なく口にした例え。
『泣き声を集めたら狐の尾が増えた』
意味の分からない昔話ほど価値がある。
その例えと千年前の土地に残された石の断片が、同じものを指している気がした。
楸はしばらく石を見つめていた。
「偶然かもしれない」
蒼麻が見る。
「ここまで来ても?」
「ここまで来たから言うんだ」
楸は立ち上がった。膝には土が付いている。それに気付いていない。
「まだ決めるな」
「でも」
「私たちは今、九尾が地震の後に生まれたって仮説を持ってる。その状態で『哭』『声』『狐』なんて文字を見つけた」
楸は蒼麻を見る。
「一番危ない時だ」
「自分たちの仮説に都合よく読んでしまうという事ですか?」
「そうだ。そこを誤れば、今度は私たちが歴史を捻じ曲げる側になってしまう」
真響が言った。
「でも私は覚えてるぞ」
楸は真響を見る。
「それも疑う」
真響の目が細くなる。
「私を信じないか?」
「違う。記憶を疑う」
楸は静かに答えた。
「お前が嘘をついてるとはまったく思わない。でも、人間も妖狐も、記憶は今知っていることに引っ張られるものだと思う」
真響は黙った。
怒らなかった。
おそらく、自分でも分かっている。
五柱の記憶は欠けている。
だからこそ、ここへ来た。
楸はもう一度石を見る。
「別の証拠を探してみよう」
その言葉を最後まで言い終える頃には、もう視線は周囲へ動いていた。
蒼麻がちょっとだけ嫌な予感を覚える。
「楸さん」
「うん?」
「今からですか?」
「当たり前だろ」
「もう夕方ですよ」
「だから急がないといけない」
「そういう問題かな……」
その後の楸は、完全に止まらなくなった。
近くの家を訪ね、寺跡の由来を聞き、古い道の位置を確かめ、地元で昔から使われている小字名まで尋ねる。
一つ手掛かりが出れば三つ質問が増え、その答えからさらに五つ調べることが生まれる。
蒼麻が途中で休憩を提案しても、「時間がないからあとで」と言われ、その「あと」が一向に来ない。
真響が呟いた。
「ご飯忘れるタイプだぞ」
「たぶん寝るのも忘れる」
「でも楽しそうだ」
真響は楸を見る。
古い塀の前で家主と話している楸は、本当に楽しそうだった。
「……うん」
日が沈む直前、近くの旧家からようやく別の手掛かりが見つかった。
家主の許可を得て古い箱を調べていた楸が、一枚の紙を見つけた。
古文書というほど古くないが江戸期に書き写されたと思われる、土地の祭りに使われた詞章だった。
楸は声に出さず目で追うが、途中で止まった。
そしてそのまま動かない。
蒼麻も真響もしばらく待った。
「楸さん?」
返事がない。
蒼麻が顔の前で手を振った。
「……楸さん?」
「邪魔だぞ」
「生きてるか確認しただけです」
楸は紙から目を離さない。そして見つけた。
「……あった」
蒼麻と真響が近付く。
楸は紙を机へ置いた。
そこには古い言葉で、災いの夜について書かれていた。
大意を取れば、こうなる。
大地が鳴いた。人が哭いた。人の声が野へ満ちた。願いが寄った。
その声を食むものが現れた。そして尾が重なった。
蒼麻は何も言えなかった。
真響も紙を見つめている。
石とは別、伝承者も別、時代も別。
それでも同じ構造が残っている。
楸が静かに息を吐いた。
「これで二本目」
蒼麻が尋ねる。
「これならいけますね」
「まだ足りない」
「足りないのか、厳しいな」
「千年前をひっくり返すんだぞ」
楸の声は軽くなかった。
「これくらい疑ってちょうどいい」
そして、最後の一文を見る。
楸の眉が僅かに動いた。
「……ん?」
「何です?」
「まだ続きがある」
蒼麻が覗き込む。
そこには、さらに奇妙な言葉が残されていた。
尾を重ねたものが現れた後。村人は逃げ神へ祈った。
そして一人の娘だけが酒を持って、その狐のもとへ向かったとある。
真響の瞳が大きくなる。
蒼麻は声を失った。
楸だけが、しばらくその文字を見つめていた。
「ここには牡丹とは書かれていない」
と言った。
「でも」
蒼麻が返す。
「酒を持った娘って」
「そうだな」
真響が呟く。
「これは牡丹」
楸は否定しなかった。
紙には、娘の名前がない。
狐の名もない。ただ千年前の災害の後。
人々が恐れて逃げたものへ、わざわざ酒を持って近付いていった娘がいた。
それだけが、何百年もの間、意味も分からない祭りの言葉として残されていた。
真響が小さく言った。
「やっぱりそうか。最初から敵じゃない」
誰も答えなかった。
夕暮れの光が、古い紙の上へ差し込んでいる。
楸はまだ紙を見ていた。
服には土が付き、髪も少し乱れている。朝から歩き回った疲れもあるはずだった。
それなのに。
その目だけは、今日一日で最も冴えていた。
大人びた美貌も、人目を引く身体も、本人にとってはどうでもよく、いま楸が見ているのは千年前だった。
別々の場所に残されていたものが、少しずつ同じ形を作り始めている。
九尾狐は、大地震を起こしたのではなく人々の恐怖と願いの中から生まれた。
そしてその九尾狐を見た牡丹は、剣を持って向かったのではなかった。
最初に持っていったものは。
交流の酒だった。




