第九十五話 いつもの三人
神代商工会本部を出た頃には、東京の空はすっかり夕暮れ色へ染まっていた。
麻那が運転席へ乗り込み、蒼麻は助手席へ腰を下ろした。まず向かうのは都内にある神代奥乃院だった。
第二の神殻が発生したという報告以外、二人にはまだほとんど情報がない。発生地点、被害状況、そして何より、何の神格を降ろし損ねたものなのか。詳細は奥乃院で共有されることになっていた。
麻那が車を発進させる。
「橘様と紫苑様は、もう奥乃院にいるみたい」
「宴さんって人はいる?」
「うん、向かってる。現地との調整も始めてるみたい」
「あの人仕事早いなぁ」
「兄さんと一緒にしないで」
「俺だって働いてるのに」
「今日も酒蔵にいたけど」
「仕事です」
麻那は小さく笑った。
車が市街地を抜け、川沿いの道へ差しかかった頃だった。
蒼麻が何気なく窓の外を見て、声を上げる。
「あ、いた」
「え、誰?」
麻那が速度を落とす。
橋の近くに、一人の女性が立っていた。
艶やかな黒髪が夕暮れの風に揺れている。黒を基調とした服装。
街を歩いていれば人目を引くほど整った容姿なのに、不思議なほど周囲の景色へ溶け込んでいる。
黒狐 真響だった。
車が近くへ停まると、真響は当然のようにこちらを見る。
蒼麻が窓を開けた。
「遅いぞ」
「俺たちを待ってた?」
「うむ」
麻那が運転席から顔を覗かせる。
「久しぶり、真響さん」
真響も麻那を見る。
「妹か、久しぶりだな」
「元気そうね」
「妹もな」
蒼麻が二人を交互に見た。
「……なんか普通だよな」
「何が?」
麻那が尋ねる。
「いや。妖狐と神代一族なのに」
麻那は呆れたような顔をする。
「今さら?」
真響も短く答える。
「今さらだな」
「二人とも同じ反応するんだ」
以前、麻那と真響は一緒に酒を飲んでいる。最初こそ互いの立場を意識していたものの、酒が進めばそんなものは思っていたほど大きな壁ではなかったらしい。
麻那が後部座席を示した。
「乗りますか?」
「乗る」
「即答だな」
「行くから」
「シートベルトをお願いします。最近発売の車は、後部座席もしてないと警告音が止まらなくて」
真響は後部座席へ乗り込むと、静かにシートベルトを締めた。
妖狐がシートベルトを締めている光景に蒼麻はおかしみを感じていた。車が再び走り出す。
しばらくして、改めて蒼麻が振り返った。
「真響」
「なんだ」
「どこに行くか解ってる?」
「奥乃院だろ」
蒼麻が目を瞬かせる。
「おぉ知ってるんだ」
「当たり前だ」
「第二の神殻のことも?」
「うむ」
麻那の表情が変わる。
「何か感じました?」
真響は窓の外へ視線を向けたまま答える。
「嫌な感じがする」
蒼麻は苦笑した。
「相変わらず説明が少ないな」
「必要になったら話そう」
「今必要じゃない?」
「まだだ」
「はい」
麻那が吹き出した。
「兄さん、真響さんには素直ね」
「いや、話してもなんか勝てないんだよ」
真響がぽつりと言う。
「学んだのだ」
「何をですか?」
「蒼麻の扱い方」
「何その不穏な学習」
「こいつは放っておくと酒蔵へ行く」
「仕事だって」
「そのまま帰ってこない」
「ちゃんと帰ってるぞ」
「遅いではないか」
「……それはまぁ時々」
麻那が堪えきれず笑った。
「やっぱり前に一緒に飲んだ時、もう少し情報共有しておけばよかった」
蒼麻が振り向く。
「何を共有するつもりだったんだよ」
「兄さんの取扱説明」
「いらないだろ、そんなの」
真響が淡々と言う。
「酒を見せるとそこに寄っていく」
「野生動物みたいに言うな」
「珍しい酒だともっと寄る」
麻那がとうとう声を上げて笑った。
「否定できないでしょ」
「……できないけど」
車内に束の間、穏やかな空気が流れた。
第二の神殻。
それがどれほど危険な存在なのか、三人とも分かっている。
だからこそ、こうしてくだらない話ができる時間が妙に楽しかった。
蒼麻は窓の外へまた目を向けた。
流れていく東京の街。
無数の家。そこに暮らす、名前も知らない人々。
昨日、萩から聞いた話がぼんやり蘇る。
神酒縫。
酒に宿る土地の記憶、人々の祈り、感謝を糸として紡ぎ、それらを重ね合わせる少彦名命の権能。
自分の中にある九尾狐の欠片は、力ずくで押さえ込まれているわけではなかった。
数え切れないほどの想いによって支えられている。
そう知ってから、街の見え方まで少し変わった気がしてくる。
「……変」
後ろから真響の声がした。
蒼麻が振り返る。
「何が?」
真響が蒼麻を見ている。
「お前、この前と違うな」
麻那も兄を見る。
「私も少し思った」
「人はそんな急に変わらないぞ」
真響はしばらく蒼麻を見つめていた。
「何かを知ったのか?」
蒼麻は少し迷ってから頷く。
「父さんのこと」
真響の瞳がわずかに細くなる。
「萩さんに教えてもらったんだ。俺の封印のこと」
それから蒼麻は、簡単に神酒縫について話した。
麻臣が蒼麻の中にある九尾狐の欠片を支える封印へ組み込んだこと。
真響は黙って聞いていた。
「それでさ」
蒼麻は自分の胸へ手を置く。
「萩さんの話を聞いてから、なんか変でさ。時々、感じるようになったんだよ」
「何を」
蒼麻は言葉を探した。
「繋がってる感じ」
真響が黙る。
「神気とは違うんだよ。もっと細いっていうか……何かが引っ掛かるみたいな」
真響の表情から、ほんの少しだけ気怠さが消えた。
「おまえ、何が視える?」
「いや。まだ視えるというか」
「そうか」
それだけ言うと、真響は再び窓の外を向きしばらく沈黙が続いた。
やがて真響が、窓の外を見たまま口を開く。
「前より危ういな」
蒼麻は眉を寄せる。
「俺が?」
「混ざってきてる」
真響はそれ以上説明しなかった。
だが蒼麻にも、なんとなく意味は分かった。
それぞれ別々に存在していたものが、少しずつ自分という一つの器の中で関係し始めている。
それが良いことなのか、悪いことなのか。
まだ誰にも分からない。
「まあ」
蒼麻が座席へ身体を預ける。
「とりあえず帰ってこられればいいよ。和灯に行かないとな」
真響が蒼麻を見る。
「ちゃんと帰ってこいよ」
「分かってるって」
「分かってない顔だ」
「なんでいつもそう言うんだよ」
麻那が笑う。
「そこは私も真響さんに賛成」
蒼麻はため息をついた。
「二対一はずるいな」
「多数決だ」
真響が真顔で言う。
「そういうところだけ人間社会に馴染むの早くない?」
ほんの少しだけ、真響の口元が緩んだ。
それからしばらくして、車は都心から少し離れた静かな一画へ入った。
表向きは神代一族と縁のある古い施設として管理されている場所だった。高い塀と木々に囲まれ、外から内部を窺うことはできない。
そのさらに奥。
一般の人間はもちろん、一族の者であっても自由には立ち入れない領域に、神代奥乃院は存在している。
門の前で車を停め麻那はエンジンを切った。
「着いた」
蒼麻が外へ出る。
真響も後部座席から降りた。
その瞬間だった。
門の向こうにいた二人の警備員が、こちらを見たまま動きを止めた。
視線は蒼麻でも麻那でもなく真響へ向けられていた。
一人が明らかに息を呑む。
「……妖狐?」
真響は気にする様子もなく門を見上げる。
もう一人が警戒するように一歩下がった。
「なぜ、ここに……」
麻那はその反応を見て、ようやく気付いたように小さく息を吐く。
「ああ……前回は桜さんがいたけど、やっぱりそうなるよね」
麻那は真響を見る。
「普通、神代一族の奥乃院に2回も妖狐を連れてこない」
蒼麻も真響を見る。
「……確かに」
麻那は小さく笑う。
「大丈夫。私から説明する」
三人は並んで門をくぐったが、その先でも同じことが起きた。
すれ違う者が足を止め振り返り小声で何かを囁く。
中には明らかに神気を強める者さえいた。
真響は一切気にしない。
蒼麻も今さらだった。
麻那だけが周囲の反応を見ながら、少し可笑しそうにしている。
やがて三人は奥乃院の中枢へ続く廊下へ辿り着いた。
その先ではすでに、橘や紫苑をはじめとする一族の者たちが第二の神殻について協議を始めている。
そして現地へ向かうための移動手段も、すでに手配されていた。
神代側が確保したヘリで空港へ移動し、そこからさらに九州へ向かう。
蒼麻は閉ざされた扉の前で立ち止まった。
隣には麻那。
反対側には真響。
いつの間にか、この並びが当たり前になっていた。
けれどこの扉の向こうにいる者たちにとっては、そうではない。
蒼麻は真響を見る。
「たぶん、また驚かれるんだろうな」
「もうずっと驚かれてるよ」
「それもそうか」
麻那が扉へ手を掛ける。
「行こう」
扉が開くと中にいた者たちの視線が一斉に三人へ向けられた。
そして次の瞬間。そのほとんどが、蒼麻の隣に立つ黒髪の女へ釘付けになった。
神代一族の中枢。
九尾狐を千年にわたり封じ続けてきた一族の奥乃院へ。
一柱の妖狐が、自ら足を踏み入れた。




