第九十四話 結ばれて紡いでいくもの
夕暮れの光が神代商工会本部のガラス窓を茜色に染めていた。
蒼麻は紙袋を片手に受付を通り、見慣れた廊下を歩いていく。袋の中には、つい先ほどまで手伝っていた酒蔵の新酒が二本入っていた。
「まだ試験醸造なんですけど、ぜひ蒼麻さんにも飲んでもらいたくて」
蔵へ戻った跡継ぎが、そう言って嬉しそうに託してくれたものだった。
会長室の扉を軽く叩く。
「入って」
麻那の声が返ってきた。
扉を開けると、以前とは少し違う光景が広がっていた。
会議用のテーブルには数人の社員が座り、壁面の大型モニターでは物流会社とのオンライン会議が終わろうとしていた。麻那は相手の説明を最後まで聞き終えると、手元の資料を確認しながら静かに頷いた。
「ありがとうございます。それでは現地との細かな調整については柚子さんへ回します。こちらで全部抱えるより、彼女に任せた方が早いです」
画面の向こうから了承の声が返る。
「次の判断が必要になった段階で、もう一度私のところへ上げてください。それまでは担当間で進めてもらって構いません」
通信が切れると、社員たちが資料をまとめて立ち上がった。
「会長、ありがとうございました」
「お疲れさま。今日はもう上がっていいから」
「はい」
誰も慌てていない。
誰か一人に仕事が集中している様子もない。
それぞれが自分の役割を理解し、自然に次の人間へ仕事を渡していく。
蒼麻は部屋の入口に立ったまま、その様子を少し意外そうに眺めていた。
最後の社員が出ていくと、麻那がようやく兄に気付いた。
「あれ。いつからいたの?」
「『柚子さんに任せます』くらいから」
「それなら声を掛けてよ」
「邪魔したら怒るだろ」
「怒らないわよ」
「昔なら怒ってた」
麻那は一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「……それは否定できないかな」
蒼麻も笑いながら部屋へ入った。
机の上を見る。
以前なら書類が山のように積まれていたはずだった。もちろん仕事が減ったわけではない。それぞれの案件に担当者の名前が付けられ、麻那が判断すべきものだけが綺麗に残されている。
「なんだ」
蒼麻が呟いた。
「ずいぶん変わったな」
「何が?」
「仕事の仕方」
麻那は椅子へ座り直した。
「人に頼るようにしたの」
「へえ」
「何、その顔」
「いや。お前が?」
「悪い?」
「悪くない。珍しかっただけ」
麻那は少しむっとした顔をしたが、すぐに肩の力を抜いた。
「梓鉉さんと、その弟さんにいろいろ言われたから。柚子にもね」
「なるほど」
「全部自分でやるのが責任じゃないって、最近ようやく分かってきた」
その言葉を聞いて、蒼麻は妹を見た。
昔から麻那は強かった。
自分よりずっと器用で、努力家で、何でも一人でできてしまう。
だからこそ、何でも一人で背負おうとした。
兄である自分を守ろうとさえしていた。
その麻那が今、人へ仕事を渡し、人の力を信じるようになった。
蒼麻はなんとなく嬉しくなった。
「いい顔するようになったな」
麻那が目を瞬かせる。
「そう?」
「うん。前はずっと会長って顔してた」
「今は?」
「ちゃんと麻那」
麻那はしばらく兄を見つめたあと、少し気恥ずかしそうに目を逸らした。
「……お兄ちゃんも変わった」
「俺?」
「うん」
「どこが」
「酒蔵から帰ってきた顔してる」
「何だそれ」
「楽しそうってこと」
蒼麻は持っていた紙袋を机へ置いた。
「じゃあ、楽しそうな兄から土産」
「お酒?」
「まだ試験醸造だけどな」
麻那が一本を手に取る。
見慣れない仮ラベルが貼られていた。
「この前の蔵?」
「そう」
「跡継ぎがちゃんと戻ったんだ」
「うん、戻った」
蒼麻の声が少しだけ柔らかくなる。
「今日も一緒に仕込んできた」
「どうだった?」
「楽しかったよ」
蒼麻はソファへ腰を下ろした。
「俺が何かしたってわけじゃないんだけどさ。『蒼麻さんがこの酒を好きだって言ってくれたから、もう一回ちゃんとやってみようと思った』って言われた」
麻那は瓶を持ったまま、ふっと笑った。
「なんかお父さんに似てきたね」
蒼麻の表情が止まった。
昨日、酒蔵の裏庭で萩から聞いた言葉が胸の奥へ蘇る。
ソーマ。神へ捧げる酒。少彦名命。そして神酒縫。
全国の酒蔵から伸びる、祈りと感謝と土地の記憶。
自分を縛るためではなく、支えるために父が紡いだ無数の糸。
「……そうなのかもな」
「珍しい。否定しないの?」
「昨日、萩さんに会ったんだ」
麻那の表情が変わる。
「萩さんに?」
「父さんのこと、いろいろ教えてもらった」
蒼麻は、自分の名前に込められていた意味を話した。
サンスクリット語のソーマが神酒を意味すること。
麻臣がその響きを知った上で、蒼麻という名を与えたこと。
少彦名命の権能から生まれた神酒縫が、酒に宿る土地の記憶や人々の祈り、感謝を糸のように紡いでいくこと。
そして、その無数の糸が自分の中にある九尾狐の欠片を封じ込めるのではなく、自分という器そのものを支えていたこと。
麻那は何も挟まず、最後まで黙って聞いていた。
「俺さ」
蒼麻は自分の手を見る。
「ずっと、父さんは俺の中にあるものを怖がってたんだと思ってた」
麻那は静かに兄を見る。
「違ったんだな」
「うん」
「怖かったのは、たぶん力の方じゃなくて」
蒼麻は少しだけ笑った。
「俺が俺じゃなくなることだったんだと思う」
麻那の瞳がわずかに揺れた。
蒼麻は続ける。
「全国の酒を飲んで歩いてたのも、ただ好きだったからだと思ってた。でも父さんの奉納酒を飲んで、いろんな土地の酒に触れて、その酒に入ってる人の想いを受け取ること自体が、封印を馴染ませてたらしい」
「お兄ちゃんらしい封印ね」
「何が?」
「飲めば飲むほど人と繋がる」
「ただの酒飲みみたいに聞こえるぞ」
麻那が吹き出す。
「半分は合ってるでしょ」
「否定できないな」
二人の笑い声が、夕暮れの会長室に小さく響いた。
蒼麻はその笑顔を見ながら思う。
自分だけではなかった。
麻那もまた変わっていた。
以前の麻那なら、兄の話を聞いた瞬間に封印の構造を調べ、誰が知っているのか確認し、自分が何をすべきかを考え始めていただろう。
今の麻那は、まず兄の言葉を聞いてくれた。
そして何より、自分だけで何とかしようとはしていない。
蒼麻は不意に、父が自分へ残したものの意味が少しだけ分かった気がした。
人は一人では守れない。
だから糸を結ぶ。一本では切れるなら、何本も重ねる。
自分を支えているのは酒でも神でもない。周りにいる人々なのだ。
麻那もまた、自分の周囲へ少しずつそうした糸を結び始めている。
「なあ、麻那」
「何?」
「お互い、ちょっとは成長したのかもな」
麻那は一瞬だけ驚いた顔をして、それから笑った。
「お兄ちゃんがそんなこと言うなんて、明日は雪降るかも」
「兄に厳しくない?」
「事実です」
その時、麻那の机の上に置かれていた端末が短く震えた。
一度。続いて、もう一度。
通常の業務連絡とは異なる警告音だった。
麻那の笑顔が消える。
画面に表示された送信元を確認した瞬間、その目が鋭くなった。
「奥乃院……」
「どうした?」
蒼麻も身体を起こす。
麻那は届いた報告を開く。
読み進めるにつれ、表情から血の気が引いていった。
「麻那?」
返事がない。
「どうした」
しばらくして、麻那がゆっくり顔を上げた。
「第二の神殻が確認された」
蒼麻の胸の奥で、何かが低くざわめいた。
神殻。
神を降ろすことに失敗し、術者を失いながら、神の権能だけが現世へ残って暴走する異常存在。
十年に一度あるかないかの事件である。神代一族はその危険性を嫌というほど知っている。
祭祀の外にいる蒼麻も、その危険な存在については萩から聞かされていた。
それが、立て続けに二体目。
「場所は?」
蒼麻が尋ねる。
麻那は画面へ視線を戻した。
「九州」
短い言葉だった。
それだけで、先ほどまで温かかった部屋の空気が変わった。
麻那はすぐに端末を操作する。
「橘様と紫苑様にはすでに報告が入ってる。宴さんにも連絡が回ってるみたい」
「被害は?」
「まだ詳細は不明。ただ……」
麻那の指が止まる。
「前回とは性質が違う可能性があるって」
蒼麻は黙った。
少し前なら、胸の奥にある得体の知れない力を恐れただろう。
また何かに巻き込まれる。
また自分の知らない何かが目を覚ます。
そう考えていた。
けれど今は違った。
父が自分を守ろうとしていたことを知った。
全国の酒蔵で出会った人々が、知らないうちに自分を支える糸になっていることを知った。
麻那もまた、一人で背負うことをやめ始めている。
ならば、自分も変わらなければならない。
蒼麻は紙袋の中に残っていた酒瓶へ一度だけ目を落とした。
あの蔵を継ぐと決めた青年の顔が浮かぶ。
父が守ったもの。
自分が出会ってきたもの。
これから守りたいもの。
それらは全部、同じ糸の上にあるのだ。
麻那はしばらく画面を見つめたまま、何かを考えていた。
「お兄ちゃん」
「うん」
「一緒に来てほしい」
蒼麻は眉を上げた。
「俺が?」
「そう」
「第二の神殻だぞ。俺はまだそこまで戦えるわけじゃないけど」
「分かってる」
麻那は迷わず答えた。
「戦わせるために連れていくんじゃないの」
蒼麻は黙って妹を見る。
「神殻は、神を降ろし損ねた結果できる。神と人の境目が崩れて、権能だけが残った存在」
「うん」
「お兄ちゃんはその境目に近い」
蒼麻の表情がわずかに曇る。
麻那はすぐに続けた。
「悪い意味じゃないよ。お兄ちゃんの中には九尾の欠片があって、お父さんの神酒縫の封印がある。さらに、建葉槌命を降ろした経験もある」
「……つまり?」
「神格の残り方を、私たちより深く感じ取れる可能性がある」
麻那は端末を置いた。
「前回の神殻も、普通の怪異とは違った。今回も同じとは限らない」
「だから俺に見ろって?」
「そう」
「危なくない?」
「危ない」
即答だった。
蒼麻は思わず苦笑する。
「そこは否定してくれよ」
「嘘ついてどうするの」
麻那も少しだけ笑ったが、すぐに真剣な表情へ戻った。
「でも、前みたいに一人で行かせるつもりもない」
「橘様も紫苑様も動く。宴さんにも連絡が回ってるし私も行く」
「それでも俺を?」
麻那は頷いた。
「必要だから」
その一言に、蒼麻は少し驚いた。
少し前の麻那なら、危険な場所から兄を遠ざけようとしていただろう。
自分が全部背負おうとしただろう。
だけど今は違った。
「私ね、頼ることにしたの」
麻那が言う。
「梓鉉さんたちに教わったから」
「一人で全部やるのが強さじゃないって」
蒼麻はしばらく妹を見つめ、それから小さく笑った。
「……ほんとに成長したな」
「お互い様」
「じゃあ行くか」
「うん」
麻那は頷く。
「ただし、勝手に前へ出ないで」
「努力します」
「努力じゃなくて守って」
「はいはい、会長」
「お兄ちゃん」
「分かったって」
二人は顔を見合わせ、ほんの少しだけ笑った。
第二の神殻。
まだ名も、正体も、宿していた神格すら分からない。
ただ一つ確かなのは、再び神代一族の誰かが、神を降ろし損ねたということだった。
そしてその災厄は、すでに動き始めていた。




