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第九十三話 神酒を継ぐ者

朝靄が山あいをゆっくりと流れ、酒蔵の白壁を柔らかな光が照らしていた。


蒸米の甘い香りが蔵いっぱいに満ち、甑から立ち上る湯気が梁へ吸い込まれていく。


神代蒼麻は黙々と手慣れた動きで蒸米を運んでいた。


担ぎ方も力の入れ方も、歩幅まで無駄がない。


「蒼麻さん、そのままこっちにお願いします!」


「了解です」


返事をすると同時に、蒸米を麹室へ運び込む。


蔵人たちも、もう誰一人として蒼麻を客扱いしていなかった。


数か月前。この酒蔵は後継者不足と経営難から廃業寸前まで追い込まれていた。


先代と息子の意見は噛み合わず、蔵人たちの士気も落ち、酒造りそのものが止まりかけていた。


そんな時、蒼麻は何度もこの蔵へ足を運び、酒を飲み話を聞き、時には一緒に汗を流した。


経営を教えたわけでもなければ、技術を押し付けたわけでもない。


ただ、この蔵の酒を心から好きなんだと言い続けた。


「この酒が飲めなくなったら、俺が本当に困るんですよ」


その一言が、跡継ぎの胸へ残った。


そして今。跡継ぎの青年は蒼麻の隣で額の汗を拭いながら笑っていた。


「蒼麻さん」


「はい」


「次の仕込みの事なんですけど、酒母管理もやってみませんか」


蒼麻は少し困ったように笑う。


「いやいや、俺は杜氏じゃないですし」


「でも」


青年は迷わず言った。


「蒼麻さんなら、酒が喜んでるかどうか分かる気がするんです」


その言葉に通りがかった周囲の蔵人たちも頷く。


「お、それは面白そうだな」


「蒼麻さん来てから、蔵の空気変わったもんな」


「蔵の雰囲気が明るくなったし、酒も真っすぐな味わいになったよ」


蒼麻は照れくさそうに頭を掻いた。


「そんな大したことはしてないですよ」


「ここの酒が美味しいから、人が集まってくるだけです」


その時だった。


蔵の入口から静かな拍手が聞こえた。


「……その考え方。父君によく似ていますね」


振り向くと、一人の男が立っていた。


落ち着いた物腰。その目には長い年月を生きた者だけが持つ静かな知性が宿っている。


神代萩だった。


蒼麻は目を丸くする。


「萩さん。こんなところまで」


萩は微笑む。


「以前、麻臣さんに頼まれていたことがありまして」


「父に?」


青年へ軽く会釈すると、萩は蔵の裏庭へ歩き始めた。


「少し、お時間をいただけませんか」


裏庭には古い杉が一本立っていた。


酒蔵を見守り続けてきた御神木だった。


萩はその幹へ手を添える。


「ここも良い蔵ですね」


「俺の推し蔵の一つです。ビックリするほど柔らかくて好きなんですよ。蔵人もみんないい人で」


「人が酒を造っている。それがよく分かります」


蒼麻は少し照れながら笑った。


「俺も、そう思います」


萩は静かに振り返る。


「蒼麻さん、ご自分の名前の意味をご存じですか」


突然の問いだった。


「蒼い麻……ですよね」


「それも間違いではありません。ですが」


萩は空を見上げた。


「麻臣さんは、もっと深い意味を込めているのです」


「ソーマの意味を?」


蒼麻は首を傾げる。


「ソーマ?」


「古代インド、サンスクリット語で『ソーマ』とは神酒を意味します」


「神々へ捧げられる聖なる酒」


「命を養い、人と神を繋ぐもの」


「え?」


蒼麻は息を呑んだ。


「神酒……」


「ええ」


萩は穏やかに頷く。


「麻臣さんは知っていました。だから、あなたを蒼麻と名付けた」


風が木々を揺らし、蔵から微かに麹の香りが流れてくる。


蒼麻は苦笑した。


「父は酒が好きだから、そのくらいの気持ちじゃないですか」


「もちろん、それもありますね」


萩は少し笑う。


「ですが、本当の意味は違う。麻臣さんが見ていたのは、もっと先です」


萩は静かに続けた。


少彦名命(すくなひこなのみこと)をご存じですね」


「はい」


「酒造り、医薬、国造り、小さきものを育て、大きな国を支える神」


蒼麻は頷く。


「麻臣さんは、その少彦名命の権能を独自に昇華しました。君に施したその封印術を“神酒縫(みきぬい)”と呼びます」


神酒縫。


その名を聞いた瞬間、不思議と胸がざわついた。


「酒には水があります。そして米と米麹があります。ですが、それだけでは酒にはなりません。そこにはその土地で生きた人々の願いがあります」


萩は一本の酒瓶を持ち上げる。


「豊作への祈り。家族への感謝。蔵人たちの誇り。神へ捧げた祝詞。酒は、それら全てを記憶しているのだと思います」


蒼麻は酒瓶を見つめた。


ただの酒にしか見えない。


しかし萩の言葉を聞くと、その一本が急に重く感じられた。


「麻臣さんにはその記憶が見えていたのでしょう。一本一本が糸となって、土地と人、そして君を結ぶ光として」


萩は指先をゆっくり動かす。


まるで空中で何かを縫うように。


「神酒縫とは、その糸を結び直す術です。祈りを、感謝を、土地の記憶を、一本一本紡ぎ合わせる」


蒼麻は思わず呟いた。


「……だから、奉納酒」


「ええ」


萩は微笑む。


「奉納酒はただの酒ではありません。縁を結ぶ器です。全国の酒蔵へ伸びる糸を結ぶためのね」


蒼麻の脳裏に、これまで訪ね歩いた酒蔵の景色が浮かぶ。


笑っていた杜氏。


黙々と櫂を振る蔵人。


初めて酒を飲ませてくれた店主。


酒販店の主人。


蔵祭りで出会った子どもたち。


「じゃあ……」


「俺が全国の酒を飲み歩いてるのも」


萩は静かに頷いた。


「君はただの自分の趣味だと思っていたでしょう。ですが違うのです」


蒼麻は言葉を失った。


「君は無意識に神酒縫の糸を結び続けていた」


萩の声はどこまでも穏やかだった。


「蒼麻くん。君の中には、大きすぎる九尾狐の欠片がある。普通の封印では、とうに破られていただろう」


麻は縛るものでもあるが、蒼麻(ソーマ)という名前にはしかし、封印術を強化する思想も組み込まれていたのだという。


「だから麻臣さんは閉じ込めたのではありません。全国の酒蔵の祈りで、君を支え続けようとしたのです」


風が吹き、杉の葉が揺れる。


遠くで蔵人たちの作業をしながら笑う声が聞こえた。


「封印とは」


萩は静かに微笑む。


「縛ることではなく、守り続けること」


蒼麻は目を閉じる。


今まで出会った人たちの顔が、一人、また一人と思い浮かぶ。


酒を酌み交わした夜。笑い合った時間。励ましてくれた言葉。


それら全てが、一本の糸になって、今も自分を支えている。


父は知っていたのだ。


いつか息子が、一人では背負いきれない運命に向き合う日が来ることを。


だから封じたのではない。守ったのでもない。


その日まで、人の想いを少しずつ結び続けていた。


「萩さん、伝えてくれてありがとうございます」


萩は目を閉じたまま小さく笑った。


「……父さん。ありがとう」


その声は風に乗り、静かな酒蔵へと溶けていった。

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