第九十二話 黒桃乱舞
神代奥乃院、議の間。
紫苑が広げた地図には、丹波の山中にある廃村一帯が黒く染められていた。
「三日前より霊脈が乱れています」
静かな声で報告が続く。
「封じられていた冥陰波動が山全体へ流出。現在確認されている怪異は三百二十七体。今も増え続けています」
麻那が眉を寄せる。
「百合さんと宴さん、それに地方の神代一族を合わせて包囲殲滅した方が早いのではないでしょうか?」
紫苑は首を横に振った。
「今回は人数を増やすほど状況が悪化します。怪異を祓えば祓うほど、散った冥陰波動が霊脈へ戻り、新たな怪異を生み続けます」
議の間に静寂が落ちた。
その時、神代橘が静かに口を開く。
「……菫にお願いしよう」
麻那が思わず顔を上げる。
「単独ですか?」
「うむ」
橘は地図から目を離さない。
「今回必要なのは殲滅力ではない」
「穢れを霊脈へ返さず滅ぼし続ける力だ」
その言葉に、紫苑も静かに頷いた。
「神刀・黒桃」
黒桃。
神代一族に代々受け継がれる退魔の神刀。
伊邪那岐命が黄泉軍へ桃を投げ退けた故事になぞらえ、古来より桃は魔除けの象徴とされてきた。しかし黒桃は、その先にある刀だった。
幾百、幾千という怪異を斬り祓い続け、その冥陰波動を一時的に刀身へ宿し続けた結果、刃は深い黒を帯びるようになった。
怪異を斬れば斬るほど黒く染まる。
それは穢れた刀ではない。
邪を祓い続けた歴史そのものだった。
紫苑は菫へ視線を向ける。
「黒桃ならば、斬った怪異の冥陰波動を刀身へ留められます。今回のような霊脈の暴走には最適です。ですが、四百体を超えたら撤退してください」
菫は肩を竦める。
「そんなに出るかな?」
「出るでしょう」
紫苑は即答した。
「だから貴女にお願いしています」
菫は苦笑しながら黒桃へ手を添えた。
「了解」
会議が終わると、葵が廊下で待っていた。
「行くのか」
「うん」
菫は小さく笑う。
「……すぐ帰る。夕飯までには」
「わかった。待ってる」
短いやり取りだった。
けれど、それだけで胸が軽くなる。
戦う理由は怪異を滅ぼすことではないのだ。
帰る場所があるから戦える。
山へ入った瞬間、空気が変わった。
木々の隙間から無数の黒い影が現れ始める。
人の形をしたもの。
獣の姿をしたもの。
顔だけが浮かぶもの。
霊脈を這うように現れ続ける。
菫は深く息を吸った。
黒桃をゆっくりと引き抜く。
刃は黒曜石のような艶を放っていた。
「……じゃあ」
「始めようか」
菫の瞳が金色に染まると、神気が一気に天へ駆け上がる。
山々が震えた。
「──神降し」
雷鳴が轟き、空が裂ける。
黄金の稲妻が菫の身体を包み込む。
「武甕雷命この身に宿り給え」
神威が厳かに降り立ち、菫に重なったその瞬間。
菫の姿が消えた。
怪異が反応した時には、すでに十数体の首が宙を舞っていた。
速い、いや。
速さという概念を超えている。
踏み込みと同時に雷が走り、刃が振り抜かれた後から轟音だけが追い掛けてくる。
怪異は何に斬られたのか理解できない。
黒桃は静かに冥陰波動を呑み込み続ける。
一体。
十体。
五十体。
百体。
刀身は少しずつ黒さを増していく。
武甕雷の荒々しく研ぎ澄まされた神気が雷霆のように猛り狂う。
しかし菫は笑っていた。
「まだ帰れないなぁ」
怪異を斬る。
「葵、ご飯作ってるかな」
神威を重ねてなお、葵が作る夕飯の事を考える、強い精神力と言い換えることができるかもしれない。
また一体。
「今日は何を作ってくれるんだろ」
また一体。
「お腹減った」
雷鳴が轟き、黒桃が閃く。
怪異が消える。
そのたびに菫の頭に浮かぶのは、葵のことばかりだった。
思い出すたび、自然と踏み込みが速くなる。
怪異の群れが山を埋め尽くす。
それでも菫は止まらない。
「邪魔」
一閃。
「遅いし」
二閃。
「こっちは早く、帰りたいんだよ」
三閃。
武甕雷の神威が雷雲を呼び、山肌へ稲妻が落ちる。
しかしその雷より速く、黒桃は舞っていた。
それはもはや剣術ではない。
乱舞。
咲き誇る紫の花弁のように。
一歩踏み込むたび、怪異が散ってゆく。
一太刀振るうたび、雷鳴が遅れて響く。
二百。
三百。
怪異はなおも湧き続ける。
黒桃は漆黒の深い黒へ染まっていく。
刃の奥から囁くような声が聞こえた。
『もっと斬るのだ』
『まだ足りない』
『もっとだ』
菫は小さく笑った。
「ごめん。今日は早く帰る約束だからさ」
その言葉と共に、さらに一歩踏み込む。
最後の怪異が黒桃へ吸い込まれるように消えた。
山は静寂を取り戻した。
菫はゆっくりと刀を見下ろす。
「また黒くなったね」
黒桃を静かに鞘へ納める。
武甕雷の神気がゆっくり薄れていく。
「……さぁ帰ろ」
日が暮れる頃。
玄関の前まで来て、菫はふと立ち止まった。
「……あ」
自分の服を見る。
袖はところどころ破れ、土埃も付いている。
髪も戦闘で少し乱れていた。
「これじゃ駄目だ」
玄関脇にある水場で手を洗い、髪を指先で整える。
黒桃を鞘ごと壁へ立て掛け、前髪を何度も直す。
「うーん……」
池の水面を鏡代わりに覗き込み、小さく首を傾げる。
「……大丈夫、かな」
そこへ黒桃が、かたん、と小さく鳴った。
「分かってるって」
菫は少し照れたように笑う。
「怪異は何百体いても平気なのに。」
「こういうのは苦手なんだよ」
深く息を吸う。
頬を軽く叩く。
「よし、いくぞ」
玄関へ向かおうとして、また止まる。
「……笑顔」
口角を上げてみる。
「いや、これ変」
もう一度やり直す。
「……こっちかな」
何度か練習してから、小さく頷いた。
「よし、自然だな」
その瞬間、玄関が開いた。
「菫」
葵だった。
「あ……」
一瞬で作っていた笑顔が崩れる。
「お、おかえり……じゃなかった。ただいま」
自分でも何を言ったのか分からなくなり、耳まで真っ赤になる。
葵はそんな様子を見て、不思議そうに首を傾げた。
「どうした?」
「な、何でもない」
「そうか」
葵はいつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「そのままでも十分可愛いぞ」
数秒、時が止まる。
菫の思考も止まる。
「…………」
「…………」
「…………え?」
ようやく理解した頃には、葵はもう何事もなかったように家の中へ入っていた。
菫はその場でしゃがみ込み、真っ赤な顔を両手で隠す。
「ずるい…」
怪異三百体を相手にしても一度も震えなかった心臓が、今になって雷鳴のように鳴り響いていた。
居間から葵の足音が近付いてくる。
「おかえり」
「ただいま」
その一言を聞いた瞬間、菫の肩から力が抜ける。
神気が静かに巡り、人へ戻っていく。
葵は黒桃へそっと手を添えた。
葵の気が刀身を優しく包む。
黒く染まっていた刃から、わずかに冥陰波動がほどけていくのがわかった。
「今日は無理をしたな」
「してない」
「嘘だ」
「伴侶相手だと隠せないね」
菫は少し照れくさそうに笑った。
葵も微笑む。
「夕飯はもうできてるぞ」
その一言に、菫の表情がぱっと明るくなる。
「やった。楽しみにしてたんだ」
神代一族には古い教えがある。
『一柱を一人で背負うな』
伴侶とは、神を降ろした後、人へ戻してくれる者。
菫にとって、その帰る場所は、いつも同じだった。
雷を纏い、幾百の怪異を斬り伏せる武神であっても。
玄関で「おかえり」と迎えてくれる人の前では、ただ一人の神代菫でいられるのだ。




