第九十一話 柚子の大馬鹿十八年
神代商工会本部の執務室で、神代麻那は机の上へ積み上がった資料を見つめていた。
本来なら、その半分以上は右腕である梓鉉の弟が抱えているはずの案件だった。
しかし彼は一週間前から東北へ飛び、神代系列企業の再編と地方酒蔵を巻き込んだ流通網の立て直しに追われている。
現場でしか解決できない案件になるほど彼の出番は増え、そのたびに麻那の机には「後で確認してください」と付箋の貼られた書類が山のように積み上がっていく。
「こんなに仕事を一気に片づけて、1週間くらい連休しようとしてるのかしら」
以前の麻那なら、多少の無理をしてでもこれらを自分で処理しようとしていただろう。
しかし今は違った。
梓鉉と、その弟との関わりを通して、麻那は人に頼ることを強く意識するようになっていた。
誰かに仕事を任せることは、責任を放棄することではないのだ。
相手の力を認め、信頼するということでもある。
軽いノックの直後、返事を待たずに扉が開いた。
「麻那、お疲れー」
明るい声とともに入ってきたのは、神代柚子だった。
柚子色を思わせる髪の差し色に、華やかな装い。指先には派手なネイルが施され、手にしているバッグもひと目で高価なものと分かる。初対面の人間からは、仕事より遊びを優先する軽薄な人物だと誤解されることも少なくない。
麻那は書類から顔を上げた。
「ノック」
「したでしょ?」
「返事を待ってないじゃない」
「待ったら入れてくれなさそうだったから」
「今も追い出そうか迷っているけれど」
「そんなこと言って、私に仕事頼む顔してるよ」
柚子は勝手知ったる様子で来客用の椅子に腰を下ろした。麻那は小さく息をつき、資料の束を三つに分ける。
「秋田の酒蔵再建が二件。静岡の物流会社との調整が一件。それから北海道の農業法人と、原料米の契約について話をつけてほしいの」
「北海道、遠いなぁ」
「嫌なら別の人に頼むけど」
「行くよ。美味しいものもあるし」
柚子は資料を順番も確かめず鞄へ入れた。
「期限は?」
「来週まで」
「余っ裕ぅ」
「本当に?」
「私が余裕って言った時は、大体どうにかなるよ」
「大体じゃ困るんだけど」
「じゃあ絶対」
信用できそうで、どこか信用しきれない返事だった。
しかし麻那は、それ以上確認しなかった。
柚子が軽い調子で請け負った仕事を投げ出したことは、一度もないからだ。
二人のやり取りを室内の隅で聞いていた新任社員が、柚子が出ていった後、遠慮がちに口を開いた。
「あの方、本当に大丈夫なんでしょうか」
麻那は即答した。
「大丈夫よ」
「ですが、失礼ながら、少し自由な方に見えまして……」
「それはそう見えるだけ」
麻那は次の資料を開きながら付け加えた。
「柚子は、ここにいる誰より人を大切にするわ。だから、ここにいる誰より人が動いてくれる」
数日後、神代商工会の会議室では、地方酒蔵を中心とした地域再生事業について、合同会議が開かれていた。
出席者の中には大手企業の役員もいれば、地方の物流会社、農業法人、金融機関の担当者もいる。柚子は麻那から任された案件の調整役として、派手なネイルを机の上で組みながら、にこやかに話を聞いていた。
会議が中盤に差しかかった頃、大手企業から派遣された役員の一人が、椅子へ深く腰を沈めたまま口を開いた。
「率直に申し上げて、この提案には現実味がないように思いますね」
高圧的な口調であった。
地方企業の担当者たちが、わずかに表情を固くする。
柚子は笑顔を崩さなかった。
「どの点でしょうか?」
「まず、シナジーが見えない。参加企業が多いだけで、事業としての一貫性がありません。それにKPIも曖昧だ。市場のインサイトも十分とは言えないし、今日のアジェンダ自体、整理されていないように感じます」
横文字を並べながら、役員は周囲を見回した。
反論できる者はいないだろうと確信している顔だった。
柚子は一度だけ頷き、手元の資料を開いた。
「なるほど。それでは、認識を合わせるために確認させてください」
声の調子はまったく変わらない。
だが、それまで柔らかかった会議室の空気が、わずかに引き締まった。
「今回のアジェンダは四点です。第一に、地方酒蔵の利益率改善。第二に、物流コストと在庫回転率の最適化。第三に、地域ブランドのポジショニング再構築。第四に、五年後、十年後を見据えた雇用と技術継承の維持です」
役員が何か言おうとしたが、柚子はそのまま続けた。
「次に、御社がおっしゃるシナジーについてですが、こちらは酒蔵単体で考えていません。酒造、農業、物流、観光、飲食、金融を一つの地域資産として捉えています。酒蔵の売上だけを伸ばすのではなく、原料米の生産者、地域の宿泊施設、飲食店、販売網まで含めて利益を循環させる。それが今回の事業スコープです」
柚子は資料の一頁を指先で軽く叩いた。
「インサイトについても、消費者が求めているのは単なる高級酒ではありません。誰が、どの土地で、何を守るために造っているのか。その背景まで含めて商品価値になる。私たちは酒を売るのではなく、地域の文化に対価が支払われる仕組みを作ろうとしています」
役員の口元から、先ほどまでの余裕が消えていった。
「それとKPIですが、短期売上だけをみて指標にすると、この事業は必ず失敗します。売上高、営業利益率、物流費率だけでは不十分です。蔵の存続率、地域雇用の維持率、後継者の定着、原料米生産者への還元率まで追います。御社の評価軸と、こちらの評価軸が違うだけです」
柚子はそこで初めて言葉を切った。
会議室は静まり返っていた。
「ですので、アジェンダ、シナジー、インサイト、KPIのいずれも、資料には記載済みです。横文字を多用すること自体は構いません。ただ、横文字にした瞬間に言葉の中身まで立派になるわけではありませんので、そこはご認識ください」
誰かが小さく息を漏らした。
笑いを堪えたのだろう。
役員は不機嫌そうに眉を動かしたが、反論の言葉は出てこなかった。
柚子は何事もなかったように笑った。
「でも、便利ですよね。たくさん並べると、なんとなく仕事ができそうに聞こえるから。私も今度やってみようかな」
今度こそ、会議室のあちこちから笑いが起きた。
明るくなった会議の場に、当の役員も苦笑いしていた。
追い詰めるだけで終わらせないのも、柚子のやり方だった。
相手の面目を完全には潰さず、しかし二度と同じ態度を取らせない位置まで押し戻す。
会議が終わると、地方酒蔵の若い社員が柚子のもとへ駆け寄ってきた。
「初めまして柚子さん、私は石原日陽と申します。今日は本当にありがとうございました」
「何が?」
「先ほどの酒蔵、実は母の実家なんです。大手企業の条件をそのまま飲むしかないんだと思っていました」
柚子は少しだけ目を細めた。
「そうだったんだ」
「柚子さんが話してくださらなかったら、蔵の名前だけ残して、中身は全部変わっていたと思います」
「まだ何も決まってないよ。ここからが仕事」
「はい」
「だから、今度ちゃんとお酒送ってね」
日陽は一瞬きょとんとした後、深く頭を下げた。
「もちろんです」
その日の夕方、柚子は麻那の執務室へ戻ってきた。
「終わったよ」
「報告書は?」
「今から」
「終わっていないじゃない」
「会議は終わった」
柚子はソファへ座り込み、靴の踵をわずかに浮かせた。
「大手一社と、物流会社二社。あとは金融機関も協力してくれるって」
麻那は書類から顔を上げた。
「物流会社は一社の予定だったはずだけれど」
「帰りにもう一社寄ったの」
「わざわざなんで?」
「社長と知り合いだから」
「金融機関は?」
「担当役員の奥さんが、前に私の仕事先で困ってたから助けたことがあったの」
柚子にとっては、それだけのことらしい。
麻那はしばらく黙ってから尋ねた。
「どうして、柚子はそんなに周りの皆が動いてくれるの?」
柚子は派手に飾られた指先を眺めながら、少し考えた。
「困ってる時に助けたからじゃない?」
「それだけ?」
「約束を忘れないとか。紹介された人を雑に扱わないとか。仕事が終わった後もちゃんと連絡するとか」
「ずいぶん地道ね」
「物心ついてから十八年くらいやってるからね」
麻那は思わず笑った。
「柚子の大馬鹿十八年だっけ?」
「そうそう」
柚子も笑う。
桃栗三年、柿八年、柚子の大馬鹿十八年という言葉がある。
「人の信用って、三年じゃ実らないこともあるから」
その言葉を聞きながら、麻那は梓鉉に言われたことを思い出していた。
一人で戦える人間は強い。
けれど、人に頼ることができる人間は、もっと遠くまで行ける。
麻那は以前、人へ仕事を任せることに不安を感じていた。
自分で処理した方が早い。自分が責任を負った方が確実だ。そう思っていた。
だが、柚子の周囲に集まる人々を見ていると、それがすべてではないと気付かされる。
柚子は特定の組織に属さない。
本家にも分家にも深く肩入れせず、必要とされた場所へ赴き、仕事を終えればまた別の場所へ向かう。
根無し草のように見える。
しかし実際には、誰より多くの場所へ根を張っていた。
それは支配するための根ではない。
困った時に手を差し伸べ、約束を守り、相手の話を聞き続けてきた時間の積み重ねだった。
「次も頼んでいい?」
麻那が尋ねると、柚子はソファの背にもたれたまま笑った。
「内容によるぅ」
「北海道の続き」
「それは美味しいもの次第」
「経費で落とせる範囲にして」
「会長、細かい」
「柚子が自由すぎるのよ」
そう言いながら、麻那は新しい資料を柚子の前へ置いた。
以前なら、自分で抱えていた仕事だった。
柚子は資料を受け取り、派手なネイルの指で表紙を軽く叩く。
「任せて」
その一言を、今の麻那は素直に信じることができた。
神代一族の力は、神降しだけではない。
長い年月をかけて結ばれた縁と、積み重ねられた信用もまた、人を動かし、企業を支え、土地の未来を変えていく。
神代柚子が十八年かけて極めたものは、技でも術でもなかった。
人を大切にし、人から信じられること。
それは派手な神気を放つこともなければ、一夜で身につくものでもない。
だからこそ、一度実れば強いのだ。
柚子は少し黙ったあと不意に言った。
「ねえ」
「うん?」
「梓鉉さんのこと、どう思ってんの?」
麻那は一瞬だけ動きを止めた。
「急に何?」
「いやぁ」
柚子は肩をすくめる。
「最近さ。麻那、ちょっと変わったじゃん」
「そう?」
「うん。前は全部一人で抱えてたよね」
「今はちゃんと人に任せるようにしてるよ。人に頼ることも覚えたし」
麻那は少し考えてから笑った。
「……仕事を覚えただけよ」
「違う違う」
柚子は首を横に振る。
「仕事じゃなくて。それは人の信じ方だよ」
沈黙。
麻那は窓の外を見た。
「梓鉉さんが前に言ってくれたの。一人でできる人間は強い。でも、人に頼れる人間の方が、もっと強いって」
柚子は小さく笑った。
「それは、そう」
「うん」
「いい人じゃんね」
麻那は静かに頷く。
「……そうね。尊敬してる、かな」
「へぇぇぇぇ」
「何?」
「いやぁ」
柚子は笑いながら立ち上がる。
「ちょっとそれだけ聞きたかった」
「変な人」
「私、人を見る目だけはあるつもりだから」
今度は麻那が同じように返す。
「へぇぇぇぇ」
「気を付けなね」
「何を?」
柚子は扉を開けながら振り返る。
「尊敬ってさぁ、たまに恋愛の入口だから」
「……は?」
「じゃ、お疲れ」
扉が閉まり部屋に静寂が戻る。
麻那はしばらく資料を見つめていた。
そして、小さく息を吐く。
「……ないない」
そう呟いたものの、その日の帰り道は不思議となぜか梓鉉の横顔ばかり思い出してしまう麻那だった。




