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第九十話 『黄泉戸』

神代鬼灯が机へ一枚の資料を滑らせる。


「この神社、どう思う」


若い術者は首を傾げた。


「過疎地域の神社ですね」


「あぁ、そうだ」


鬼灯は淡々と続ける。


「だが、三年前までは地元の宮司が一人で守っていた」


資料をめくる。


そこには法人登記の変更履歴、役員名簿、土地の権利移転が並んでいた。


「宮司が亡くなった後、管理する者がいなくなった」


「そこへ別の宗教法人が入った」


「買収……ですか」


「表向きはな」


鬼灯は鼻で笑う。


「実際は反社会組織のフロント企業だ。」


神社そのものが目的ではない。


神社という「器」が欲しかったのだ。


宗教法人となれば、社会的信用を得やすく、寄付や祭礼、文化財管理などを隠れ蓑に資金を動かせる。

さらに、長年信仰を集めてきた土地には霊的な「場」の力が残っており、怪異との契約や呪具の保管にも利用しやすい。


「奴らは神を信じているわけじゃねぇ」


鬼灯は資料を閉じた。


「神社を金になる箱としか見ていない」



“神代鬼灯が動くらしい”



その一報だけで、裏社会に生きる者たちの空気が変わった。


警察でもない。


公安でもない。


神代一族の表舞台に立つ者でもない。


それでも誰もが知っている。



神代鬼灯だけは、敵に回してはならないと。



関東一円で勢力を広げる反社会組織「黒蛇会」は、怪異を利用した薬物や呪具の密売で莫大な利益を上げていた。


怪異へ生贄を捧げる代わりに力を借り、契約で縛られた構成員は決して口を割らない。


その背後では、何人もの神職や酒蔵関係者が謎の失踪を遂げていた。


神代一族は既に全容を掴んでいた。


証拠があり資金の流れもある。


だが動かなかった。


まだ、怪異との契約の根が残っている。


表だけ潰しても、また芽吹くからだ。


だから神代橘は静かに告げた。


「鬼灯」


「はい」


「頼む」


鬼灯は吸いかけの煙草を灰皿へ押し付けて消すと、それが返事の代わりだった。


その夜、黒蛇会の幹部が一人、跡形もなく姿を消した。


悲鳴もなかった。


銃声もなかった。


ただ監視カメラには、黒いコートを羽織った男がすれ違った瞬間、映像が砂嵐へ変わる様子だけが残っていた。


地下施設の無機質な部屋で、椅子へ座らされた男は鬼灯を睨みつける。


「てめぇ、警察ではねぇな」


「違う」


「なら誰だ」


鬼灯は名乗らない。


代わりに机へ一冊の帳面を置いた。


そこには、組織が怪異へ差し出してきた供物と、人身売買の記録、消えた神職たちの名前が並んでいる。


「知ってることを話せ」


男は薄ら笑う。


「話せねぇよ」


その笑みは虚勢ではなかった。


契約している。


話せば死ぬからだ。


怪異との誓約が魂へ刻まれている。


鬼灯はため息をついた。


「話さないままお前が死んでも、別に構わんが」


彼は立ち上がる。


「ひどい苦痛を受けるのは確かだ。だが安心しろ。俺はお前を痛めつけたいわけじゃない」


「お前の契約を剥がす」


男は鼻で笑う。


「できるもんならやってみろ」


鬼灯は静かに黒い革手袋を外した。


「では、期待通りに引っぺがしてやるよ」


その声とともに、部屋の温度が急激に下がっていく。


照明が揺れ、壁の影が伸びる。


鬼灯の眼球全体が深い闇色へ変わり、その虹彩には幾重もの境界線を思わせる神紋が浮かび上がった。足元から立ち上る神気は黒ではない。光を吸い込むような鈍い灰色で、部屋全体が一つの「境界」へと変わっていく。


その身へ降りるのは――塞坐(さよります)黄泉戸大神(よみどのおおかみ)


黄泉への戸を閉ざし、生者と死者、こちら側とあちら側、その境を守る神。


鬼灯が一歩踏み出すたび、床へ淡い神紋が刻まれ、見えない結界が幾重にも重なっていく。男にとってその様はまるで、ゆっくりと近寄ってくる死神の歩みのようであった。


「ここから先、お前の契約は通じない」


その一言で、男の顔から血の気が引いていく。


首筋へ浮かんでいた黒い紋様が苦しげに蠢き始める。


「な……何をした」


「境界を閉じた」


鬼灯は静かに答える。


「怪異は契約の向こう側にいる」


「なら、その道を塞げばいい」


男は絶叫する。


黒い靄が口や耳から噴き出し、何かが必死に戻ろうともがいていた。


鬼灯は一切表情を変えない。


「苦しいだろう」


熱く焼けた巨石を背中に置かれているような感覚。


「契約を切る痛みだ」


熱と圧力による苦しみ。


拷問のような、この儀式が終わったとして神威によってもたらされた熱は果たして消えるのだろうか。


「お前を壊しているのは俺じゃない」


「怪異だ」


数分後、黒い靄は霧散した。


男は荒い息と涎をたらしながら床へ崩れ落ちる。


「終わった」


鬼灯は水を差し出した。


「飲むといい」


男は震える手で受け取り、しばらく黙っていた。


ここで話さなければ、鬼灯の次の手が確実に来るのだ。


やがて、小さく呟く。


「……話す」


そこから先は早かった。


隠し倉庫に資金洗浄口座。


怪異を祀る祭壇に政治家との繋がり。


すべてが明るみに出る。


幹部が数名、謎の失踪を遂げ

翌日から黒蛇会は急速に崩壊していった。


後釜を狙う内部抗争に資産凍結。


そして怪異との契約消失。


一週間後には、誰も組織の名を口にしなくなっていた。


報告書を読み終えた若い術者が鬼灯へ尋ねる。


「……これはやりすぎではないのですか」


鬼灯は煙草へ火を点ける。


紫煙が静かに立ち上った。


「そうだなぁ」


短く笑う。


「だから俺は祭りには呼ばれねぇ」


術者は言葉を失う。


鬼灯は窓の外を眺めながら続けた。


「紫苑は神を迎える」


少し間を置く。


「俺は人間の掃除だな」


その声に誇りはない。


諦めもない。


ただ、自分の役割を受け入れた者だけが持つ静けさがあった。


そのとき、一人の部下が慌てて駆け込んでくる。


「鬼灯様。保護していた子どもたちですが……。」


鬼灯は煙草を消した。


「全員無事か」


「はい」


その一言を聞くと、鬼灯は初めて安堵したように息を吐く。


「いいね」


部下は不思議そうに尋ねる。


「なぜ子供たちを気にされるのですか」


鬼灯は振り返らない。


「大人は、自分で選んだ道だ。だが、子どもは違うだろ」


静かな声だった。


「利用された者まで沈めるほど、俺も腐っちゃいないってことか」


誰にも聞かせるつもりのない本音だった。


神代一族には、神を迎える者がいる。


神を還す者がいる。


未来を観る者がいる。


そして、人が決して見ようとしない闇を引き受ける者もいる。


誰もその名を表では語らない。


彼はまた、誰にも知られぬ境界へ立ち、二度と人の世へ災いが溢れ出さぬよう、黄泉への戸を静かに閉ざし続けている。

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