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第八十七話 変わらない夜

神代蒼麻が乾啓介(いぬいけいすけ)野々宮晴人(ののみやはると)小暮志乃(こぐれしの)の三人と知り合ったのは、都内で開かれた小さな日本酒の試飲会だった。


大手の酒販店が主催する華やかな催しではない。地方の酒蔵が数軒集まり、それぞれの造りや土地の水について、客と直接話しながら酒を注ぐ、こぢんまりとした会だった。


蒼麻は一人で参加していた。


普段からそうであるように、銘柄の知名度よりも酒質や造りの背景を気にして、蔵元の話を聞きながら静かに杯を重ねていた。


その隣で、首からカメラを下げた男が、酒瓶をさまざまな角度から撮影していた。


野々宮晴人だった。


広告や雑誌の仕事を請け負うカメラマンで、当日は知人から頼まれ、試飲会の記録写真を撮っていたらしい。もっとも、仕事が終わってからも撮影をやめず、気に入ったラベルを見つけるたびに、光の当たり方を変えてはシャッターを切っていた。


「このラベルいいな。光を少し落とすと、もっと映える」


「先に蔵の人へ確認したほうがいいぞ」


晴人の背後から、眼鏡を掛けた男が冷静に口を挟んだ。


乾啓介。企業の法務・コンプライアンス部門に勤めており、休日であっても、許可や権利関係を見過ごせない性分だった。


「酒瓶を撮っただけで怒られないだろ」


「撮るのは良いとしても、掲載するなら話は別だ」


「まだ掲載するとは言ってないだろ」


「お前は気に入った写真をすぐ人に見せるからな」


「よく分かってるじゃないか」


二人は以前からの知り合いらしく、険悪そうな言葉を交わしながらも、本気で揉めている様子はなかった。


その少し離れた場所では、試飲の量を誤り飲みすぎた客が椅子に座り込み、青い顔をしていた。

そばにしゃがんで呼吸や意識を確かめていたのが、小暮志乃だった。


救急外来に勤める看護師である。


「大丈夫です。少し休めば落ち着くと思います。ただ、お酒はここまでにしてくださいね」


穏やかな口調だったが、有無を言わせぬものがあった。


晴人が小声で啓介に言った。


「俺も酔ったふりをしたら、あんなふうに介抱してもらえるかもしれない」


「志乃に腕を捻りあげられて終わるぞ」


「患者は殴らないわよ」


いつの間にか戻ってきていた志乃が、晴人の背後から答えた。


「患者ならね」


そのやり取りを聞いて、蒼麻が思わず笑った。


晴人が振り返る。


「今、笑いましたよね」


「いや」


「笑った。絶対に笑った」


「気のせいですよ」


「初対面の人にまで冷たくされてるぞ、晴人」


啓介の一言で、なぜか蒼麻もその輪へ加えられた。


試飲会が終わったあと、四人は近くの店で飲み直した。晴人が勝手に決め、啓介が店の評判を確認し、志乃が翌日の勤務時間を気にしながら同行し、蒼麻は断る理由もなくついていった。


その夜、蒼麻が注文した酒について少し説明したところ、晴人が面白がって次々に質問を重ねた。啓介は話の根拠を確認し、志乃は料理との相性を試しながら静かに聞いていた。


気づけば、店が閉まる間際まで話していた。


それから四人は、折に触れて酒を飲むようになった。


晴人が面白そうな店を見つけ、啓介が予約を取り、志乃が全員の予定をまとめる。蒼麻は酒を選び、ときには蔵元との縁を頼りに、一般には出回らない酒を持ち込んだ。


神代一族とは関係のない人間たちと過ごすその時間は、蒼麻にとって思っていた以上に心地よいものだった。


三人が蒼麻の素性を知ったのは、それからしばらく後のことだった。


晴人が仕事を通して知り合った地方の酒蔵から、蔵開きへ招かれたのがきっかけだった。


四人で蔵を訪れ、酒を味わい、造り手の話を聞いた。


そこまでは、いつもと変わらない酒蔵巡りだった。


異変が起きたのは、その帰りだった。


駅へ向かう途中、山際に建つ古い社の前で、晴人が足を止めた。朽ちかけた鳥居の向こうに、酒蔵で使われなくなった古い貯蔵庫が見えたからだった。


夕暮れの中に沈むその建物を、晴人は何気なく撮影した。


直後、鳥居の奥から音がした。


人の声に似ていた。


しかし、言葉にはなっていなかった。


濡れた布を引きずるような音が近づき、あたりから風が消えた。啓介が腕時計を見たとき、時刻は午後五時四十二分だった。


次に時計を確認したときも、同じ時刻だった。


それから何度見ても、秒針は動かなかった。


世間話をしながらたまたま見ていた近くにいた住民たちは、四人が社の前に立っていた時間について、異なる証言をした。


数分だったと言う者もいれば、一時間以上、四人の姿が消えたと言う者もいた。


その時の晴人のカメラには、人間の形をしていないものが写っていた。


長い手足を折り畳み、古い貯蔵庫の屋根から四人を見下ろす、黒く湿った影。顔に当たる場所には何もなく、代わりに無数の指のようなものが生えていた。


それは、その土地で長く封じられていた怪異だった。


封が弱まり、蔵から流れてきた酒の香りに引かれて目を覚ましたのだ。


蒼麻は三人を逃がそうとした。


しかし、鳥居をくぐっても同じ場所へ戻された。


怪異が晴人の背後へ手を伸ばした瞬間、蒼麻は隠すことを諦めた。


懐に残っていた小瓶の酒を地面へ注ぎ、指先で印を結ぶと

その瞳に、金色の紋様が浮かんだ。


周囲の空気が重く沈み、次いで、張り詰めた糸が鳴るような音がした。


怪異の影が空中で止まった。


見えない何かに縫い留められたように、長い手足が不自然な形で固定される。


蒼麻の声に、別の響きが重なった。


三人がそれまで聞いたことのない、古く、低い声だった。


蒼麻は怪異を貯蔵庫の奥へ押し戻し、残っていた封を結び直した。


すべてが終わったあと、蒼麻はその場に膝をついた。


志乃が駆け寄り、脈を測った。


速いのではなく、あまりにも遅すぎた。


体温も、人間の身体としてはあり得ないほど低下していた。


それでも蒼麻は、何でもないように言った。


「少し休めば戻る」


「その台詞、救急外来では一番信用されないの」


志乃は蒼麻の言葉を退け、呼吸と意識を確かめ続けた。


啓介は住民たちの証言と時刻を記録し、晴人は震える手で、カメラに残った画像を確認していた。


三人とも、何も見なかったことにするには、知りすぎてしまったのだ。



後日、蒼麻は三人を呼び出し、自分が神代一族の人間であることを話した。


世の中には怪異が存在すること。


神代一族は、神と呼ばれるものの力を身体へ降ろし、それらに対抗してきたこと。


蒼麻自身も、幼い頃から人ならざるものを見ることができたこと。


すべてを話したわけではなかった。


九尾狐の欠片も、父が施した封印も、神代一族の奥に横たわる因縁も伏せた。


それでも、普通の人間が距離を置くには十分すぎる話だ。


蒼麻は覚悟していた。


三人との関係は、ここで終わるのだろうと。


しかし、話を聞き終えた晴人が最初に口にしたのは、まったく別のことであった。


「それで、あの写真は人に見せないほうがいいんだよな?」


「そこか?」


「大事だろ。作品としてはかなり良い感じだ」


「消してくれ」


「元データだけでも」


「消してくれ」


啓介は額を押さえた。


「怪異に肖像権があるかどうかを検討する日が来るとは思わなかった」


「検討するなよ」


志乃は蒼麻の手首を取り、脈を測った。


「今日は正常ね」


「俺の話を聞いた感想は、それだけ?」


「無茶をしたら妹さんに連絡する」


「一体いつ連絡先を交換したんだよ」


「酒蔵から戻った日」


蒼麻は三人の顔を順番に見た。


怖くないのか、と尋ねようとした。


だが、言葉にはならなかった。


啓介が察したように言った。


「お前が面倒な事情を抱えていることはよく分かった」


「ずいぶんな言い方だな」


「だが、それで今までの付き合いを変える理由にはならないぜ」


晴人が頷く。


「むしろ面白くなってきたわー」


「お前は少し変われ」


「ひどいな」


志乃は蒼麻の手首を離した。


「話せないことがあるなら、無理に話さなくていい。ただし、身体に関わることは隠さないで」


結局、三人は何も変わらなかった。


蒼麻を見る目も、話し方も、酒席での扱いも、それまでと同じだった。


そして今夜、四人は下北沢の晩酌処のカウンターに並んで座っていた。


店内には、料理の匂いと小さな話し声が穏やかに混じっている。外の喧騒は扉の向こうへ置き去りにされ、カウンターの内側では、店主が静かな手つきで肴を仕上げていた。


「最初はこれでいいと思う」


蒼麻が四人分の酒を選んだ。


晴人が自分の猪口へ鼻を近づける。


「華やかな香りだな」


「お前がラベルだけで選びそうな酒だ」


「今日は蒼麻が選んだんだろ」


「だから中身は保証する」


「俺の選び方を信用してないよな」


「信用できる材料がない」


「啓介、何か言ってやってくれ」


「晴人は先月、名前が格好いいという理由だけで酒を選んだ」


「うまかっただろ」


「結果論だ」


志乃が酒をひと口含み、出された料理を食べた。


「料理と一緒だと、香りの印象が変わるわね」


「そうなんだよ。単体だと少し前に出るけど、これは出汁と合わせると――」


「始まった」


晴人が呟いた。


蒼麻は眉を寄せる。


「聞いたのは志乃だぞ」


「私は一言しか言ってない」


「一言あれば十分なんだよ、こいつには」


啓介が淡々と続ける。


蒼麻は反論しようとして、やめた。


代わりに猪口を持ち上げる。


その指先が、わずかに震えた。


志乃だけが、それに気づいた。


「まだ右手の感覚、戻ってないの?」


「何の話だ」


「今夜はずっと左手で飲んでる」


晴人と啓介の視線が蒼麻の手へ向いた。


「少し感覚が鈍いだけだ」


「いつからだ」


啓介の声が低くなる。


「昨日」


「原因は?」


「仕事だ」


「怪異のほうか、神代一族のほうか」


蒼麻は答えず、酒を飲んだ。


啓介が小さく息を吐いた。


「答えないということは、両方か」


「察しがいいな」


「褒めてはいない」


志乃はそれ以上問い詰めなかった。


ただ、蒼麻の前に置かれていた徳利を取り、空きかけた猪口へ酒を注いだ。


「珍しいな。注いでくれるのか」


「こぼしたら、店に迷惑でしょう」


「そこは俺を心配してくれ」


「心配しているから言ってるの」


晴人が笑う。


「相変わらずだな、蒼麻」


その言葉に、蒼麻は一瞬だけ目を伏せた。


相変わらず。


あの酒蔵での一件から、三人は何も変わらなかった。


蒼麻が神代一族の人間であると知っても。


人の目には映らないものを見ていると知っても。


身体へ神の力を受け入れ、ときに人間とは異なる脈や体温になると知っても。


三人は蒼麻を恐れず、崇めず、特別に扱わなかった。


酒の説明がやたら長い男。


危険なことを黙って引き受ける男。


体調を隠すのが下手な男。


友人の注文に口を出しながら、結局は一番合う酒を選んでくれる男。


三人にとって蒼麻は、それ以上でも、それ以下でもなかった。


「お前たちは、怖くないのか」


気づけば、蒼麻は思わずそう口にしていた。


晴人が猪口を置く。


「何が?」


「俺がだ」


啓介が蒼麻を見た。


冗談を返す様子はなかった。


志乃も黙って次の言葉を待っている。


蒼麻は自分でも、なぜ今さらそんなことを聞いたのか分からなかった。


酒のせいではない。


この静かな店の空気に、少しだけ気が緩んだのかもしれない。


「俺の中に何がいるのか、俺自身にも全部は分からない。あの日に見せたものも、神代一族が抱えているものの一部にすぎない」


晴人が首を傾げた。


「だから?」


「だから……普通なら、距離を置くだろ」


少しの沈黙が落ちた。


カウンターの向こうで、包丁がまな板へ当たる音がした。


啓介が先に口を開いた。


「お前は、俺たちが何も考えていないと思っていたのか」


「そうは言ってない」


「怖くないわけではない。理解できないことも多い。だがお前を信用できないかと言われればそれは別だろ」


晴人も頷く。


「俺はめちゃ怖いぞ。あの写真、今見ても夢に出そうだし」


「消したんじゃなかったのかよ」


「消した。たぶん」


「今すぐ確認しろ」


「おまえー、そういうところだよ」


晴人は笑った。


「怪異は怖い。でも、蒼麻は蒼麻だろ。お前まで急に指が増えたり、天井を這ったりしだしたら少し考えるが」


「それ、少しで済むのか」


「長い付き合いだからな」


志乃が静かに言った。


「変わらないのではなく、変えないのよ」


蒼麻は彼女を見る。


「知ったあとでどう接するかを、私たちが決めた。それだけ」


志乃は蒼麻の猪口へ、もう一度酒を注いだ。


「だから、勝手に私たちの気持ちまで決めないで」


蒼麻は返す言葉を失った。


晴人が料理を取り分けながら言う。


「あと、怪異が出る可能性のある場所へ行くときは、先に教えてくれ」


「危険を避けるためか?」


「レンズをばっちり選びたい」


「お前は何も変わらなくていいから、一度反省しろ」


「さっき志乃が、変えないと決めたって」


「お前だけは例外だ」


啓介が冷静に断じ、志乃が小さく笑った。


蒼麻も、嬉しくて堪えきれずに笑った。


右手の指先には、まだ感覚が戻っていない。


神代一族のことも、自分の内側にあるものも、何一つ片づいてはいなかった。


明日になれば、また怪異を追うことになるかもしれない。


一族から呼び出されるかもしれない。


真響や麻那に、隠していた無茶を見抜かれるかもしれない。


それでも今夜だけは、何者かになる必要がなかった。


神を降ろす者でもない。


九尾の欠片を抱える器でもない。


怪異を退ける神代の人間でもない。


ただ、酒の説明が少し長い、三人の飲み仲間だった。


「次は何を飲むー?」


晴人が酒の品書きを広げた。


「蒼麻に選ばせると、また説明が始まるからな」


啓介が言う。


「でも、選んでもらったほうが外れないでしょう」


志乃が続ける。


三人の視線が蒼麻へ集まった。


蒼麻は品書きを受け取り、しばらく眺めたあと、一つの銘柄を指差した。


「これにしよう。少し燗につけると面白い」


「何がどう面白い?」


晴人が尋ねる。


蒼麻は顔を上げた。


「話すと長いぞ」


「知ってる」


啓介が答えた。


「聞いてあげる」


志乃が言った。


「ただし三分以内な」


晴人が勝手に制限を加えた。


「それは無理だ」


蒼麻は即答した。


四人の笑い声が、静かな店の中へ小さく溶けていった。


特別なことは何も起こらなかった。


酒器が勝手に増えることも、誰もいない席から声が聞こえることもなかった。


誰かの記憶が奪われることも、時間が止まることもない。


ただ四人で酒を飲み、料理を食べ、くだらない話をした。


それだけの夜。


けれど蒼麻にとっては、怪異が現れる夜よりも、ずっと得難いものだった。


秘密を知らなかった頃と、何も変わらない夜。


いや。


友人たちがすべてを知ったうえで、変わらないことを選んでくれた夜だった。

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