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第八十六話 神狐へ還る日

和銅三年、秋。


世界は静かに終わりへ向かっていた。


都では日に千を超える死者が出たと伝えられ、地方では村そのものが姿を消していく。

酒蔵は火を失い、神社には祈る者さえ訪れなくなっていた。


風は腐臭を運び、川は濁り、空を渡る鳥の数も日に日に減っていく。


怪異はもはや討つべき存在ではない。


世界そのものが、怪異へ変わろうとしていた。


五柱は再び貴船の森へ集まる。


誰も口を開かない。


誰も酒へ手を伸ばさない。


長い沈黙だけが、森を満たしていた。


やがて真響がゆっくりと目を閉じる。


「……もう、救い切れない」


震えるようなその声に、誰一人として否定の言葉を返せなかった。


深宵は膝の上で手を組んだまま、小さく首を横へ振る。


「嫌……もう、戻りたくない」


その声は、幼い子どもが泣くのを堪えるように弱々しかった。


紅沙も唇を噛み締める。


「また私たち……消えちゃう」


翠霞は静かに大地へ触れる。


巡るはずの命は止まり、土は応えなくなっていた。


「……怖い」


その一言は、誰も口にしなかった本音だった。


雫瑠だけは何も語らず、剣を抱き締めたまま静かに目を閉じている。


真響は四人を順に見つめた。


共に笑った日々が脳裏を過ぎる。


祭りの夜。


酒を酌み交わした時間。


春に咲く花。


子どもたちの笑顔。


くだらないことで笑い転げた夕暮れ。


そのすべてが愛おしかった。


だからこそ、失いたくなかった。


「また忘れてしまう」


真響が呟く。


神狐へ還れば、自我は溶ける。


真響も。


深宵も。


紅沙も。


翠霞も。


雫瑠も。


もう五人ではいられない。


その恐怖を、誰よりも彼女たち自身が知っていた。


森を渡る風が静かに枝葉を揺らす。


その時だった。


落ち葉を踏む、ゆっくりとした足音が響く。


誰も振り返らない。


振り返る必要がなかった。


そこへ立つ者が誰なのか、五柱は皆知っていた。


九尾狐。


彼は少し離れた場所で立ち止まり、五柱を静かに見つめる。


長い沈黙の末、小さく口を開いた。


「……また、やるのか」


誰も答えない。


九尾狐は続ける。


「何百年生きた」


「どれだけ人を救った」


「どれだけ笑った」


「どれだけ泣いた」


その静かな言葉は、森へ染み込むように響いた。


「それでも……また全部消すのか」


真響はゆっくりと顔を上げる。


「消したいわけじゃない」


「それは知っている」


九尾狐は短く答える。


真響は涙を堪えながら、それでも微笑んだ。


「でも、誰かが生き残らなきゃ」


九尾狐は静かに首を横へ振る。


「いや」


その一言だけで、森の空気が張り詰める。


「“どうやっても生き残る”のと、“しっかり生きた”ということは違うのではないのか」


深宵の肩が震えた。


紅沙は拳を強く握り締める。


翠霞は静かに目を閉じる。


雫瑠は剣を抱く手へ力を込めた。


九尾狐はなおも語る。


「この七年を生きた者は」


「この七年を笑った者は」


「この七年を苦しんだ者は」


「誰一人、未来へ残らなくなるのだぞ」


その言葉は、五柱の胸を深く抉った。


分かっていた。


だから苦しい。


九尾狐は静かに続ける。


「人は学ぶ。失敗から、苦しみから」


「そして、死から」


少しだけ間を置き、真っ直ぐ真響を見つめる。


「なのに、お前たちは全部なかったことにする」


真響は何も言えず俯いた。


反論できなかった。


その言葉は、あまりにも正しかったから。


長い沈黙が流れる。


やがて真響は小さく息を吸い、四人へ向かって手を差し伸べた。


「……ごめん」


その一言だけだった。


深宵は泣きながら、その手へ自分の手を重ねる。


「ごめんなさい」


紅沙も続く。


「また忘れちゃうけど」


翠霞もそっと手を重ねる。


「また会えるかな」


雫瑠は何も言わない。


ただ静かに、その手を重ねた。


五つの手が触れ合う。


世界が鳴動する。


空が裂け山々が白い光へ包まれていく。


五柱の姿は少しずつ輪郭を失い、一つの輝きへ溶け始めた。


真響が最後に見た朧げな光景は、涙を流す九尾狐の姿だった。


彼は五柱を止めなかった。


止められないことを知っていたから。


ただ、一粒の涙を流しながら呟く。


「また……誰もいなかったことになる」


その声だけを残し、五柱は完全に光へ溶けた。


神狐が顕現する。やる事は決まっていた。


世界は白く染まり、時は巻き戻る。


疫病は消え去り、酒蔵には再び火が灯る。


失われた村は甦り、人々は何事もなかったかのように笑い合う。


しかし、この七年間を生きた人々の人生は、誰一人として存在しなかったことになった。


光が静かに消えた後も、九尾狐だけはその場を動かなかった。


新しく生まれ変わった世界を見渡し、小さく笑う。


その笑みは、あまりにも悲しかった。


「……二度目だ」


風が吹く。


揺れる尾の一本一本へ、失われた七年間の記憶が静かに刻まれていく。


九尾狐は空を見上げ、静かに目を閉じた。


「もう、巻き戻させない」


その誓いは神狐への憎しみではない。


人への恨みでもない。


これ以上、誰かの人生を「なかったこと」にさせないための願いだった。


この日、九尾狐は第二段階の思想へと至る。


そして、その願いは幾百年の時を越え、一人の青年――神代蒼麻の運命を静かに揺り動かしていく。

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