第八十五話 終わらない世界
和銅三年。
平城京への遷都は、人々へ新しい時代への希望をもたらしていた。
新しい都、新しい政治、新しい文化。人々は未来を語り、酒を酌み交わし、これから訪れる繁栄を信じて疑わなかった。
しかし、その光は長く続かなかった。
都へ人が集まるほど疫病もまた広がり、飢えた者は職を求めて流れ込み、仕事を失った者は盗みに手を染める。死者は日に日に増え、弔う者さえ足りなくなっていった。
野には名もない墓が並び、親は子を失い、子は親を失い、夫婦は互いを看取ることも叶わず、ただ神へ祈るしかなかった。
五柱は昼も夜もなく各地を巡り続けた。
真響は怪異へ呑まれかけた人々の悲しみを抱き受け、その心が砕けぬよう寄り添い続けた。
深宵は社へ押し寄せる願いを一つ残らず受け止め、自らの霊力が尽きかけても社を離れなかった。
紅沙は燃え広がる怪異を焼き払い、翠霞は荒れ果てた土地へ命を巡らせ、雫瑠は人へ牙を剥く怪異を斬り続ける。
誰一人として諦めてはいなかった。
それでも世界は止まらない。
一つの村を救えば隣の村が滅び、一人の子どもを守れば別の土地で十人が命を落とす。神として救う速度より、人が絶望へ落ちる速度の方が遥かに速かった。
ある夜、五柱は再び貴船の森へ集まっていた。
誰も酒へ手を伸ばさない。誰も笑わない。森を渡る風だけが、静かに枝葉を揺らしている。
最初に口を開いたのは翠霞だった。
「……流れが止まった」
その言葉へ、誰も返事をしない。
翠霞の司る循環は、命あるものが巡ることで成り立っている。その巡りそのものが、世界から失われ始めていた。
紅沙は俯き、小さく拳を握る。
「今日も……村を一つ守れなかった」
祭りを開き、酒を振る舞い、人々は確かに笑っていた。だが、その笑顔は翌朝には飢えと絶望へ変わっていた。
深宵は膝の上で組んだ手を見つめていた。
その指先は小さく震えている。
願いを受け止め過ぎた代償だった。
雫瑠は剣を抱いたまま静かに目を閉じる。
これまで数え切れない怪異を討ってきた。
それでも討つたびに怪異は増え続ける。
初めて、自分の剣では届かないものがあることを認めざるを得なかった。
真響だけは立ったまま、夜空を見上げていた。
長い沈黙の末、小さく口を開く。
「……私たちは」
その声は、誰よりも弱かった。
「間違っていたのかしら」
誰も答えられない。
神として人を救う。
その願いだけを抱いて歩き続けてきた。
だが、その救済は、本当に世界を救っていたのだろうか。
同じ頃。
遠く離れた岩山の上で、九尾狐は静かに目を閉じていた。
風が吹く。その風には、数え切れない人々の声が混じっている。
助けて。
生きたい。
苦しい。
どうして。
崇神の時代に失われた命。
巻き戻しによって誰にも覚えられることなく消えていった人生。
その笑顔も、涙も、怒りも、絶望も、世界から消えただけで、九尾狐の中には何一つ消えずに残り続けていた。
何百年もの間、誰にも語れず、誰にも理解されず、積み重なり続けた記憶は、静かに九尾狐の自我を変えていく。
最初は悲しみだった。
やがてそれは疑問へ変わる。
なぜ、また同じことを繰り返すのか。
やがて、その疑問は一つの確信へ辿り着く。
違う。
人が弱いのではない。
怪異が強いのでもない。
世界が滅ぶ理由は、そこではない。
九尾狐は静かに目を開いた。
黄金色だった瞳の奥には、どこまでも深い蒼が宿っている。
その瞳は、もはや神狐の影ではなかった。
幾度も世界の終わりを見届け、幾度も人々の人生が「なかったこと」にされる様を見続けた果てに、一つの思想へ辿り着いた存在の瞳だった。
「救済は、人を育てない」
その声は風へ溶ける。
「悲しみを消せば、人はまた同じ悲しみを繰り返す」
尾が静かに揺れる。
霊力が増したわけではない。
神格が変わったわけでもない。
変わったのは、その魂だった。
幾度も世界を見送り、幾度も命が失われる様を見届けた果てに、九尾狐は神狐とは決して交わることのない一つの答えへ辿り着く。
――救済だけでは足りない。
――人は、自ら選び、それを自ら背負わなければ変われない。
その思想は、まだ誰にも知られていない。
しかし、この夜を境に、神狐と九尾狐は同じ世界を見つめながらも、二度と交わることのない別々の道を歩み始めた。




