第八十四話 届かなかった祈り
和銅二年の終わり。
人々は、異変の正体を知らなかった。
疫病なのか飢饉なのか。
それとも怪異なのか、誰にも分からない。
それでも、一つだけ確かなことがあった。
山へ祈れば、不思議と命が助かることがある。
酒を神へ供えれば、病が和らぐ村がある。
夜の社で黒い狐を見た者は災いを逃れ、白い狐を見た者は家族を守られた。
そんな噂が、人から人へ静かに広がり始めていた。
最初は、小さな村の言い伝えだった。
「あの黒狐様へ酒を供えた途端、子どもの熱が下がったのさ」
「白狐様へ稲穂を供えた翌日、すぐに雨が降ったんだと」
「祭の夜、朱い狐様が火を灯して村人を導いてくれたんだよ」
「蒼い狐様が現れた土地では、枯れていた井戸へ水が戻ったそうだ」
「黄金の狐様へ願った者だけが、山奥で生き延びたらしい」
いつしか人々は、その姿を見たこともない狐たちへ感謝を捧げるようになる。
名も知らぬ狐神。
土地を守る神使。
山を巡る稲荷。
地方ごとに呼び名は違えど、人々が祈っていた存在は皆、同じ五柱だった。
各地の社には小さな狐像が置かれ始める。
酒が供えられる。
稲穂が供えられる。
油揚げを捧げる土地もあった。
「狐様、どうか今年も見守ってください。」
幼い子どもたちは狐の面を被り、祭で舞を奉納する。
酒蔵では新酒ができるたび、まず一献を狐神へ捧げる風習が生まれた。
それは後の時代に「稲荷信仰」と呼ばれる大きな流れの、まだ小さな芽吹きだった。
その信仰は後に祭神を凌駕するほどに全国に波及して成長してゆく。
それほどの人々の信仰は、確かに五柱へ届いていた。
真響は酒を受け取るたび、人々の「ありがとう」という想いを受け取る。
深宵は願いを抱えながらも、以前より長く微笑めるようになった。
紅沙の炎はさらに鮮やかになり、翠霞の巡らせる生命は広い土地へ届き始める。
雫瑠の剣は、一太刀ごとに怪異の核を断ち切るほど冴え渡っていた。
信仰は、神を強くする。
人が信じるほど、神は世界へ深く関われる。
それは古より変わらぬ理だった。
五柱自身も、その力の高まりを感じていた。
「我々が力を増した今なら……」
紅沙は焼き払った怪異を見送りながら微笑む。
「間に合うかもしれない」
翠霞も頷いた。
「土地が少しずつ息を吹き返してる」
深宵も、人々の笑顔が戻り始めたことを喜んでいた。
雫瑠は言葉こそ少なかったが、剣を抜く回数は確かに減っていた。
世界は、少しずつ良くなっている。
誰もが、そう信じ始めていた。
だが、真響だけは笑わなかった。
夜更け。
貴船の森で一人、静かに酒を口へ運ぶ。
人々から奉納された酒だった。
心を込めて醸された、美しい酒だった。
「……ありがとう」
盃へ向かって、小さく礼を言う。
人々の想いは本物だった。
祈りも、感謝も、偽りではない。
だからこそ苦しかった。
酒を飲み終えた真響は、静かに目を閉じる。
世界中の声が流れ込む。
その願いの数だけ、自分たちは強くなる。
だがその何倍もの絶望が、世界の底で静かに積み重なっていた。
真響はゆっくりと立ち上がる。
風が吹く。その風には、酒の香りよりも濃く、人の涙の匂いが混じっていた。
「まだ希望が足りない……」
その呟きは、自分自身へ向けられたものだった。
信仰が増え力も増えた。
人々は自分たちを神と呼び始めた。
それでも一つの村を救えば、二つの村が壊れる。
百の怪異を祓えば、翌月には百二十の怪異が生まれる。
五柱の力は確かに増している。
なのに世界は、それ以上の速度で崩れようとしていく。
その頃、誰もいない山の岩場で、九尾狐は静かにまたその光景を眺めていた。
五柱の霊威は、崇神の時代より遥かに強い。
人々の信仰も厚いのにそれでも終わらない。
九尾狐は目を閉じ、小さく息を吐いた。
「だから言ったのだ」
責める声ではなかった。
怒りでもない。
ただ、幾度も同じ景色を見てきた者だけが知る、どうしようもない悲しみだった。
「神を信じても、人は救われない」
「人が変わらなければ」
「人は自らの歩みを、律することができないのだ」
その言葉を知る者は、まだ誰もいない。
しかしこの時、五柱の胸にも、初めて同じ問いが芽生え始めていた。
──私たちは、本当に世界を救えているのだろうか。




