第八十三話 第二の春と増え続けるもの
崇神の時代。
神狐は世界を巻き戻した。
疫病に覆われた国は再び息を吹き返し、人々は新しい時代を生き始める。
誰も、その奇跡を覚えてはいなかった。
神狐となって世界を書き換えた五柱も。
巻き戻された数え切れない命も。
そして、その代償も。
ただ一人。
九尾狐だけが、失われた世界を覚えていた。
それから、およそ四百年が過ぎた。
慶雲元年、西暦七〇四年。
日本は再び、大きな転換期を迎えていた。
各地では豊作と凶作が繰り返され、長雨と干ばつが交互に国を襲う。
山では獣が里へ下り、海では魚が姿を消した。
人々は神へ祈り、酒を供え、明日を信じて生きていた。
それでも、この年はまだ誰も気付いていない。
災厄は、いつも静かに始まる。
最初に異変へ気付いたのは深宵だった。
備前国北部、真島郡の山間にある小さな社。
毎日のように人々の願いを受け止めてきた深宵は、その日、一枚の絵馬を見て眉をひそめた。
『家族が、今日も無事でありますように。』
どこにでもある願い。
だが、その文字には、言葉では説明できないほど濃い恐怖が滲んでいた。
翌日には二枚。
その翌日には五枚と増え続ける。
一か月もすると、社に掛けられる絵馬のほとんどが「生き延びたい」という願いへ変わっていた。
「嫌な流れね……。」
深宵は空を見上げる。
風は穏やかで鳥も鳴いている。
山も萌えるように清々しく青い。
それなのに、願いだけが濁っていく。
同じ頃、山背国、紀伊郡では紅沙が祭りの最中に違和感を覚えていた。
人は笑っている。酒も酌み交わしている。
だが、その笑顔が長く続かない。
昨日まで肩を組んで笑っていた者同士が、翌日には米一俵を巡って争い始めるのだ。
祭りが終わるたび、人々の心だけが少しずつ痩せていった。
下総国香取郡では翠霞が、土地の巡りに微かな淀みを感じていた。
本来なら大地へ還るはずの想いが、どこにも流れず留まり始めている。
川は流れている。
風も吹いている。
それでも、人の感情だけが世界に澱となって積み重なっていく。
大倭国、山辺郡では雫瑠が剣を納める回数を増やしていた。
怪異はまだ多くない。
だが、一体を祓えば、数日後には別の場所で二体現れる。
斬っても斬っても終わらない。
まるで、人の心そのものが怪異を生み続けているようだった。
そして真響。
彼女は山背国愛宕郡の森で、一人静かに酒を飲んでいた。
盃を口へ運んだ、その時だった。
蝋梅の香りへ混じって、微かに血の匂いがした。
ほんの一瞬だった。
次の瞬間には消えている。
だが真響は盃を置いた。
「……始まるのか」
誰へ向けた言葉でもなかった。
それは、自分自身へ言い聞かせるような呟きだった。
慶雲四年。
西暦七〇七年。
各地で飢えが広がっていった。
酒蔵は米を失い、神社は供物を失い、人々は祈る余裕さえなくなっていく。
和銅元年。
西暦七〇八年。
朝廷は新しい元号を掲げ、武蔵国から献上された銅を吉兆として「和銅」と改元した。
和同開珎が鋳造され、人々は新しい時代の到来を喜ぶ。
街には希望があった。
未来を信じる笑顔も、確かにあった。
だからこそ五柱は安心してしまう。
「乗り越えられる」
そう思ってしまった。
それが、後に彼女たち自身を最も苦しめる後悔になることを、この時はまだ誰も知らない。
和銅二年。
人の欲は飢えを超え始めた。
春を迎えても、人々の表情は晴れなかった。
各地で続く飢えは、少しずつ人の心を削っていた。
今年は豊作になる。
そう言われ続けながらも天候は安定せず、実った稲は虫に喰われ、山の獣は里へ下り、人々はわずかな食糧を奪い合うようになる。
最初は、小さな争いだった。
井戸へ並ぶ順番。
薪の取り分。
酒蔵へ納める米。
誰もが「これくらいなら」と思っていた。
しかし、その「これくらい」が積み重なるたび、人の心へ小さな亀裂が生まれていく。
その亀裂を、怪異は見逃さなかった。
村の外れでは、隣人を羨んだ男が影を生んだ。
都では、地位を奪われた役人の怨みが人の形を取り始める。
神社では、「助かりたい」という願いが、「あの者だけでも不幸になればいい」という呪いへ変わっていった。
怪異は、人を襲って増えているのではない。
人が、自ら怪異を育てていた。
紅沙は山背国、紀伊郡で、毎日のように怪異を祓っていた。
祭りの夜。酒宴の席。橋の袂。
笑い声が聞こえる場所ほど、人の妬みは濃くなる。
炎のような霊力で怪異を焼き払い、人々の記憶から穢れを拭い去る。
それでも翌日には、別の場所で新たな怪異が生まれる。
「これでは終わらない……」
紅沙は珍しく肩を落とした。
これまでなら、一体を祓えば、その土地は静けさを取り戻していた。
だが今回は違うのだ。
消した数だけ、新しい怪異が生まれる。
まるで誰かが世界中へ種を蒔いているかのようだった。
下総国香取郡では翠霞が、大地の流れを整えていた。
濁った霊脈を浄化し、枯れ始めた森へ命を巡らせる。
浄めた土地には花が咲き、川も澄んでゆく。
だが、人の心だけは戻らない。
一度濁った感情は、土地よりも早く別の場所へ流れ、また新しい怪異を生んでしまう。
「巡りが追いつかない……」
翠霞は初めて、その言葉を口にした。
大倭国、山辺郡では雫瑠が剣を振るい続けていた。
斬る。また斬る。
大きく育った怪異たちは、神気を帯びた一太刀で霧散していく。
しかし、その背後では、討たれた怪異を見ていた人間が恐怖を抱き、その恐怖が新たな怪異を呼び寄せる。
剣では断てないものがある。
雫瑠は、その現実を知り始めていた。
備前国北部、真島郡では深宵の社へ、人々が昼夜を問わず押し寄せていた。
「息子を助けてください」
「病が治りますように」
「どうか今年だけでも飢えませんように」
深宵は一つ一つの願いを受け止める。
誰も見捨てない。
誰一人として追い返さない。
そのたびに願いは彼女の中へ流れ込み、胸の奥へ沈んでいく。
日が沈む頃には、深宵は立っていることさえ辛くなっていた。
それでも翌朝になると、また笑顔で人々を迎える。
「大丈夫。きっと良くなるから」
その言葉を、自分自身へ言い聞かせるように。
そして真響。
彼女は五柱の誰よりも静かに世界を見ていた。
祓うこともできる。
受け止めることもできる。
励ますこともできる。
だが、それらはすべて"結果"だった。
原因は、もっと深い場所にある。
貴船の森で一人酒を口へ運びながら、真響は山の向こうを見つめる。
風に乗って届くのは、数え切れない人々の声だった。
泣く声。怒る声。諦める声。誰かを憎む声。
そして、自分自身を責める声。
そのすべてが、静かに世界へ積み重なっていく。
「人が壊れ始めている……」
その一言が、真響の胸へ重く沈む。
怪異ではない。
怪異を生む人の心が、限界へ近付いている。
それが、それこそが、この災厄の本当の姿だった。
同じ頃。
誰も訪れない山奥で、九尾狐は静かに目を開いた。
遠く離れた各地の怪異たちが見ている景色を、その瞳は一つ残らず映し出している。
紅沙が怪異を祓う姿。
翠霞が土地を癒やす姿。
雫瑠が剣を振るう姿。
深宵が願いを抱え込む姿。
真響が沈黙する姿。
九尾狐は小さく笑った。
その笑みは嘲りではない。
悲しみに近いものだった。
「違う」
静かな声が山へ溶ける。
「お前たちが戦っている相手は、怪異ではないのだ」
風が吹き木々が揺れる。
九尾狐は空を見上げた。
「人は飢えで滅びるのではない」
「絶望で滅びる」
その言葉を聞く者は誰もいない。
だが世界は、その真実を証明するかのように、今日もまた新たな怪異が静かに全国へ根を張り始めていた。
そして、山深い岩場から都を見下ろす一つの影だけが、その未来を知っていた。
九尾狐は目を閉じ、小さく息を吐く。
「また……同じか」
その声には怒りも憎しみもない。
ただ、何百年もの間、同じ光景を見続けてきた者だけが持つ深い諦めが滲んでいた。




