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第八十八話 『神殻』

神殻(かみがら)という存在を知っているか」


神代紫苑の静かな問いに、その場に集められた若い術者たちは息を呑んだ。


神代一族において神降しは、神をその身へ迎え、その御業を一時的に借り受ける秘術である。しかし、それは決して安全な術ではない。


神を降ろすということは、人の器に神を宿すということだ。


器が耐えられなければ、人が壊れる。


神が壊れることはないからだ。


壊れるのは、いつだって人間の側だった。


「神降しに失敗した者は死ぬ――そう思われている」


紫苑は首を横に振った。


「正しくはそうではない」


部屋の空気が静まり返る。


「神降ろしを行った者の人格が砕け、神だけが残る」


その一言で、全員の表情が変わった。


「そして神は還らない。人も戻らない。ただ権能だけが器に残り、暴走を始めるのだ」


神代一族は、それを神殻と呼ぶ。


神ではない。


人でもない。


怪異ですらない。


降ろし損ねた神の権能だけが、終わることなく世界へ漏れ続けさせる存在。


「今回還せなかったのは――豊穣の神」


大型スクリーンへ航空写真が映し出される。


山の斜面を覆う樹海。


その中心から、無数の稲穂が空へ向かって伸びていた。


一本一本が数十メートル。


道路を貫き、電柱へ絡みつき、住宅を押し潰していく。


杉は一時間で百年分の年輪を刻み、蔦は鉄筋コンクリートを割り、苔はアスファルトを土へ戻していた。


「豊穣神に悪意はない」


紫苑は淡々と告げる。


「だからこそ止まらないのだ」


実る。育つ。増える。


それだけを永遠に繰り返す。


人格が失われた今、その神殻には止まるという概念すら残っていないのだった。


「討伐ではない」


紫苑は資料を閉じる。


還神(かえしがみ)を行う」


その言葉に、技術班の責任者が一歩前へ出た。


「祭場の設営、完了しました。指向性スピーカー三百二十基、山全域へ配置済み。ラインアレイ四十八基、無線同期正常。予備電源も確保しています」


「音量設定は」


「最大出力の七十パーセントまで引き上げられます」


紫苑は静かに首を振った。


「音量を上げるな」


技術班が一瞬だけ戸惑う。


「ですが、それでは山全体まで届かないのでは」


紫苑は祭具へ手を添え、穏やかに答えた。


「神へ届けるのに、怒鳴る必要はないのだ」


場が静まり返る。


「調整するのは音量ではない」


紫苑は制御卓の波形を見つめる。


「位相を合わせろ」


技術班の表情が変わる。


「全基、〇・〇一ミリ秒単位で同期します」


「違う」


紫苑は小さく首を振る。


「人を合わせるな」


その言葉の意味を理解した瞬間、責任者は息を呑んだ。


「祝詞を合わせるのですね……」


「そうだ」


千人の神職が一斉に奏上したとき、人は声量ではなく、祈りの重なりによって神へ届く。


現代技術は神を支配するためのものではない。


失われた千人分の祭祀を、もう一度この時代に再現するための器である。


制御卓のモニターには三百二十本の波形が並ぶ。


一本ずつでは意味がない。


すべてが重なったとき、初めて一つの祝詞となる。


紫苑は静かに目を閉じた。


「では、始めよう」


その瞬間、全国へ配備された神代グループ製の祭祀増幅装置が一斉に起動する。


低く澄んだ音が山々を渡り、風が止み、鳥が鳴きやんだ。


古より受け継がれてきた祝詞は、最新の技術を纏いながら、今なお神へ届こうとしていた。

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