第九話 朱印吸い
名刺憑き、酒盗りの影。
二つの件を終えてから、蒼麻は少しだけ自覚し始めていた。
怪異とは、暗い森の奥や、古い井戸の底にだけいるものではない。
帳簿に宿る。
名刺に絡む。
酒の香りに残る。
人が何かを大切にし、あるいは雑に扱い、そこに歪みが生まれた時、怪異は発生し、するりと入り込む。
その日、蒼麻は谷中の自宅で、蓮二に作ってもらった出汁巻きをつまみながら、麻那から届いた資料を見ていた。
件名はこうだった。
神社朱印帳異常事案について
「……また神代事案」っぽいな」
蒼麻は呟いた。
資料には、都内近郊のいくつかの神社で起きている奇妙な現象がまとめられていた。
御朱印を受けた参拝者が、帰宅後に願いごとを忘れる。
朱印帳の墨が、翌朝には少し薄くなっている。
参拝した神社名がまったく思い出せない。
逆に、御朱印を集めたいという欲だけが強くなる。
何度も同じ神社へ行き、御朱印だけを求めるようになる。
被害者の一人は、こう言ったらしい。
――何を祈ったのか思い出せない。
――でも、次の朱印をもらわなければいけない気がする。
蒼麻は画面を閉じた。
「嫌な案件だな」
スマートフォンが震える。
麻那だった。
『お兄ちゃん、資料見た?』
「見た。行きたくない」
『早いね』
「神社案件だろ。どうせ神代一族が絡んでるに決まってる」
電話の向こうで、麻那が少し黙った。
その沈黙だけで、蒼麻は嫌な予感がした。
「麻那」
『うん』
「これ、俺向きってやつか?」
『うん。かなり』
「もう少し遠慮してくれると嬉しい」
『今回は、お兄ちゃんが避けてきたものに近いと思う』
蒼麻は返事をしなかった。
神代一族。
神降し。
神職に関わる家系。
蒼麻は、その言葉の近くで育った。
だが、核心からは遠ざけられ続けてきた。
父は何も教えなかった。
麻那も、必要なこと以外は話さない。
だから蒼麻も、それを都合よく避けるようにしてきた。
酒蔵の手伝い。
小料理屋の手伝い。
全国の酒巡り。
神様より酒。
祝詞より出汁。
社よりカウンター。
その方が、ずっと楽だった。
「場所は?」
『下谷の古い神社。今は小さいけど、神代一族とも昔から縁がある』
「縁、ね」
『お兄ちゃん』
麻那の声が少し柔らかくなる。
『無理に踏み込まなくていい。でも、見てきてほしいの』
「また見るだけか」
『今回は、見ればたぶん分かる』
「それが毎回困るんだよ」
蒼麻はため息をついてから答える。
「分かった。行くよ」
『ありがとう』
「飲み代もよろしくな」
『神社案件だから出ないよ』
無言になる蒼麻。
『お賽銭は経費で落としていいよ』
「微妙ににありがたいような、それは間違ってるような」
電話を切ったあと、蒼麻はしばらく天井を見上げた。
自宅の古い木造アパートは、少し軋む。
台所の棚には、全国で買った小さな酒器。
本棚には酒造り、民俗、料理の本。
その奥に、一冊だけ古い本がある。
父が昔、置いていったものだ。
神代家の祝詞の断片。
蒼麻はそれを開いたことがない。
開けば、何かが変わる気がしていた。
そして今、その“変わる気配”が、玄関の隙間から入る夜風のように、すぐそばまで来ていた。
翌日。
蒼麻は下谷の小さな神社を訪れた。
街中に溶け込むように佇む神社だった。
鳥居は古びている。
境内は広くないが手入れはしっかりされていた。
社号標には、采女稲荷社とある。
采女とは古代日本において天皇や皇后に食事の給仕や身の回りの世話などの雑務をこなす女官の事である。
「稲荷ね」
稲荷信仰は秦氏が持ち込んだものだと民俗学の本で読んだ事がある。
蒼麻は少し眉を上げた。
狐。
最近、やたら縁がある。
境内には、御朱印を求める参拝者が数人いた。
手水舎の水音。
社務所の窓口。
朱印帳を開く音。
平和な光景のはずだった。
だが、蒼麻には見えていた。
朱印帳から、細い赤黒い糸が伸びている。
それは参拝者の指先へ絡み、胸元へ入り、そこから何かを吸い上げている。
願い。
祈り。
名前ほど重くはない。
けれど、もっと柔らかいもの。
人が神前で、ほんの一瞬、本気になる時の気配。
それが、朱印の墨に吸われている。
「……趣味が悪いな」
蒼麻が呟いた時、あの香りがした。
甘く澄んだ、冬の花の香り。
「また来たのか」
蒼麻が振り返ると、狛犬の陰に真響が立っていた。
黒い着物。
琥珀の瞳。
静かな獣のような気配。
境内にいるとまったく違和感がない。
むしろ、神社の影の方が彼女に合わせているように感じた。
「稲荷の社で狐を見て驚くな」
「自分で狐っていうんだな」
「否定しても無駄であろうが」
「まあな」
真響は社務所の方を見た。
「朱印を集める者が増えた」
「悪いことか?」
「悪くはない。だが、祈りを忘れて印だけを求めれば、印が祈りを喰う」
蒼麻は朱印帳を見た。
「名前は朱印吸いってところか」
「人間がそう呼ぶなら、それでよい」
「お前は何て呼ぶ」
真響は少し考えた。
「空の祈り」
その言い方に、蒼麻は少し黙った。
空の祈り。
たしかに、ここにあるのは悪意ではない。
むしろ、空っぽになった祈りだ。
参拝者の一人が社務所で朱印帳を差し出した。
「限定御朱印、まだありますか?」
声が少し上ずっている。
「この前もいただいたんですけど、今日の日付のものも欲しくて」
社務所の女性が困った顔をする。
その瞬間、朱印帳の墨がわずかに濃くなった。
赤黒い糸が、参拝者の胸元から何かを吸った。
女性の目がぼんやりする。
「……私、何をお願いしたんだっけ」
蒼麻は一歩前へ出た。
だが、真響が袖を引いた。
「待て」
「なんで」
「祓えば、吸われた祈りも散るぞ」
「じゃあどうする」
「戻す」
蒼麻は苦笑した。
「最近、そればっかりだな」
「お前の役目に近い」
その言葉に、蒼麻の胸の奥が微かに締め付けられる気がした。
役目。
嫌な言葉だった。
父が言いそうな言葉。
神代一族が好みそうな言葉。
「俺の役目なんて、誰が勝手に決めるんだよ」
真響は蒼麻を見た。
「少なくとも、私ではないぞ」
「だろうね」
蒼麻は深く息を吸った。
朱印帳から伸びる糸を見る。
帳簿憑きの時は、余白に線を引いた。
名刺憑きの時は、肩書きの上書きを剥がした。
酒盗りの影の時は、香りが帰る場所へ戻した。
今回は、祈り。
人が神前に置いたものを、本人へ返す。
そのためには。
「神前に立つしかないか」
蒼麻は拝殿へ向かった。
賽銭を入れる。
鈴を鳴らす。
二礼。
二拍手。
その瞬間、境内の空気が変わった。
風が止まる。
社務所の音も、参拝者の足音もふっと遠くなる。
目を閉じると蒼麻の耳の奥に、古い声が響いた。
――神代。
知らない声だった。
だが、どこか血の奥で聞いたことがあるような声。
蒼麻は目を閉じた。
胸の奥で、封じられていた何かが、ほんの少しだけ揺れる。
熱い。
だが、火ではない。
光。
いや、光に近いもの。
神前に立つ身体が、自分のものではないような感覚。
背後で、真響の声がした。
「蒼麻。飲まれるなよ」
「……分かってる」
「分かっていなかった声だ」
「分かってないけど、やるよ」
蒼麻は目を開けた。
視界が変わっていた。
朱印帳から伸びる糸が、はっきり見える。
糸は社務所の奥へ集まっている。
そこに、小さな怪異がいた。
朱と黒い墨が混ざったような形。
狐にも、文字のようにも見える。
それは朱印帳の中へ潜り込み、墨を舐め、祈りを吸っている。
悪意は感じられない。
ただ、空腹なのだ。
祈りの形だけが増え、中身が薄くなった場所で、“それ”は生まれた。
蒼麻は早足で社務所へ近づいた。
社務所の女性が驚く。
「すみません、どうかなさいましたか……」
「少しだけ、朱印帳を見せてもらえませんか」
女性は戸惑ったが、蒼麻の目を見て、なぜか逆らえなかった。
参拝者の朱印帳が差し出される。
蒼麻は開いた。
御朱印は美しかった。
朱の印。
墨書きの社名。
日付。
だが、その奥が“空っぽ”になっている。
蒼麻は赤ペンを取り出しかけて、止まった。
違う。
ここで赤を入れるのは違う。
神前のものに、自分の線を勝手に引いてはいけない。
蒼麻はポケットから麻那の札を出した。
それも違う気がした。
真響が静かに言った。
「書くな。唱えろ」
「いったい何を?」
「お前の血が知っている」
嫌な言い方だ。
だが、否定はできない。
蒼麻は、ほとんど無意識に口を開いていた。
「祈りは、印にあらず」
言葉が出た。
自分の言葉ではない。
けれど、自分の声だった。
「印は、祈りの証にして、祈りそのものにあらず」
境内の空気が震える。
朱印帳の墨が、じわりと動いた。
蒼麻は続ける。
「願いは、集むるものにあらず。置き、返り、また生くるものなり」
“朱印吸い”が、社務所の奥から姿を現した。
小さい。
だが、びっしりと御朱印の文字を背負っている。
それが、蒼麻を視た。
――もっと。
声は幼い。
――もっと、印を。
蒼麻は静かに言った。
「印じゃない。祈りを食ってるんだろ」
怪異が震える。
「でも、お前が食ったら、その人は何を願ったか忘れるんだよ」
――空だった。
――印だけだった。
――だからしかたなくそれを食べた。
「空でも、持ち主に返す」
蒼麻の胸の奥が、さらに熱くなる。
神降し。
麻那が隠している言葉が、脳裏をよぎった。
神を降ろす。
神の力を身に宿す。
今のこれは、その片鱗なのか。
それとも、封じられているものが少し漏れ始めているのか。
分からない。
ただ、言葉が出る。
「名を返せ。願いを返せ。印は印へ、祈りは人へ」
朱印帳の墨が一斉に光った。
参拝者たちが、はっと息を呑む。
「……思い出した」
さっきの女性が呟いた。
「私、母の病気がよくなるようにって」
別の男性が、朱印帳を胸に抱える。
「転職がうまくいきますように、って……そうだ」
社務所の空気が少しずつ澄んでいく。
朱印吸いの背負っていた文字が剥がれ、持ち主の胸元へ戻っていく。
怪異は小さくなった。
最後には、ただの墨の染みのようになって、朱印帳の余白に残る。
蒼麻はそれを見下ろした。
祓うか。
残すか。
真響が横に立ち口を開く
「どうするんだ」
「こいつ、悪いやつじゃないと思う」
「そうだな」
「でも、放っておくとまた人祈りを食うだろう」
「ならば、役目を与えればよい」
蒼麻は真響を見た。
「役目?」
真響は社務所の奥を示した。
「空の祈りを食うのではなく、空になりかけた祈りを知らせるものにする」
蒼麻は少し考えた。
「……御朱印を受ける前に、ちゃんと祈れって知らせる墨の染み?」
「人間らしく言えばな」
「それ、いい考えだな」
蒼麻は社務所の女性へ向き直った。
「この神社、御朱印を受け取る前に参拝を促す札を置いた方がいいです」
女性はまだ混乱していたが、頷いた。
「それと、これ」
蒼麻は朱印帳の余白に残った小さな墨染みを見た。
「消さないでください。これがたぶん、注意してくれるものになります」
「注意、ですか」
「人の祈りが空っぽになりかけた時に」
真響が小さく笑った。
「曖昧な助言だな」
「専門外だからな」
「そろそろ専門にしたらどうだ」
「嫌だ」
そう答えた瞬間、拝殿の奥から爽やかな風が流れるように吹いてくる。
蒼麻の胸の熱が、すっと引いていく。
足元が少し揺れる。
一瞬で真響が、倒れかけた蒼麻の腕を掴んでいた。
「ほら見ろ」
「……何が」
「慣れぬ力を使うからだ」
蒼麻は苦笑した。
「支えてくれるんだな」
真響はすぐに手を離した。
「倒れられると邪魔だからな」
「はいはい」
だが、その指の冷たさが、妙に現実に戻してくれた。
夕方。蒼麻は境内のベンチに座っていた。
社務所には、急ごしらえの札が置かれている。
“御朱印は、参拝の証です。
まずは神前にて、心をお納めください”
社務所の女性が丁寧に頭を下げてくれた。
蒼麻は「いえ」とだけ返した。
真響は、少し離れた狐像の前に立っている。
「なあ、真響」
「何だ」
「さっきの、俺は何をしたんだ」
真響は振り返らなかった。
「神職の真似事じゃないか」
「あれ、真似事で済むか?」
「済まぬだろうな」
蒼麻はため息をついた。
「やっぱりそうだよな」
「お前の中には、“神を降ろす器”がある」
蒼麻は黙った。
ついに、その言葉が出た。
「知ってたのか」
「見れば分かるぞ」
「便利な目を持ってるな」
「お前ほど厄介なものではないぞ」
真響は狐像に視線を向けたまま言う。
「だが、妙なのだ。“器”があるのに、“蓋”をされている。人の手でな」
蒼麻の喉が、少し乾いていく。
父の顔が浮かぶ。
何も教えなかった父。
いつも、蒼麻を見る時だけ、何かを測るような目をしていた父。
「……父さんか」
真響は答えない。
否定しない。
それが答えだった。
蒼麻は空を見た。
夕暮れの光が、社殿の屋根を淡く染めはじめている。
「麻那も知ってるよな」
「おそらくな」
「だよな」
怒りは不思議と湧かなかった。
代わりに、胸の奥が重い。
隠されていたことへの苛立ち。
守られていたのかもしれないという理解。
それでも、何も知らされてこなかった寂しさ。
全部が混ざっている。
真響が隣へ来た。
「知りたいのか」
蒼麻は少し笑った。
「知りたくないって言ったら?」
「嘘だな」
「そうだな」
しばらく沈黙があった。
蒼麻は言った。
「でも、今すぐ全部はいい」
真響が蒼麻を見る。
「なぜ」
「一気に知ったら、酒がまずくなりそうだ」
真響は呆れたように目を細めた。
「お前はまた酒か」
「それは大事だろ」
「大事だな」
そこで即答するあたりが、真響らしかった。
蒼麻は少し笑った。
「とりあえず、今日は和灯に戻る」
「逃げるのか」
「帰るんだよ」
真響は少し黙った。
そして、静かに言った。
「帰る場所があるなら、帰るがよい」
その声が、いつもより少しだけ柔らかかった。
蒼麻は真響を見た。
「お前も来るか」
「なぜ」
「蓮二の店、悪くないだろ」
真響は答えない。
ただ、蝋梅の香りが少しだけ濃くなった気がした。
蒼麻は笑った。
「来るなら来い。酒は旨いのが揃ってる」
「肴が弱ければ帰る」
「蓮二に言っとく」
二人は鳥居をくぐった。礼をして社を後にする。
遠くで、社務所の鈴が鳴るのが小さく聞こえた。
朱印帳の墨染みは、もう怪異ではない。
“空の祈り”を食うものから、“祈りの空白”を知らせるものへ。
蒼麻はまた一つ、何かを戻した。
だがその代わりに、自分の中の封印が、ほんの少しだけ緩んだことにも気づいていた。
神代蒼麻。
“神を降ろす器”
だが今の彼に分かるのは、それが恐ろしいほど重い言葉だということだけだった。
そしてその重さを、今はまだ酒で和らげておきたかった。




