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第十話 御神酒腐らせ

朱印吸いの件から数日後、麻那から連絡が入った。


『お兄ちゃん、今度は神社で御神酒が腐る案件』


蒼麻は、和灯のカウンターで盃を持ったまま固まった。


「……なんだって?酒を?」


『うん』


「神前の?」


『うん』


「一体なんでそんな罰当たりなことが起こるんだ」


『怪異か、人間か、あるいは両方が原因』


蒼麻は盃を置いた。


「行く」


『今日は早いね』


「酒に罪を着せるやつは許せない」


電話の向こうで、麻那が少し笑った。


『お兄ちゃん向きだと思った』


「今回ばかりは否定しない」


問題の神社は、都心から少し離れた古社だった。


名は、五社守稲荷(ごしゃもりいなり)


古くは五つの小祠をまとめて祀った社だという。

神代一族とも古い縁があり、いまも祭礼の一部に関わっているらしい。


境内に入った瞬間、蒼麻は眉を寄せた。


清められている。

掃除も行き届いている。

神職の所作も悪くない。


なのに、神前の空気だけが妙に重い。


社務所から宮司が出てきた。


「神代様ですね」


「神代蒼麻です。御神酒(おみき)を見せていただけますか」


「はい、供えても供えても酒がすぐ腐ってしまうのです」


案内された拝殿の奥に、白い徳利が五本並んでいた。


覗いて見るとそのうち一本の中は、黒く淀んでいる。

一本は、白く濁っている。

一本は、赤みを帯びて、錆を思わせる色になっている。

一本は、青緑に澄みすぎて酒が入っているのかよくわからない。

一本は、黄土色の澱が重く沈んでいる。


蒼麻は息を呑んだ。


「……腐ってる、というより」


背後で、蝋梅の香りがした。


振り返らなくても分かった。


「五つ、揃いかけている」


真響の声だった。


蒼麻は振り向く。


「五つ?」


初めから居たかのように現れた真響は徳利を見つめたまま、答えない。


ただ、その表情はいつもよりずっと硬かった。


蒼麻は徳利に近づいた。


「酒が悪いんじゃないな」


宮司が戸惑う。


「しかし、納められた時は確かにすべて澄んでいたのです」


「分かっています」


蒼麻は低く言った。


「濁っているのは、酒じゃない」


真響が静かに続ける。


「捧げる側だ」


その言葉で、宮司の顔が強張った。


話を聞くと、最近この社では祈願が増えていた。


商売繁盛。

合格祈願。

病気平癒。

縁結び。

投資成功。

政争勝利。

訴訟勝利。


願いは悪くない。


けれど、願いの奥に混じるものが問題だった。


勝ちたい。

奪いたい。

相手を落としたい。

自分だけ助かりたい。


神前へ置かれた酒は、それらの願いを受け止めすぎていた。


蒼麻は五本の徳利を見た。


「御神酒は、願いのゴミ箱じゃない」


真響が少しだけ目を細めた。


「今日は強いな」


「酒の話だからだ」


「分かりやすい」


蒼麻は苦笑しかけたが、すぐに表情を戻した。


五本の徳利の表面が、同時に揺れた。


黒。

白。

朱。

蒼。

黄。


その色が、薄い霧となって立ち上がる。


そして一瞬、蒼麻は見た。


黒い狐が、濁りを受け止めていた。

白い狐が、それを洗い流そうとしていた。

朱い狐が、怒りのように燃えていた。

蒼い狐が、流れを戻そうとしていた。

黄色い狐が、重い沈黙で封じようとしていた。


五つの狐影。


その中心に、何か巨大な輪郭が生まれかける。


蒼麻の胸の奥が熱くなった。


「何だ、今の――」


真響が強く腕を掴んだ。


「見るな」


「真響」


「今のお前が見るものではない」


「でも」


「見るなと言っている」


その声には、怒りよりも恐れがあった。


蒼麻は息を呑む。


真響が恐れている。


それだけで、この五つの狐影がただの怪異ではないことが分かった。


御神酒の濁りは、徳利の中だけで終わらなかった。


拝殿の床に、五色の染みが広がる。


黒は、願いを抱え込みすぎて沈む。

白は、洗おうとして薄くなる。

朱は、怒りで熱を持つ。

蒼は、流れを作ろうとして渦巻く。

黄は、すべてを封じ込めようとして重く固まる。


五つが互いに干渉し、神前の空気が歪んでいく。


宮司が震えた声で言った。


「これは、いったい何が起きているんですか」


蒼麻は拝殿の中央へ進んだ。


「まず、酒を責めるのをやめることです」


「え」


「腐ったのは酒じゃない。願いの置き方の方です」


「なにを言ってるんです」


真響の脇に黒い狐火が灯る。


「祓うな。整えろ」


「分かってる」


蒼麻は目を閉じた。


朱印吸いの時に出た言葉を思い出す。


祈りは、印にあらず。

印は、祈りの証。


なら、御神酒は何か。


酒は、捧げるもの。

神と人の間に置くもの。

願いを押しつけるためではなく、場を清め、縁を結ぶためのもの。


蒼麻はまた無意識に、そして静かに口を開いた。


「酒は、穢れを隠すためのものにあらず」


声が、拝殿に響いた。


自分の声なのに、少し違う。


「酒は、願いを押し流すためのものにあらず」


胸の奥が熱くなる。


封じられた何かが、また少しだけ“蓋”を押し上げる。


真響が横で低く言った。


「飲まれるなよ」


「……分かってる」


「分かっていない時の声だ」


「うるさい」


蒼麻は目を閉じて続けた。


「捧ぐるものは、己が願いの重さを知れ。

神前に置く前に、まず己の濁りを見よ」


五色の染みが震える。


黒い徳利から、ごぽっと濁った声がした。


――受け止めきれない。


白い徳利から、細い声がした。


――洗っても、また汚れてしまう。


朱い徳利から、怒りが噴き上がる。


――奪う願いを焼いてやる。


蒼い徳利から、澄んだ水音のような声。


――流れを戻してください。


黄色い徳利から、重い声。


――沈めよ。封じよ。


蒼麻は目を開けた。


「違う」


五つの気配が止まる。


「どれか一つで解決する話じゃない」


真響がわずかに蒼麻を見る。


「……」


「受け止めるだけでも、洗うだけでも、焼くだけでも、流すだけでも、封じるだけでも駄目だ」


蒼麻は五本の徳利の前に膝をついた。


「まず、返す」


「誰に」


真響が問う。


「願った本人に」


蒼麻は宮司を見た。


「祈願者には改めて祈ってもらってください。願いを変えろとは言わない。でも、誰かを落とす願い、奪う願い、自分だけ助かる願いは、神前へ置く前に本人へ返す。それをお話してください」


宮司は深く頭を下げた。


「承知しました」


「それと、この御神酒は捨てない」


宮司が驚く。


「ですが、これをこのまま神前に置き続けるのは」


「このままではありません。鎮めます」


蒼麻は五本の徳利を見た。


「五つに分けて受けたから歪んだ。なら、元の一つの酒として戻すんじゃなく、それぞれの役目を分け直します」


真響が少しだけ笑った。


「人間にしては、悪くない」


「また少しって言うんだろ?」


「今回は、少しよりは上だ」


「珍しいな」


蒼麻は笑いそうになったが、すぐに五本の徳利へ向き直った。


御神酒を新しい器へ移す。


混ぜない。


黒は受け止めるために。

白は清めるために。

朱は焼き切るために。

蒼は流すために。

黄は鎮めるために。


それぞれを、祈願の場ではなく、境内の五箇所へ置いた。


水場。

拝殿前。

古い石灯籠。

神木の根元。

社の裏手の土。


五つの濁りは、少しずつ薄れていく。


そして最後に、神前には新しい澄んだ酒が供えられた。


宮司が祝詞を上げる。


その声に、蒼麻の胸の奥がまた微かに反応した。


だが今度は、蒼麻は深く息を吐き、“蓋”をするように意識を落ち着けた。


まだ、ひらけない。


まだ、自分は知らなすぎる。


夕方、境内には静けさが戻っていた。


真響は鳥居の脇に立っていた。


蒼麻は隣に並んで唐突に訊いた。


「あの五つの狐は何なんだ」


真響はすぐには答えなかった。


風が吹く。


蝋梅の香りが、薄く流れる。


「揃ってはならぬものだ」


「仲間じゃないのか」


「仲間だ」


真響は静かに言った。


「揃うとダメな仲間ってなんだよ」


「だから、厄介なのだ」


蒼麻は横を見る。


真響の表情は読めない。


けれど、いつもの冷たさの奥に、痛みのようなものがあった。


「お前も、その一つなのか」


真響は答えない。


だが、沈黙は否定ではなかった。


蒼麻は空を見上げた。


黒狐。

白狐。

朱狐。

蒼狐。

黄狐。


五つ揃ってはならないもの。


それが何を意味するのか、まだ分からない。


けれど、真響が恐れた理由だけは、少し分かった気がした。


「真響」


「何だ」


「酒、飲みに行くか」


真響が蒼麻を見る。


「この流れで?」


「この流れだからだ」


「理由は」


「御神酒に対して失礼なものを見た。その後はちゃんとした酒で口直ししたい」


真響は呆れたように目を細めた。


だが、ほんの少しだけ口元が緩んだ。


「悪くない考えだ」


蒼麻は笑った。


「褒めてる?」


「今は褒めている」


「珍しいな」


「調子に乗れば撤回するが」


二人は鳥居をくぐった。


背後で、五社守稲荷の鈴が小さく鳴る。


それは警告にも、見送りにも聞こえた。


蒼麻はまだ知らない。


五つの狐が揃う時、世界は一度、終わりを選ぶことを。


そして真響だけが、その終わりを何度も夢に見ていることを。

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