第十一話 絵馬返し
御神酒腐らせの件から一週間。
麻那から届いた資料の件名を見て、蒼麻は露骨に顔をしかめた。
絵馬返し事案について
「……神社案件、続くな」
画面には、いくつもの報告が並んでいた。
合格祈願を書いた受験生の周囲で、ライバルだけが体調を崩す。
恋愛成就を書いた女性の相手が、長年の恋人と突然別れる。
出世祈願を書いた会社員の上司が、不自然な失脚をする。
願いは叶っている。
だが、叶い方が歪んでいた。
その時、スマートフォンが震えた。
『お兄ちゃん、見た?』
「見た。嫌なやつだな」
『うん。願いを返してくる怪異みたい』
「返すっていうより、曲げて叶えてるだろ」
『だから絵馬返し。願いをそのまま本人へ返すんじゃなくて、願いの裏側を現実に返してくる』
蒼麻はため息をついた。
「場所は?」
『五社守稲荷の近くにある、古い末社。いまは縁結びと勝負運で少し有名になってる』
「また稲荷か」
『最近、狐づいてるね』
「笑いごとじゃない」
電話の向こうで、麻那は少し黙った。
『今回は、願った本人も完全な被害者とは言い切れないかもしれない』
「だろうな」
蒼麻は資料を見下ろした。
願いは、綺麗な言葉で書かれている。
合格できますように。
あの人と結ばれますように。
出世できますように。
だが、その裏にあるものは、もっと生々しい。
あいつより上に行きたい。
あの人の隣にいる相手が邪魔。
自分を認めない上司が消えればいい。
願いと呪いは、紙一枚の裏表だ。
蒼麻は鞄を取った。
「行ってくる」
『気をつけてね。絵馬には触りすぎないで』
「触ったら?」
『願いの裏側を見るかも』
「また最悪じゃないか」
『うん。だから、お兄ちゃん向き』
「その理屈は毎回納得できない」
電話を切ると、窓の外からかすかに蝋梅の香りがした。
蒼麻は苦笑する。
「来る気か、狐」
返事はなかった。
だが、来るのだろう。
最近はもう、そういうものだと思い始めていた。
末社は、細い坂の上にあった。
小さな鳥居。
古い社。
そして、境内の横にびっしりと掛けられた絵馬。
ぱっと見は、普通の光景だった。
だが蒼麻には見えた。
絵馬の裏側から、細い黒い根のようなものが伸びている。
それは地面に潜り、別の絵馬へ絡み、さらに参拝者たちの影へつながっていた。
「これはまた、見事に絡まってるな」
「願いは絡むものだ」
背後から真響の声がした。
蒼麻は振り返らずに言う。
「やっぱり来たか」
「狐の社で妙なことが起きている。見ぬふりはできぬ」
「真面目だよな」
「酒が関わっていない分、お前よりはな」
「ひどい言い方だな」
真響は絵馬掛けを見た。
「ひどいのは、あれだ」
蒼麻も視線を戻す。
一枚の絵馬が、かたかたと揺れていた。
そこには、可愛らしい丸い文字でこう書かれている。
第一志望に合格できますように。
しかし裏側から滲み出している声は違った。
――あいつが落ちればいい。
蒼麻は目を細めた。
「……きついな」
「人間の願いは、だいたいきついぞ」
「容赦ないな」
「事実だからな」
別の絵馬が揺れている。
彼と結ばれますように。
裏側から聞こえる。
――あの女さえいなければ私がそばに居られるのに。
さらに別の絵馬。
昇進できますように。
――あのくそ上司が事故にでも遭って消えればいい。
蒼麻は息を吐いた。
「願いの裏側を拾ってるのか」
「そうだ」
真響は淡々と言う。
「表の願いではなく、奥に沈んだ呪いを拾い、それを叶えている」
「それで絵馬返しか」
「絵馬は本来、神に願いを預けるもの。だが、ここでは願いの裏が返っている」
その時、絵馬掛けの一番奥で、何かが動いた。
木片がこすれる音。
かた、かた、かた。
何十枚もの絵馬が、一斉に揺れ始める。
そして、その隙間から、小さな手が出た。
木のように乾いた指。
土で汚れた爪。
絵馬の紐を絡めた小さな怪異。
顔はない。
ただ、額のあたりに赤い願い文字が浮かんでいる。
――叶えてやったぞ。
声がした。
――願っただろう。
蒼麻は一歩前に出た。
「違う」
怪異が首を傾げる。
――違わない。
――落ちろと願った。
――消えろと願った。
――奪いたいと願った。
「思っただけだ」
――思った。
――ならばそれは願いだ。
蒼麻は言葉に詰まった。
否定しきれない。
人は、綺麗な願いだけでできていない。
誰かを羨む。
妬む。
邪魔だと思う。
自分だけが救われたいと思う。
それを一度も抱かない人間の方が、きっと少ないと思う。
だが。
「思うことと、神前に預けることは違う」
蒼麻の胸の奥がまた熱くなる。
朱印吸い、御神酒腐らせの時と同じ。
神職の血族。
神降しの器。
父が封じた何か。
それが、また少しだけ揺れているのを感じる。
真響が低く言う。
「蒼麻、何度も言うが飲まれるなよ」
「分かってる」
「今回は、願いの裏だ。お前の裏も見るぞ」
「……それは嫌だな」
蒼麻は絵馬掛けに近づいた。
怪異の体から、無数の声が漏れる。
――勝ちたい。
――愛されたい。
――認められたい。
――見返したい。
――許せない。
――消えろ。
それらは全部、人の声だった。
蒼麻自身にも覚えがある。
誰かを羨んだことがないわけではない。
麻那を誇らしく思いながら、遠く感じたこともある。
神代一族の中で自分だけ何も知らされないことに、苛立たなかったわけではない。
「……ああ、嫌な鏡だな」
蒼麻は呟いた。
怪異が笑うように震えた。
――お前も願え。
――隠した者が消えればいいと。
――知らぬままでいたかったと。
――妹だけが知っているのは許せないと。
蒼麻の喉が乾いた。
麻那の顔が浮かぶ。
父・麻臣の顔が浮かぶ。
初めから隠されている。
ずっと守られている。
誰かに利用されているのかもしれない。
その全部が、胸の奥で黒く混ざりはじめる。
真響の手が、蒼麻の手首を掴んだ。
冷たい指。
「戻れ」
その一言で、蒼麻は息を吸った。
「……助かった」
「礼はあとでよい」
「礼を取るのか」
「酒でな」
「高くつきそうだな」
怪異が揺れる。
――なぜ拒む。
――願いを叶える。
――裏も表も同じものだ。
蒼麻は首を振った。
「違う」
声が、少しずつ変わる。
自分の声であり、どこか古い響きを含む声。
「願いは、己の内より出づるもの。
されど、他を呪いて叶うものを、願いとは呼ばず」
絵馬掛けが震えた。
真響が目を細める。
蒼麻は続けた。
「妬みは妬み。怒りは怒り。憎しみは憎しみ。
それを隠して神前に預けるな」
怪異が後ずさる。
――では、どうすればいい。
――黒いものは、どこへゆく。
蒼麻は少し黙った。
その問いは、怪異だけのものではない。
人間の中にある黒いもの。
祈りになりきれない願い。
呪いになりかけた本音。
それをただ否定しても、たぶん消えない。
真響が静かに言った。
「認めて、持ち帰らせろ」
蒼麻は頷いた。
「そうだな」
彼は絵馬の一枚を手に取った。
表には綺麗な願い。
裏には黒い呪い。
蒼麻は赤ペンを取り出した。
だが、願いも呪いも消さない。
絵馬の裏側に、小さく線を引く。
区切るように。
混ざらないように。
「願いは神前へ。呪いは己へ返る」
赤い線が光る。
「自分の黒さは、自分で見つめるんだ。人にぶつけるな。神に押しつけるな」
一枚の絵馬から、黒い根がほどけた。
続けて、他の絵馬も揺れる。
表と裏が、切り分けられていく。
祈りは祈りとして残る。
呪いは持ち主の影へ戻る。
それは罰ではない。
ただ、自分の中にあったものを、自分で思い出すだけだ。
参拝者の何人かが、境内の外で立ち止まった。
「……私、なんであんなこと思ったんだろう」
「合格したいだけだったのに」
「違う。あの人を奪いたかったんじゃなくて、寂しかったんだ」
声が戻っていく。
痛みも戻っていく。
だが、痛みが戻るということは、現実へ帰るということでもあった。
怪異は小さくなった。
絵馬の紐をまとった体が、ぽろぽろと崩れていく。
――叶えたのに。
蒼麻は静かに言った。
「叶え方が悪かったんだよ」
――願いを聞いたのに。
「裏だけな」
――裏も人だ。
「そうだな」
蒼麻は怪異を見下ろした。
「だから、なかったことにはしない。でも、勝手に叶えるな」
怪異はしばらく震えていた。
やがて、小さな木片のようになって、絵馬掛けの根元に落ちた。
真響が言う。
「祓わぬのか」
「祓ったら、またどこかで出ると思う」
「ではどうする?」
蒼麻は宮司に声をかけた。
事情をすべて話せるわけではない。
ただ、こう提案した。
「ここに、もう一つ掛け場所を作ってください」
「もう一つ?」
「願いを書く絵馬と、心を整理するための札を分けるんです。誰かを呪いたくなるほど苦しいなら、それを神前に投げる前に、自分で読む場所を作る」
宮司は黙って聞いていた。
「願いを綺麗にしろということではありません。ただ、願いと呪いを混ぜたまま掛けると、たぶんまた歪みます」
真響が小さく言う。
「それが現実的な落とし所だな」
蒼麻は横目で見る。
「今日も褒めてくれてる?」
「褒めている」
「素直に褒めてくれることもあるのか」
「撤回するぞ」
「すみませんでした」
真響は少しだけ口元を緩めた。
夕方。
境内の空気は、少し軽くなっていた。
絵馬掛けの前には、仮の木箱が置かれた。
“心願札
人に見せられない思いは、こちらへ。後日お焚き上げいたします”
完全な解決ではない。
でも、願いと呪いを混ぜたまま神前へ押しつけるよりは、ずっといいと思った。
蒼麻は鳥居の外で足を止めた。
「なあ、真響」
「何だ」
「俺にもあったよ」
「何が」
「裏」
真響は蒼麻を見る。
蒼麻は空を見上げた。
「妹が何か知ってるのに言わないこととか、父さんが俺に何かをしたこととか。納得してるふりして、けっこうイラついてる」
「それが当然のことだ」
その返事があまりに自然で、蒼麻は少し笑った。
「そこは否定しないんだな」
「怒りを持つことは悪ではない。怒りを神に投げ、他人を裂かせるのが悪いことだ」
「厳しいけど、その通りだな」
真響は静かに言った。
「お前の裏も、お前のものだ。捨てたふりをするな」
蒼麻は黙った。
その言葉は、思ったより深く刺さったからだ。
「……覚えとくよ」
「軽いぞ」
「重く言うと、酒がまずくなるだろ」
「また酒か」
「また酒だよ」
真響は呆れたように目を細めた。
だが、その表情は少し柔らかい。
蒼麻は歩き出した。
「和灯、行くか」
「肴はなにがある?」
「蓮二に任せる」
「なら行くとするか」
「信頼してるな」
「和灯は良い店だ」
「俺は?」
真響は少しだけ考えた。
「少しは」
蒼麻は思わず笑った。
「お、進歩した」
二人は並んで坂を下りた。
背後で、絵馬が一枚だけ、かたりと揺れた。
表には願い。
裏には黒い本音。
どちらも人のものだ。
蒼麻は、それを消さなかった。
ただ、混ざらないように線を引いた。
それが今の自分にできる、精一杯の祓いだったから。




