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第十二話 株喰らい

蒼麻は、珍しく朝から麻那の会社に呼び出されていた。


日本橋兜町。

金融と情報と欲望が、見えない血管のように走る街。


神代商工会調査機構の会議室に通されると、そこには麻那だけでなく、数人の男女が待っていた。


どの人物も、服装は控えめだ。

だが、空気が重い。


普通の会社員ではない。


「お兄ちゃん、来てくれてありがとう」


麻那はいつものように笑ったが、その表情には仕事の緊張があった。


蒼麻は椅子に座りながら、周囲を見た。


「今日はなんだかずいぶんと物々しいな」


「神代系列の企業が複数絡んでる」


「系列?」


麻那はタブレットを操作した。


画面には、いくつもの企業名が並ぶ。


神代不動産開発。

神代物流。

神代医療ホールディングス。

神代資源。

神代情報通信。

神代酒造流通。


最後の名前を見て、蒼麻は少しだけ眉を上げた。


「酒にも絡んでるのか」


「そこにだけ反応しないで」


「重要だろ」


「重要だけど、今は違う」


麻那は画面を切り替えた。


株価チャートが表示される。


赤と青の線。

ローソク足。

出来高。

数字の列。


蒼麻は渋い顔をした。


「酒の発酵なら待てるけど、数字の発酵は怖いな。まったく分からん」


麻那が真顔で頷いた。


「それ、意外と本質だよ」


「冗談だったんだが」


「市場って、人の期待と不安が発酵して育つ場所だから」


会議室の一人が口を開いた。


「ここ数日、神代系列銘柄の一部が不自然に動いています。材料がないのに買われ、上がった瞬間に急落する。関係者の判断も妙に歪んでいる」


別の男が続けた。


「売買システム上の異常はありません。しかし、画面に張り付いて見ている者ほど判断が狂うのです」


「張り付いて見ている者ほど、ですか」


隣で麻那が頷く。


「チャートを見ると、買いたくなる。あるいは、売らなきゃいけない気がする。感情が煽られるの」


「欲と恐怖か」


「うん」


蒼麻は画面を見た。


赤い陽線が伸びる。

次に、黒く沈むような陰線。

数字がちらちらと脈打っている。


普通ならただのグラフだ。


だが蒼麻には、そこに何かが見えた。


赤い線が、舌のように伸びている。

黒い線が、影のように沈んでいる。

数字の隙間から、細い牙が覗いている。


「……いるな」


会議室が静かになる。


麻那だけは驚かなかった。


「やっぱりなにか“視える”んだね」


「視たくないけどな」


蒼麻は画面から目を離した。


「で、俺に何をしろと」


「この怪異の発生源を見つけてほしいの」


「麻那たちでできないのか?」


麻那は少しだけ目を伏せた。


「できる。でも、今回は神代一族の中の企業が多すぎる。下手に誰かを動かすと、派閥の牽制になるの」


「面倒くさいな」


「面倒くさいの」


麻那はあっさり言った。


「神代一族は一枚岩じゃない。企業ごとに後ろ盾が違う。真人桃さんの革新側、百合さんの監視網、紫苑様の奥乃院筋、鬼灯さんの裏社会側、竜胆さんの影。それぞれが別の目的で動く」


蒼麻は頭を押さえた。


「情報量が多い」


「今は名前だけ覚えていればいい」


「覚えたくない名前ばかりだな」


麻那は少し笑った。


「だから、お兄ちゃんにお願いしたいの。お兄ちゃんは、どの派閥にもまだ属していない」


「都合のいい外部扱いか」


「ううん」


麻那は蒼麻を見る。


「神代だけど、神代に呑まれていない人」


その言葉は、妙に重かった。


蒼麻は返事をせず、もう一度チャートを見た。


赤い線が、こちらを見て笑った気がした。


調査は、兜町の証券関連ビルから始まった。


神代商工会が使っている監視室には、大型モニターが並んでいる。


数字。

チャート。

ニュース。

売買高。

為替。

先物。


蒼麻には、そこがまるで“小さな祭壇”に見えた。


神ではなく、数字を祀る現代の祭壇。


「人間っていうものは、ここまで数字を拝むのか」


「拝んでる自覚はないと思う」


麻那が隣で言った。


「でも、祈ってはいるよ。上がれ、下がるな、今だけは持ってくれって」


「御神酒より厄介だな」


「うん。こっちは願いの速度が速すぎるからね」


蒼麻はモニターを見る。


問題の銘柄が動き始めた。


赤い陽線が伸びる。


その瞬間、監視室の空気が変わった。


数人の担当者の目が、画面に吸い寄せられる。


「買い……」

「まだ上がる」

「ここで入れば」

「遅れるな」


蒼麻の耳に、別の声が混じった。


――欲しいだろう。

――遅れるぞ。

――今だ。

――置いていかれるぞ。


麻那が鋭く言う。


「画面から目を離してください」


担当者たちがはっとする。


だが、一人だけ動かない。


若いアナリストの男が、震える手でキーボードに触れようとしていた。


蒼麻はその手首を掴んだ。


「待ってください」


男は虚ろな目で言った。


「買わないと」


「誰のお金ですか」


「……会社の」


「なら余計に待ってください」


男の目が揺れる。


蒼麻はモニターを見た。


チャートの中に、確実に何かがいる。


ローソク足が寄り集まり、細長い獣の形を作っていた。


赤い背骨。

黒い腹。

数字の鱗。

出来高の尾。


それが、チャートの上を這っている。


「株喰らい」


麻那が呟いた。


蒼麻は眉を寄せた。


「そのまんまの名前じゃないか」


「分かりやすいでしょ」


「分かりやすいけど嫌だな」


株喰らいは、陽線の赤を舐め、陰線の黒を飲み込む。


上がる時は欲望を吸う。

下がる時は恐怖を吸う。


人々が画面へ感情を注げば注ぐほど、怪異は太っていく。


蒼麻は赤ペンを取り出しかけて、止まった。


画面に線を引いてどうする。


いや、引ける気がするのが嫌だった。


麻那が小声で言う。


「お兄ちゃん?」


「たぶん、止めるだけじゃ駄目だ」


「どうして?」


「こいつ、数字に憑いてるんじゃない。数字を見てる人間の感情に憑いてる」


蒼麻は監視室を見回した。


「ここにいる全員が、餌になってる」


麻那の表情が険しくなる。


「なら、画面を落とす?」


「一時的には。でも市場は止まらない」


「そうだね」


「発生源は別にある」


蒼麻は株喰らいの尾を見る。


尾はチャートの外へ伸びている。


ネットワーク。

注文履歴。

ニュース記事。

SNS。

投資掲示板。

そして、どこかの企業資料。


「麻那。この銘柄、最初に妙な動きをしたのはどこだ」


麻那が素早く確認する。


「神代資源。次に神代情報通信。その後、神代酒造流通」


「神代酒造流通」


「また酒に反応しないで」


「いや、それはかなり気になるだろ」


蒼麻は画面を見る。


三つの銘柄をつなぐ線が、うっすら見えてきた。


それは株価ではない。


噂だ。


期待。

思惑。

未発表の材料。

誰かが流した“それらしい情報”。


「これ、誰かが育ててるな」


麻那の目が冷えた。


「だよね」


「心当たりがあるのか?」


「神代一族には、怪異を祓う人だけじゃなく、利用する人もいるから」


蒼麻はため息をついた。


「出たよ、一族の闇」


「うん、ごめんね」


「麻那が謝ることじゃない」


そう言うと、麻那は少しだけ目を伏せた。


蒼麻は気づいた。


麻那は、自分がその巨大な網の中にいることを自覚している。

神代一族の企業群。

派閥。

血筋。

役割。


その中で、麻那は蒼麻を外に置こうとしていた。


守るために。


だが同時に、必要な時には引き込む。


その矛盾を、麻那自身が一番分かっている。


「麻那」


「なに?」


「今回、呼んだのは、俺の監視のためか?」


麻那は少し黙った。


「それもある」


「正直だな」


「お兄ちゃんに嘘をつくと、だいたいバレるから」


「そればっかりだな」


麻那は画面を見た。


「でも、それだけじゃない。お兄ちゃんは、数字より人を見るでしょ。肩書きより名前を見る。願いより、その裏を見る」


蒼麻は肩をすくめた。


「買いかぶりすぎだろ」


「ううん。だから、この怪異にはお兄ちゃんが必要なの」


その時、監視室のモニターが一斉に暗転した。


次の瞬間、すべての画面に同じチャートが表示される。


神代酒造流通。


株価が、不自然に跳ね上がっていく。


赤い陽線が、鳥居のように伸びた。


蒼麻の胸の奥が熱くなる。


画面の中で、株喰らいが笑った。


――買え。

――欲しがれ。

――恐れろ。

――奪え。


麻那が端末を操作する。


「止まらない。外部からじゃない。内部の端末経由」


「どこだ」


「神代商工会の中」


会議室の空気が凍った。


蒼麻はモニターを見た。


株喰らいの尾が、ビルの奥へ伸びている。


「麻那、案内してくれ」


「地下」


「地下?」


「神代商工会の旧資料室。今は使われていない取引記録がある」


「嫌な場所だな」


「うん。たぶん、とても嫌な場所」


二人は監視室を飛び出した。


廊下を走る麻那の顔は、もう妹ではなかった。


神代一族の企業群と交渉し、怪異と情報を押さえ、巨大な金の流れを管理する者の顔。


蒼麻は、その横顔を見て思う。


自分が知らない間に、麻那はずっとこんな場所で戦っていたのだと。


地下資料室は、古い紙と埃の匂いがした。


棚には、かつての株券、契約書、企業合併資料、倒産記録が並んでいる。


その奥。


古い端末が一台、赤く光っていた。


画面には、株価チャート。


そして、その前に一人の男が立っている。


スーツ姿。

顔色は悪い。

目だけが異様にぎらついている。


麻那が息を呑む。


「神代資源の財務担当……」


男は振り返った。


「上がるんです」


声が震えている。


「上がれば、救われる。神代資源も、私も、全部」


蒼麻は画面を見た。


株喰らいが、男の背中に絡みついている。


「救われないですよ」


蒼麻は静かに言った。


男の顔が歪む。


「あなたに何が分かる!」


「分からないです。株も財務も、正直苦手だ」


「なら黙って――」


「でも、酒の発酵なら少し分かる」


麻那が一瞬だけ「えっ何言ってんの」という顔をした。


蒼麻は続ける。


「焦って温度を上げすぎたら、荒れる。糖を食わせすぎてもアルコール度数が上がりすぎてバランスを崩す。数字も似たようなもんじゃないのかな」


麻那が小声で言った。


「本当に本質に近いこと言うね……」


男は震えている。


「上げなければ、見捨てられる」


「誰に」


「神代一族に」


その言葉で、麻那の表情が変わった。


男は続ける。


「神代の名を背負う企業は、負けられないんだ。弱れば切られる。役に立たなければ、いなかったことにされる」


蒼麻は黙った。


神代一族の巨大企業。


それは力でもあり、檻でもある。


麻那が一歩前に出た。


「誰があなたに情報を流したんです」


男は笑った。


「皆、欲しがっていた。上がる理由を。勝てる理由を。だから、あれは来た」


株喰らいが、男の背後で膨らむ。


画面のチャートが脈打つ。


蒼麻は赤ペンを取り出した。


今度は、迷わなかった。


「数字を止めるんじゃない」


麻那が見る。


「何をするの?」


「欲と恐怖の流れを切る」


蒼麻は古い取引記録の紙を一枚取った。


そこには、かつて暴落した銘柄の記録がある。


誰かが損をし、誰かが得をし、誰かが消えた記録。


その余白に、蒼麻は線を引いた。


赤い線。


だが、まっすぐではない。


チャートのように上下しながらも、最後には水平へ戻る線。


「上がるだけの数字はない。下がるだけの数字もない」


蒼麻の声が、地下室に響く。


「欲は欲へ。恐れは恐れへ。数字は数字へ返れ」


株喰らいが悲鳴を上げる。


画面の赤い陽線が折れた。


黒い陰線が裂けた。


数字の牙が抜け落ちる。


だが、怪異は消えない。


むしろ、麻那の方へ飛びかかった。


神代商工会。

巨大企業群。

市場。

欲望。


その中心近くにいる麻那は、極上の餌なのだ。


「麻那!」


蒼麻が叫ぶ。


麻那は逃げなかった。


両手を合わせ、低く何かを唱える。


神代の術。


彼女の足元に、淡い光の陣が広がった。


「神代商工会調査機構、神代麻那の名において命じる」


麻那の声は、静かだが強かった。


「この取引を、一時凍結」


光の陣が、株喰らいの動きを止める。


蒼麻はその隙に、赤い線を画面へ向けて走らせた。


本来なら届くはずがない。


だが、線は届いた。


モニターの中のチャートへ。


株喰らいの胴体を横切る。


怪異が崩れる。


赤と黒のローソク足が、ただの数字へ戻っていく。


最後に、かすかな声がした。


――もっと欲しかったんだ。


蒼麻は静かに答えた。


「欲しいなら、自分の名前で欲しがるといい。数字に食われるな」


株喰らいは消えた。


地下室に静けさが戻る。


男は膝から崩れ落ちた。


麻那が職員を呼ぶ。


彼は処分されるだろう。

だが、それだけでは済まない。


誰が情報を流したのか。

誰が怪異を育てたのか。


神代一族の中で、また一つ厄介な線が動き始める。


夜。


蒼麻は麻那と、兜町のビルの屋上にいた。


遠くに東京の灯りが見える。


「お兄ちゃん、ありがとう」


麻那が言った。


「俺より麻那の方が働いてたろ」


「でも、見つけたのはお兄ちゃん」


「たまたまだ」


「たまたまが続く人を、神代では才能って呼ぶ」


蒼麻は嫌そうな顔をした。


「神代基準で褒められてもな」


麻那は少し笑った。


その笑顔は、妹のものだった。


「神代の企業は、大きい。お金も、人も、情報も動かせる。でも、その分、欲も恐れも大きくなる」


「麻那は、その中にいるんだな」


「うん」


麻那は夜景を見た。


「私は、お兄ちゃんみたいに外にはいられない。中にいないと、止められないものもある」


蒼麻は黙った。


麻那は、巨大な網の中で戦っている。


神代一族の企業群。

分家。

派閥。

怪異。

欲望。


そのすべてを知りながら、平気な顔で兄に電話をかけてくる。


「麻那」


「なに?」


「おまえ無理してるだろ」


麻那は少しだけ驚いた顔をした。


それから、困ったように笑う。


「お兄ちゃんに言われたくなーい」


「そりゃそうか」


二人の間に、少しだけ笑いが落ちた。


その時、夜風に蝋梅の香りが混じった。


蒼麻は振り返る。


屋上の給水塔の影に、黒髪に黒いブラウスの女が立っていた。


真響。


「見てたのか」


「酒の匂いがしない案件は退屈だな」


「来てたんじゃないか」


「ちょっとした見物だ」


麻那が真響を見る。


その目が、ほんのわずかに警戒する。


「あなたが、真響さんですね」


真響は麻那を見た。


「お前が妹か」


「神代麻那です」


「兄をよく働かせているな」


「必要なので」


「守るためか」


麻那の表情が止まった。


蒼麻も黙る。


真響はそれ以上言わなかった。


ただ、夜景へ視線を向ける。


「数字に憑く怪異は厄介だ。人間が数字を信じる限り、いくらでも湧くからな」


蒼麻はため息をつく。


「今後も出るってことか」


「当然だ」


真響は薄く笑った。


「だが、お前たちは今日、一つ喰われずに済んだ」


麻那が静かに言う。


「一つ、ですか」


「そうだ」


真響の声は冷めていた。


「神代の中には、喰わせる側の者もいる」


麻那は否定しなかった。


蒼麻は夜景を見た。


数字の光。

企業の光。

この街の欲望の光。


綺麗だ。


そして、少し怖い。


「酒、飲みに行くか」


蒼麻が言った。


麻那が目を丸くする。


「え、今から?」


「こういう日は、飲まないと数字の味が口に残る」


真響が少しだけ頷いた。


「悪くないぞ」


麻那は、ふっと笑った。


「じゃあ、経費で出しちゃおっかな」


蒼麻は即座に言った。


「上限は?」


「今日は少し多めにしてあげる」


「妹が神に見える」


真響が横から言う。


「ずいぶんと安い神だな」


麻那が笑う。


蒼麻も笑った。


兜町の夜風の中、三人は屋上を後にした。


神代一族の巨大な影は、まだ遠くまで伸びている。


蒼麻は今夜、名前で呼べる場所へ帰ることにした。

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