第十三話 名札のない子
株喰らいの件から、2日。
蒼麻は和灯のカウンターで、蓮二の作った焼きおにぎりを食べていた。
「最近、顔が疲れてるぞ」
蓮二が言った。
「神社、企業、株。いろいろあって疲れてる」
「次は何だろうな」
「何も来ないことを祈ってるところだ」
その瞬間、スマートフォンが震えた。
画面には、麻那の名前。
蓮二が無言で蒼麻を見た。
蒼麻も無言で画面を見た。
「……祈りが薄かったみたいだな」
通話を取る。
「もしもし」
『お兄ちゃん、今いい?』
「よくないと言ったら?」
『五分後にかけ直すね』
「最近それ、脅しに聞こえてきた」
麻那は少し笑ったが、すぐに声を落とした。
『今度は、子どもの案件』
蒼麻の表情が変わった。
「子ども?」
『うん。児童養護施設に近い学童で、子どもたちの持ち物から名前が消えてる』
「名前が消える?」
『名札、上履き、連絡帳、絵、ロッカー。最初は書き忘れかと思われていたんだけど、名前が消えた子は、周囲からも認識されにくくなってる』
蒼麻は焼きおにぎりを置いた。
「どういうことだ」
『先生が点呼で飛ばす。友達が会話の途中でその子を忘れる。迎えに来た親が、一瞬だけ自分の子の顔を探せなくなる』
「……それは、なにか起きてるな」
『うん』
麻那の声が少し震えた。
珍しいことだった。
『場所は荒川区の古い学童施設。神代の支援先の一つ。昔、私たちが少しだけ住んでいた場所の近く』
蒼麻の胸の奥が、きゅっと痛んだ。
子どもの頃。
麻那と二人で、説明されない怖いものから逃げた記憶。
夜道で、誰かが麻那の名前を呼んでくる。
蒼麻は何も分からないまま、妹の手を握って言った。
――麻那はこっちだ。呼ぶな。
あれが何だったのか、今なら少しだけ分かる気がする。
「麻那」
『なに?』
「お前、あの時の覚えてるのか」
電話の向こうが静かになった。
『覚えてるよ』
「どこまで」
『お兄ちゃんが、私の名前を呼び続けてくれたこと』
蒼麻は何も言えなかった。
麻那は続けた。
『だから今回もお兄ちゃんに来てほしい』
「分かった」
今度は、飲み代の話はしなかった。
学童施設は、住宅街の中にあった。
古い建物だったが、手入れはされている。
壁には子どもたちの絵。
靴箱には上履き。
廊下には、手作りの名札。
そのはずだった。
いくつかの名札だけが、真っ白になっている。
蒼麻は、それを見た瞬間、眉を寄せた。
「……名刺憑きとは違うな」
名前の上に肩書きを重ねる怪異ではない。
これは、名前そのものを薄くしている。
麻那が隣に立っていた。
今日は仕事用のスーツではなく、落ち着いた私服だった。
それでも、表情は硬い。
「被害に遭ってる子は三人。今のところ、全員無事。でも、昨日から一人、先生の記録に残りにくくなってる」
「記録に?」
「出席簿に名前を書いても、翌朝薄くなる」
蒼麻は小さく息を吐いた。
「普通じゃないやつだな」
「うん」
案内してくれた施設長は、五十代の女性だった。
「神代さん、本当に助かります。私たちも、どう説明してよいか分からなくて」
蒼麻は柔らかく頷いた。
「まず、子どもたちに会わせていただけますか」
施設長に案内され、プレイルームへ入る。
子どもたちは、折り紙やブロックで遊んでいた。
その中に、一人だけ、少し離れて座っている男の子がいた。
6歳くらい。
水色の服。
手には、名前の消えたクレヨン。
周囲の子たちは、その子の近くを自然に避けているわけではない。
ただ、見えていないように通り過ぎる。
蒼麻の胸がざわついた。
「名前は?」
施設長が手元のメモを見た。
「ええと……」
メモの文字も滲んでいる。
麻那が静かに言った。
「陽斗くん。二宮陽斗」
施設長がはっとした。
「そうです。陽斗くんです。どうして、今……」
麻那は答えなかった。
蒼麻は陽斗の前にしゃがんだ。
「こんにちは」
陽斗は顔を上げる。
目が、少し怯えている。
「……おじさん、ぼくが見えるの?」
なかなか刺さる一言だった。
おじさんも含めて。
「見えるよ。あと、お兄さんな」
陽斗は少しだけ首を傾げた。
「お兄さん?」
「そこはまぁ、いいや」
麻那が後ろで小さく笑った。
陽斗は、手元のクレヨンを見せた。
「名前、書いても消えちゃうの」
「いつから?」
「三日前。最初は上履き。次はロッカー。昨日は、先生がぼくの名前を呼ばなかった」
「怖かったな」
陽斗は唇を噛んだ。
「ぼく、悪いことしたのかな」
「してない」
蒼麻はすぐに答えた。
「名前が消えるのは、陽斗が悪いからじゃない」
陽斗の目が少し揺れた。
その瞬間、部屋の隅で何かが動いた。
名札の束。
真っ白な名札が、ひとりでに揺れている。
そこから、細い影が伸びていた。
人の形ではない。
白い紙を重ねたような、小さな子どもの影。
顔がない。
胸元には、空白の名札が下がっている。
麻那が息を呑む。
「……いた」
蒼麻は立ち上がる。
影は、陽斗を見ていた。
いや、陽斗の名札を見ていた。
――なまえ。
小さな声がした。
――ぼくにも、なまえ。
蒼麻はすぐに赤ペンを出しかけた。
だが、麻那が手首を掴んだ。
「お兄ちゃん、待って」
「何で」
「この子、奪ってるんじゃない。探してる」
蒼麻は影を見る。
白い名札の子。
名前を持たない子。
「……名札のない子」
麻那の声が震える。
「昔も、いた」
蒼麻は麻那を見る。
「昔?」
麻那は陽斗の前に膝をつき、そっと肩に手を置いた。
「私が子どもの頃、夜の廊下で、名前を呼ばれたことがある」
蒼麻の記憶が、急に揺れた。
暗い廊下。
蛍光灯のちらつき。
麻那の手。
どこからか聞こえる声。
――まな。
――まな、こっち。
幼い麻那が、その声に引かれそうになった。
蒼麻は妹の手を握りしめた。
――麻那はこっちにくるんだ。
――麻那の名前を呼ぶな。
その瞬間、白い影が廊下の奥で揺れた。
「……あれだったのか」
蒼麻は呟いた。
麻那が頷く。
「たぶん、同じ系統」
影は、ゆっくり陽斗へ近づく。
――なまえ。
――ひとつ、ちょうだい。
陽斗が震える。
蒼麻は影の前に立った。
「だめだ」
影が止まる。
――どうして。
――ぼくにはない。
――あの子にはある。
「あるからって、取っていい理由にはならない」
――ぼくも、よばれたい。
その声は、あまりにも寂しかった。
真響なら何と言うだろう。
そう思った瞬間、蝋梅の香りがした。
振り返ると、窓の外の木陰に真響が立っていた。
来ている。
蒼麻は小さく息を吐いた。
「見物か」
真響は窓越しに言った。
「子どもの名を喰うものは、質が悪いぞ」
「でも、こいつは悪意だけじゃない」
「分かっているが」
真響は影を見た。
「名を持たぬものは、他者の名を欲しがる。だが、奪えば空白が増えるだけだ」
蒼麻は頷いた。
「じゃあ、与えるしかないのか」
麻那が蒼麻を見る。
「お兄ちゃん」
「分かってる。勝手に名付けるのは重い」
名は、縁だ。
名付けることは、縛ることでもある。
だが、このままでは陽斗が消える。
蒼麻は影に向き直った。
「お前、どこから来たんだ」
影は首を傾げる。
――わからない。
「誰かに呼ばれたことは?」
――ない。
「本当に?」
影が震えた。
しばらくして、小さな声がした。
――……しろ。
蒼麻は眉を寄せる。
「しろ?」
――しろいこ。
――なまえじゃない。
――でも、そうよばれた。
麻那が呟いた。
「白い子……」
施設長が、はっと顔を上げた。
「昔、この近くにあった孤児院で、名前の分からない子がいたという話を聞いたことがあります。戦後すぐの頃です。白い服を着せられていたから、“白い子”とだけ呼ばれていたと」
蒼麻は息を呑んだ。
名を失った子。
名を持たないまま、忘れられた子。
その名前の欠落が、今の子どもたちの名前を欲しがっている。
蒼麻はゆっくりしゃがんだ。
影と目線を合わせる。
顔はない。
けれど、そこに確かに“子ども”がいた。
「じゃあ、お前は白だ」
影が震えた。
――しろ。
「そうだ。でも、それは誰かから奪った名前じゃない。お前が覚えていた呼び名だろ」
影の胸元の空白の名札に、うっすら文字が浮かぶ。
しろ
麻那が小さく息を吸った。
蒼麻は赤ペンを取り出した。
今度は迷わなかった。
影の名札に、ひらがなで書く。
しろ
赤い字が、柔らかく光った。
陽斗のクレヨンに書かれていた名前が、ゆっくり戻っていく。
上履き。
ロッカー。
連絡帳。
施設長のメモ。
二宮陽斗。
名前が、戻る。
陽斗が泣きそうな顔で言った。
「ぼく、いる?」
蒼麻は言った。
「いるよ。陽斗」
麻那も続ける。
「陽斗くん、ちゃんといるよ」
部屋の中にいた子どもたちが、次々に振り返る。
「あれ、陽斗、そこにいたの?」
「一緒に遊ぼうよ」
「陽斗のクレヨン、見つかった?」
陽斗の目から、涙がこぼれた。
影――しろは、それを見ていた。
羨ましそうに。
でも、もう奪おうとはしなかった。
真響が窓の外から静かに言った。
「居場所を作ってやれ」
蒼麻は頷いた。
施設長へ向き直る。
「この施設のどこかに、小さな名札を置いてください」
「名札ですか?」
「昔ここにいた、名前の分からない子のために。白い子、しろ。そう書いて」
施設長は涙ぐんで頷いた。
「そうですね、わかりました」
「それと、子どもたちの名前を呼ぶ時間を作ってあげてください。点呼じゃなくて、ちゃんと一人ずつ」
麻那が静かに言った。
「名前は、確認じゃなくて、ここにいるって伝えるためのものですから」
蒼麻は麻那を見た。
その言葉は、幼い頃の二人そのものだった。
夕方。
施設の玄関横に、小さな木の名札が置かれた。
しろ
その下には、子どもたちが描いた小さな花の絵。
しろの影は、名札のそばに座っていた。
顔はないままだ。
でも、空白ではなかった。
陽斗がそっと手を振る。
「ばいばい、しろ」
影が、嬉しそうに小さく揺れた。
返事のようだった。
外へ出ると、夕暮れの風が吹いていた。
真響は門の外に立っている。
「お前、今日はあまり出てこなかったな」
蒼麻が言うと、真響は淡々と答えた。
「子どもの名は、人間が返すべきものだろう」
「そういう線引きはするんだな」
「わたしが名を与えれば、縁が強くなりすぎる」
「……なるほど、そういうもんか」
蒼麻は少し黙った。
麻那が隣に来る。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「昔、私の名前を呼び続けてくれて、ありがとう」
蒼麻は困った顔をした。
「急に何だよ」
「あの時言ってなかったから」
「言わなくてもいいだろ」
「言いたかったの」
麻那の声は静かだった。
蒼麻は少しだけ視線を逸らした。
「俺は、何も分かってなかったし。ただ、怖かっただけだ」
「それでも、お兄ちゃんは私をずっと呼んでてくれた」
麻那は微笑んだ。
「だから私は、戻れた」
蒼麻は返事に困った。
真響が横から言う。
「礼は受け取れ。下手か」
「うるさいな」
「事実であろうが」
麻那が小さく笑う。
蒼麻は頭をかいた。
「……どういたしまして」
麻那の顔が、少しだけ幼い頃に戻ったように見えた。
その瞬間、蒼麻の胸の奥で、何かが柔らかくほどけた。
神降しでも、封印でもない。
ただ、兄妹の記憶だった。
真響が静かに言う。
「名は、呼ぶものだ」
蒼麻は頷いた。
「そうだな」
「忘れるな」
「忘れないよ」
真響は、ほんの少しだけ目を細めた。
「ならよい」
帰り道、麻那が言った。
「今日は、飲み代わたしが出そうっか」
蒼麻は振り返った。
「どうした。お前は神か?」
「しろくんの供養代も兼ねて」
「じゃあ、ちゃんとした酒にしよう」
真響が横で言う。
「肴もな」
麻那が少し驚いたように真響を見る。
「真響さんも来るんですか?」
「悪いか」
「いえ。お兄ちゃんが嬉しそうなので」
蒼麻が即座に言う。
「嬉しそうではない」
真響が薄く笑った。
「そうか」
麻那も笑った。
夕暮れの学童施設を後にする。
後ろで、学童の窓から子どもたちの声が聞こえた。
名前を呼び合う声。
陽斗。
美咲。
蓮。
千夏。
しろ。
最後の一つは、誰が呼んだのか分からなかった。
けれど蒼麻には、確かに聞こえた。
名札のない子は、もう名札のない子ではなかった。
麻那は蒼麻の少し前を歩き、時々振り返った。
真響は蒼麻の隣を、足音も立てずについてくる。
「なんか、不思議だな」
蒼麻が言うと、麻那が振り返った。
「何が?」
「麻那と真響が並んでること」
「私もそう思ってる」
麻那は少し笑った。
「お兄ちゃんの周りに、こんな綺麗で怖い人がいるなんて思わなかったもん」
真響が目を細める。
「怖いは余計だ」
「綺麗は否定しないんですね」
「事実だからな」
蒼麻は小さく吹き出した。
「相変わらず自己申告が強いな」
「わたしの申告は重いと言っただろう」
「制度みたいに言うなよ」
麻那はそのやり取りを見て、少しだけ目を丸くした。
「お兄ちゃん、真響さんとはけっこう普通に話すんだね」
「普通のやりとりか、これ」
「うん。お兄ちゃん、神代の人たちにはもっと距離を取るから」
蒼麻は返事に困った。
言われてみれば、そうかもしれない。
神代の人間と話す時、蒼麻は自然と一歩引く。
何を知っているのか。
何を隠しているのか。
自分の何を見ているのか。
それを先に考えてしまう。
けれど真響には、別の警戒はあっても、妙な遠慮はない。
たぶん、彼女が最初から危険だと分かりやすいからだ。
危険だと顔に出ている相手への対処は案外楽である。
「真響は嘘が下手そうだからな」
蒼麻が言うと、真響が不服そうに見る。
「わたしほど嘘の上手いものはいないというのに失礼だな。」
「褒めてるんだけど」
「納得しがたい褒め方だ」
麻那が笑った。
「お兄ちゃんも似たようなことよく言うよ」
「兄妹だな」
真響が淡々と言った。
その言葉に、麻那の笑みが少し柔らかくなる。
「うん。兄妹」
蒼麻は横目で麻那を見た。
さっき施設の前で言われた言葉が、まだ胸に残っている。
――昔、私の名前を呼び続けてくれて、ありがとう。
あの頃の蒼麻は、本当に何も分かっていなかった。
神代一族のことも、怪異のことも、自分の中に封じられているもののことも。
ただ、麻那が連れていかれそうで怖かっただけだった。
だから名前を呼び続けた。
それがどんな意味を持っていたのか、今になって少しずつ分かってくる。
「お兄ちゃん?」
麻那が不思議そうに見る。
「いや」
蒼麻は軽く首を振った。
「今日は飲み代出るんだよなって確認をしてたとこだ」
麻那は呆れた顔をした。
「出すってば。ちゃんと」
「上限は?」
「今日はなし」
「まじで神かよ」
「今日は妹です」
真響が小さく言う。
「安い信仰だな」
「酒代は俺の信仰を左右する」
「ろくでもない神職の末裔だ」
その言葉に、蒼麻は少しだけ足を止めた。
神職の末裔。
冗談めいた言い方なのに、胸の奥が反応した。
麻那も気づいたのか、表情を変える。
「お兄ちゃん大丈夫?」
「ああ、なんでもない」
蒼麻は歩き出した。
「逃げてるわけじゃない。ただ、今日じゃないだけだ」
真響は何も言わなかった。
麻那も、無理に聞かなかった。
三人はそのまま駅へ向かった。
電車を乗り継ぎ、神楽坂へ戻る頃には、すっかり夜になっていた。
和灯の暖簾には、柔らかな灯りが落ちている。
蓮二は三人を見るなり、目を瞬かせた。
「今日は三人か」
「増えた」
蒼麻が言う。
「見れば分かる」
「麻那が払う」
「神様かな?」
「今日は妹だそうだ」
麻那が苦笑する。
「蓮二さん、お久しぶりです」
「お久しぶり。麻那ちゃん、ずいぶん大人になったな」
「蓮二さんはあまり変わりませんね」
「店主は変わらない方が安心だろ」
真響が席に着きながら言った。
「変わらぬ灯りは、帰るものを迷わせぬ」
蓮二が一瞬、言葉を失う。
それから少し照れたように笑った。
「……それ、もしかしてウチの店を褒めてます?」
蒼麻が答える。
「かなり褒めてる」
真響は否定しなかった。
蓮二は嬉しそうに、徳利を用意した。
「じゃあ、今日は良いの出さないとな」
「経費で宜しくお願いします」
蒼麻が言うと、麻那が即座に返した。
「限度は常識の範囲内でね」
「さっき上限なしって言っただろ」
「常識はある」
「妹への信仰が揺らいだ」
真響が盃を手に取る。
「騒がしい兄妹だな」
「真響には兄妹いないのか?」
蒼麻が聞くと、真響の手がほんのわずかに止まった。
ほんの一瞬。
だが、蒼麻には見えた。
麻那も気づいたようだった。
真響はすぐに盃を置き、静かに言った。
「いるとも、いないとも言える」
蒼麻はそれ以上聞かなかった。
ただ、徳利を取り、真響の盃に酒を注ぐ。
真響は少しだけ目を伏せた。
「……気を遣ったつもりか」
「酒を注いだだけだろ」
「そうか」
「そうだ」
麻那がその様子を見て、ふっと笑った。
「お兄ちゃん、そういうところ昔から変わらないね」
「何が」
「なにも聞かないでおくところ」
蓮二が小鉢を次々と置いていく。
「それは美徳だな」
「蓮二が言うと、急に店っぽくなるな」
「店主だからな」
今夜の肴は、焼き葱味噌、出汁巻き、あん肝ポン酢、そして小さな椀物だった。
酒は、大七 箕輪門を蓮二が開栓してくれた。
派手ではない、上品な芳香。
麻那が盃を手に取る。
「しろくんに」
蒼麻も盃を持つ。
「陽斗たちに」
蓮二が言う。
「迷った客にも」
真響が少し遅れて、盃を上げた。
「名が失われぬように」
四つの盃が、静かに触れた。
ちん、と小さな音がする。
その音が、妙に胸に残った。
蒼麻は酒を口に含んだ。
やわらかく円熟した舌ざわり。
今日の出来事が、少しだけほどけていくようだった。
「なあ、真響」
「何だ」
「名は呼ぶものだって言ったな」
「ああ」
「じゃあ、忘れられた名はどうなる」
真響はすぐには答えなかった。
酒を一口含み、静かに置く。
「呼ばれぬ名は、眠る。眠りが深くなれば、やがて形を失う」
「しろみたいに?」
「そうだ」
麻那が小さく言う。
「でも、呼び直せば戻るんですね」
真響は麻那を見る。
「完全には戻らぬこともある。だが、呼ぶことには意味がある」
蒼麻は盃を見た。
「名前を呼ぶって、思ったより大切だな」
「今さらなんだ」
「今さら知ったんだよ」
真響が目を細める。
「なら、これから覚えておくことだな」
「覚えておくよ」
その言葉は、軽口ではなかった。
麻那は黙って、兄の横顔を見ていた。
蓮二は何も言わず、二杯目を注ぐ。
和灯の中に、酒と出汁の香りが満ちていく。
外では夜風が吹いていた。
ほんのかすかに、蝋梅の香りが混じる。
けれど今夜のそれは、警告ではなかった。
ただ、ここにいるという印のようだった。
蒼麻はふと思った。
自分も、誰かに呼ばれ続けてきたのかもしれない。
麻那に。
蓮二に。
真響に。
そして、まだ名を知らない何かに。
それが神なのか、狐なのか、怪異なのかは分からない。
でも今、名前で呼び合える場所がある。
「蒼麻」
真響が呼んだ。
蒼麻は顔を上げる。
「何だ」
「酒が空だぞ、だから名を呼んだ」
「目的が酒の催促じゃないか」
「名は用件を運ぶものだろう」
「便利にそれっぽく言うなよ」
麻那が笑い、蓮二も笑った。
蒼麻は文句を言いながら、真響の盃に酒を注ぐ。
その手つきは、思ったより自然だった。
夜は、まだ少し長い。
けれど今夜は、長い夜もいいなと思った。




