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第十四話 祝詞盗み

名札のない子の件から、数日後。


麻那は、神代商工会調査機構の資料室にいた。


机の上には、古い祈祷記録、神代家の系譜、そして一冊の封じられた帳面が置かれている。


帳面の表紙には、父の字でこう書かれていた。


蒼麻封鎮記(そうまふうちんき)


麻那は、それを開かない。


開けることは許されている。

だが、読むたびに胸が重くなる。


兄は知らない。


自分の中に、神を降ろす器があること。

その力が強すぎたため、幼い頃に父・麻臣が封印を施したこと。

その封印が、完全に閉じるものではなく、全国の土地の気を少しずつ取り込み、器を壊さないよう均衡を保つ仕組みであること。


そして、その“接続口”になっているのが、蒼麻の好きな酒だということ。


御神酒。


地酒。


土地の米、水、蔵人の手、土地神の気配。


蒼麻が全国各地の日本酒を飲み歩いてきたことは、本人にとってはただの趣味だった。


だが麻那は知っている。


あれは偶然ではない。


麻臣が施した封印は、蒼麻が土地の酒を口にするたび、その土地の気脈を細く吸い上げ、封印の外側を補強するよう組まれている。


酒は、蒼麻と土地をつなぐコネクターだった。


兄は、酒を楽しんでいるつもりで、無意識に自分の器を守っていた。


麻那は小さく息を吐いた。


「……ひどい仕組み」


それが父の愛なのか、管理しようとした結果なのか。

麻那には、まだ分からない。


ただ一つだけ確かなのは、蒼麻にそれを伝えれば、兄はきっと笑うことだ。


「俺の酒代って封印維持費だったのかよ」


などと言って。


そしてその後で、少しだけ傷つく。


麻那はそれが怖かった。


その時、端末に通知が入った。


祝詞(のりと)消失事案。

神職が祝詞を奏上しても、神前へ届かない。

音はあるが、言葉に力がない。


麻那は目を細めた。


「……来た」


これは、蒼麻から遠ざけておきたい案件だった。


だが同時に、蒼麻でなければ見えない案件でもあった。


麻那はスマートフォンを手に取る。


少し迷ってから、兄へ電話をかけた。


蒼麻は和灯にいた。


「祝詞が盗まれる?」


電話越しにそう聞き返すと、蓮二が厨房から顔を出した。


「今度は何が盗まれてるって?」


「祝詞」


「品目が段々物騒になってきたな」


麻那の声は、いつもより少し硬い。


『神職が祝詞を上げても、場が清まらないの。声は聞こえる。でも、言葉の芯だけが抜けている』


「言葉の芯?」


『うん。音だけ残って、祈りが届かない』


蒼麻は盃を置いた。


「場所は?」


『神代一族と縁のある古社。今回は、父さんの代から関わっている社でもある』


父さん。


麻臣の名は出さなかった。


それでも、蒼麻には十分だった。


「……父さん絡みか」


電話の向こうで、麻那が黙る。


「分かった。行く」


『お兄ちゃん』


「何だ」


『今回は、無理しないで』


「毎回それ言ってるぞ」


『今回は本当に』


蒼麻は少し眉を寄せた。


麻那の声が、妹の声になっている。


仕事ではなく不安を隠しきれない、妹の声。


「麻那」


『うん』


「俺に関係あるんだな」


返事は、すぐにはなかった。


やがて、麻那は静かに言った。


『ある』


蒼麻は盃の中を見た。


「分かった」


『怒らないの?』


「怒るのは、ちゃんと聞いてからにする」


『……うん』


電話が切れた。


蓮二が、黙って小鉢を置いた。


「食ってから行け」


「母さんかよ」


「小料理屋の店主です」


蒼麻は苦笑したが、箸はちゃんと取った。



古社の拝殿は、妙に静かだった。


清められているはずなのに、空気が薄い。


祝詞が抜けた場とは、こういうものなのかもしれない。


宮司が蒼麻たちを迎えた。


麻那も同行している。

真響は、鳥居の陰にいた。


「入らないのか」


蒼麻が聞くと、真響は社殿を見た。


「ここは人間が神を呼ぶ場だ。わたしが先に踏み込むものではない」


「律儀だな」


「無遠慮なお前とは違う」


「一言多いな」


麻那が少しだけ笑った。


その笑いも、すぐに消える。


拝殿では、神職が祝詞を奏上していた。


声は美しい。


音も整っている。


だが、蒼麻はすぐに違和感を覚えた。


言葉が、途中で削られている。


耳には届く。

だが、胸に届かない。


水のない川のようだった。


祝詞が終わると、社殿の奥から小さな音がした。


しゃり。


紙を噛むような音。


蒼麻は奥を見た。


白い影がいる。


紙垂のような体。

墨で書かれた文字を、少しずつ舐め取っている。


祝詞盗み。


それは、祝詞そのものを食っているのではなかった。


祝詞に宿る“届ける力”だけを吸っていた。


「……あれか」


麻那が低く言う。


「視える?」


「視える」


「やっぱり」


その言葉に、蒼麻は横目で妹を見た。


「やっぱり?」


麻那は答えない。


怪異がこちらを向いた。


顔はない。


だが、口だけがあった。


――ことば。

――よい、ことば。

――からの、ことば。


蒼麻は一歩前へ出る。


「空の祝詞を食ってるのか」


怪異は揺れた。


――音はある。

――芯がない。

――だから、食べる。


真響が鳥居の外から言った。


「空の祈りと同じだな」


蒼麻は頷いた。


「でも、こっちは神職の言葉だぞ」


麻那が小さく言う。


「神職でも、届かない祝詞はある」


その声には苦さがあった。


「神代一族でも?」


蒼麻が問う。


麻那は逃げなかった。


「あるよ」


拝殿の空気が、少し重くなる。


麻那は続けた。


「形だけの祝詞。権威のための祝詞。神を降ろすためじゃなく、神を利用するための祝詞。そういうものは、届かない」


「神代らしいな」


「うん。神代らしい」


その瞬間、怪異が麻那の方へ飛んだ。


麻那が札を構える。


だが、蒼麻の方が早かった。


「麻那!」


兄の声が、拝殿に響く。


名前を呼ばれた瞬間、麻那の周囲に薄い光が走った。


幼い頃と同じ。


名前を呼ぶことで、縁を引き戻す力。


怪異が弾かれる。


麻那は目を見開いた。


「お兄ちゃん……」


蒼麻自身も驚いていた。


だが、胸の奥が熱い。


神前。

祝詞。

妹の名。


封印の奥で、何かが目を覚ましかけている。


真響の声が鋭く飛ぶ。


「蒼麻、開きすぎるな」


「分かってる!」


「分かっていない声だ」


「今それ言うか」


蒼麻は怪異を見る。


「祝詞は、食うものじゃない」


――でも、からだ。

――からのことばは、すてられたもの。


「なら、空じゃない言葉を聞け」


麻那がはっと顔を上げる。


「お兄ちゃん、駄目」


「何が」


「祝詞を、知らないまま唱えないで」


だが、もう遅かった。


蒼麻の口が、自然に開く。


言葉が出る。


幼い頃から知らないはずの言葉。


父が教えなかったはずの祝詞。


高天(たかあま)(います)御名(みな)(かしこ)み――」


麻那の顔から血の気が引いた。


それは、神代家の祝詞だった。


麻臣が、蒼麻から遠ざけたもの。


封印の内側に、絶対に触れさせないようにしていたもの。


だが、蒼麻の声は止まらない。


音は不完全。

節も少し違う。


けれど、芯があった。


祝詞盗みが震える。


――ある。


――ことばの、芯。


蒼麻の背後に、淡い光の輪郭が立ち上がる。


神ではない。


まだ、神ではない。


だが、何かが降りるための“器”が、確かに開きかけている。


麻那は胸元の札を握りしめた。


今なら分かる。


父が恐れたもの。


蒼麻の中にある器は、ただ神を降ろすだけではない。

土地の気脈を吸い、酒を通じて全国の力を細く束ね、どの神にも接続しうる“広すぎる器”なのだ。


だから麻臣は封じた。


御神酒(おみき)を封印の鍵にした。

地酒を封印の補強にした。

兄が酒を愛せるように、酒を呪いではなく楽しみとして扱えるように、ぎりぎりの形で仕組んだ。


愛だったのかもしれない。


でも、兄に何も知らせなかった時点で、それはやはり残酷だった。


「お兄ちゃん、戻って」


麻那は震える声で言った。


「その祝詞は、まだ駄目」


蒼麻の声が止まる。


麻那の声が届いた。


兄が、妹の名を呼んで守ったように。


今度は妹が、兄を呼び戻した。


蒼麻は大きく息を吸った。


「……麻那」


「戻ってきて」


「戻ってる」


「嘘。半分向こうにいた」


真響が拝殿の入口まで来ていた。


「麻那の言う通りだ。今のは危うい」


蒼麻は額を押さえた。


「俺、何を唱えた」


麻那は答えられなかった。


代わりに、真響が言う。


「お前の血が覚えていた祝詞だ」


祝詞盗みは、小さくなっていた。


蒼麻の祝詞の芯を食えなかったのだ。


むしろ、その芯に触れて、自分が空であることを思い出してしまった。


――ことば。


――とどく、ことば。


蒼麻は静かに言った。


「食うな。聞け」


怪異が止まる。


「空の祝詞を食うんじゃなくて、お前は空になった祝詞を知らせるものになれ」


朱印吸いと同じ。


役目を変える。


盗むものから、知らせるものへ。


麻那が、神職へ向き直った。


「祝詞の前に、必ず祈意を確認してください。誰のために、何を願い、何を神前へ届けるのか。形だけで奏上しないでください」


宮司は気恥ずかしそうに深く頭を下げた。


「申し訳ございません。承知しました」


祝詞盗みの白い体が、少しずつ薄くなる。


最後に、紙垂の一片だけが残った。


そこには、墨で小さく一文字。



蒼麻はそれを見て、小さく息を吐いた。


「届くかどうかを見張る役、か」


真響が言った。


「悪くない」


「今日は少しだけじゃないだろ」


「調子に乗るな」


いつものやり取り。


だが、麻那だけは笑えなかった。


帰り道。


三人は、夕暮れの参道を歩いていた。


麻那は、ずっと黙っていた。


蒼麻が口を開く。


「麻那」


「……なに?」


「俺の酒好きって、ただの趣味じゃないんだな」


麻那の足が止まった。


真響も黙る。


蒼麻は振り返らずに言った。


「さっき、何となく分かった。御神酒とか、地酒とか、土地の気とか。俺の中に何かが入ってきてる」


麻那は唇を噛んだ。


「……ごめん」


「謝るってことは、知ってたんだな」


「うん」


「父さんがやった?」


「うん」


蒼麻は空を見た。


怒りはある。


けれど、それだけではない。


全国の酒を飲んできた記憶が浮かぶ。


蔵の匂い。

水の味。

米の甘み。

土地の空気。

蔵人の手。


それが全部、自分の中の何かを支えていたのだとしたら。


「でも、酒を嫌いにはならなくて済みそうだ」


麻那が顔を上げる。


蒼麻は少しだけ笑った。


「この気持ちまで奪われたら、さすがに父さんを恨むところだった」


麻那の目に涙が滲んだ。


「お兄ちゃん……」


真響が静かに言った。


「笑って済ませるな。傷ついているなら、傷ついたと言え」


蒼麻は真響を見る。


「お前は厳しいな」


「お前が軽すぎる」


「……傷ついたよ」


蒼麻は小さく言った。


「でも、まだ全部は分からない。気持ちの整理がついていない。だから、今はそこまで」


麻那は頷いた。


「うん」


「いつか、ちゃんと話してくれ」


「話すよ」


「逃げるなよ」


「逃げないって」


蒼麻は少し笑った。


「じゃあ今日は、和灯で飲むか」


麻那が涙を拭きながら笑う。


「経費で出してってこと?」


「それだとありがたいな」


「今回は……封印維持費として認めます」


蒼麻は微妙な顔をした。


「その名目だとあんまり嬉しくないな」


真響が薄く笑う。


「実費精算される器か」


「やめろ。嫌すぎる」


三人は参道を抜ける。


夕暮れの空に、蝋梅の香りが流れた。


祝詞は、ただ唱えれば届くものではない。


酒も、飲めばただ酔うというだけのものではない。


名も、祈りも、願いも、酒も。


すべては、どこかへつながっている。


蒼麻は、そのつながりの中心に、自分が立たされていることを少しずつ知り始めていた。


まだ、何も選んでいない。


けれど少なくとも今夜は、自分の足で和灯へ帰る。


そして、自分の意思で酒を飲む。


それは、誰に仕組まれたものでもなく自分で選んで決めた事だと信じたかった。

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