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第八話 香りを盗るもの

名刺憑きの一件から、数日。


蒼麻は「和灯」のカウンターにいた。


目の前には、一升瓶が一本。

ラベルは見慣れないが、香りは悪くないはずの酒だ。


はず、なのだが。


「……薄い?。ううん?」


蒼麻はグラスを傾けて、首をひねった。


味はある。

アルコールもある。

でも、香りがない。


余韻が、まるで残らない。

香りをしっかりとれるようにテイスティンググラスを使ったが、それでも残らない。


蓮二が腕を組んで言う。


「それ、昨日開けたばっかりなんだぞ」


「これは劣化じゃないな」


「だろ。なのに、こんな感じだ」


蒼麻は香りをたたせようとスワリングしてからもう一口飲む。


やはり同じだ。


「……酒が“抜けてる”」


「それだ」


蓮二が頷く。


「最近、これが起こるんだ。開けた酒の香りだけ、“なにも”ないんだ」


蒼麻はテイスティンググラスに鼻を入れる。


ほんのわずかに、残り香はある。

だが、本来の広がりがない。


「全部か?」


「全部じゃない。たまにだ。でも、決まって夜に急に抜けるんだよ」


「夜ね」


「閉店後とか、さっき開いた酒の味を確認と思って飲んでみると香りがまったく感じられない」


蒼麻はテイスティンググラスを置いた。


水守の月のときと同じ、嫌な予感がした。


「客は?」


「変なのはいない」


「誰もいない時に起きる?」


「だいたいな」


蒼麻は、店内を見回した。


カウンター。

小さなテーブル。

いつもの席。


変わったところはない。


だが――


「……ここか」


蒼麻の視線が、店の奥の棚で止まる。


酒瓶が並ぶその一角だけ、空気が少し違う。


ほんのわずかに、冷えている。


「蓮二、この辺、最近触ったか?」


「いや、いつも通りだ」


「掃除は?」


「もちろん毎日やってる」


「……そりゃそうか」


蒼麻は立ち上がり、棚の前へ歩いた。


その瞬間。


ふっと、香りがした。

甘く、冷たい、冬の花の香り。

最近はこの香りが好きかもしれないと思い始めている。


「……来てるな」


振り返る。


暖簾の影。


長い黒髪に黒いブラウスの女が、壁にもたれていた。


「店の酒を無駄にするな」


真響だった。


蓮二は気づいていない。


蒼麻だけが、ため息をつく。


「お前、最近出現率高くないか」


「酒の気配が乱れているからな」


「便利な嗅覚だなー」


「お前より不便ではない」


蒼麻は苦笑した。


「で、この酒はどういうこと?」


真響は棚を見た。


目が細くなる。


「軽いな」


「軽い?」


「月影の残滓ほどではない。だが、放置すれば質が悪くなる」


「どういう系だ」


真響は一歩近づいた。


棚の前で、空気を確かめるように息を吸う。


「香りだけを盗っている」


「そのまんまじゃないか」


「酒そのものではなく、“記憶”の部分をな」


蒼麻は眉を寄せた。


「香りじゃなくて記憶?」


「香りは記憶だ。人間は、味より先に香りで酒を覚える」


蒼麻は頷いた。

プルースト効果という言葉がある。

心理学や脳科学でも正式に用いられる言葉で嗅覚と記憶は密接に関わっている。


視覚、聴覚は脳の視床という中継所を通して処理されるが、

嗅覚は特殊で匂い、嗅球、偏桃体、海馬をダイレクトに経由する。


海馬は記憶を司る領域であり

偏桃体は感情を司る領域である。


つまり、匂いとは記憶と感情の中枢へ直通している感覚といえる。


良い酒ほど、香りで分かる。

逆に言えば、香りがなければ、その酒は“ただの液体”になる。


「じゃあこの怪異は、酒の記憶だけ食ってるってこと?」


「そうだ」


「悪意は?」


「あまり感じられない」


真響は少しだけ視線を落とした。


「だが、執着は強いな」


蒼麻は棚の近くに感覚を鋭くして手をかざした。


冷たい。


だが、水守の時のような“重さ”はない。


「何が原因なんだ」


「この店ではないな」


真響は即答した。


「ここは整っている。主の氣が良い」


蓮二がくしゃみをした。


「いま俺のこと褒めたかな?」


「気のせいだ」


蒼麻は軽く返す。


「じゃあ、外か」


「この近くにいるぞ」


真響が言った。


「酒を飲めなくなった者の気配だ」


蒼麻は少し考えた。


「飲めなくなったって?」


「そうだ」


思い当たる節があった。


蓮二に向き直る。


「この辺で、酒に関係あった人で、最近い見かけなくなった人いるか?」


蓮二は少し考えて、言った。


「一人いる」


「誰だ」


「裏の通りにあった居酒屋の親父。半年前に店を畳んだんだよ」


「理由は?」


「体を壊したらしい。肝臓とか何とか聞いた気がする」


蒼麻は頷いた。


「今は?」


「分からん。入院したって話までは聞いたけど」


真響が小さく言う。


「それだな」


蒼麻は肩をすくめた。


「分かりやすいな」


「分かりやすいものは、対処もしやすい」


「珍しく優しいな」


「早く飲みたいからな」


真響はそう言って、店の外へ歩いた。


蒼麻もついていく。


蓮二が声をかける。


「お前らどこ行くんだ」


「ちょっと散歩」


「戻ってこいよ、このまま残しておくからなー」


「酒が減ってなけきゃな」


「勝手に減るわけあるか!・・・いや減るのか?」


夜の路地は静かだった。


神楽坂の裏道。

石畳。

提灯の灯り。


夜の路地は静かだった。


神楽坂の裏道の石畳の奥。

提灯の灯り。


どこかの店先から、炙った筍と木の芽の青い香りが流れてくる。


昼間の暖かさを残した石畳も、夜風に冷やされ始めていた。


その中を、蝋梅の香りが先導する。

蝋梅の香りを嗅いだら、蒼麻はもう真響の顔を思い出すだろうと思った。


「プルースト効果ね」


真響が歩きながら言う。


「お前、人間のくせに勘がいいな」


「なんだ急に褒めだして。何か企んでるのか?」


「お前から何か取れると思えないんだがな」


しばらく歩くと、古い建物の前で真響が止まった。


看板は外されている。

シャッターは半分閉まっている。


元・居酒屋。


「ここか。こっちの通りはほとんど来た事なかったな」


蒼麻が言う。


中から、かすかに酒の匂いがする。


だが、どこか“抜けている”気がした。


蒼麻はシャッターの隙間から中を覗いた。


暗い店内。

カウンター。

空の瓶。


そして、その奥に――


人影があった。

いや、人ではない。

ぼんやりとした影。


それが、瓶の口に顔を近づけている。


吸うように。

香りを。


「……いたな」


蒼麻が呟く。


真響は腕を組んだ。


「どうする」


「祓うほどじゃないな」


「そうだな」


蒼麻は中へ入った。


影は気づかない。


ただ、必死に瓶の口へ顔を寄せている。


「……美味かったよな」


蒼麻が言う。


影が止まる。


ゆっくりと振り返る。


顔は曖昧だ。


だが、確かに“人”だった。


「飲めないのか」


蒼麻が聞く。


影は答えない。


だが、震えた。


蒼麻は近くの瓶を手に取る。


空だ。


「もう飲めないから、香りだけでもって?」


影が、かすかに頷いた気がした。


真響が後ろで言う。


「同情するなよ」


「してない」


蒼麻は静かに言う。


「でも、これ続けたら、周りの酒が全部死ぬんだよ」


影が揺れる。


蒼麻は続ける。


「あんたが飲めないのは分かる。でも、他人が飲む酒の氣まで抜いたら駄目だろ」


影が、かすかに後ずさる。


「……戻る場所、あるのか」


蒼麻が聞く。


影は、ゆっくりとカウンターの奥を見る。


そこに、小さな神棚があった。


古い酒瓶が一本、供えられている。


蒼麻はそれを見て、言った。


「そこか」


真響が小さく息を吐いた。


「自分の酒に帰れ、か」


蒼麻は棚から古い酒瓶を取った。


代わりに蓮二の店から持ってきた酒を置いた。


あとで蓮二に怒られるのは覚悟の上だ。


「これ、やるよ」


影が揺れる。


蒼麻は続ける。


「飲むな。香りだけでいい。ここでだ」


影は、ゆっくりとその場へ戻る。


神棚の前。


瓶に顔を寄せる。


今度は、奪うのではなく、受け取るように。


ふっと、空気が変わった。


重さが消える。


香りが、正しく広がる。


影が、少しずつ薄れていく。


真響が言う。


「戻ったな」


蒼麻は頷いた。


「未練の場所に」


影は最後に、かすかに頭を下げた気がした。


そして消えた。


店内に、静かな酒の香りが残る。


蒼麻は瓶を棚からゆっくりと降ろした。


「これで、蓮二の店は大丈夫かな」


「しばらくはな」


真響が言う。


「だが、酒は人の記憶を引く。こういうものは、いくらでも生まれる」


「面倒だな」


「面倒なら酒をやめたらどうだ?」


「それはない」


真響が、わずかに笑った。


「だろうな」


外へ出ると、夜の空気が少しだけ柔らかくなっていた。


真響の揺れる髪から蝋梅の香りが、かすかに流れる。


蒼麻は深く息を吸った。


「なあ真響」


「何だ」


「酒って、やっぱり縁だな」


真響は少しだけ考えて、言った。


「だからこそ、濁るのだろう」


蒼麻は苦笑した。


「綺麗に終わらないな」


「終わらせるものではない」



和灯に戻ると、蓮二はカウンターの中で腕を組んで待っていた。


「で?」


「解決した」


蒼麻はいつもの席に座った。


真響も、当然のように隣へ腰を下ろす。

蓮二は一瞬だけ目を細めたが、何も言わなかった。


「……それでそちらさんは?」


「真響」


蒼麻が答えると、真響は酒器の並ぶ棚を見ていた。


「馴れ馴れしい」


「もう何回か一緒に怪異と遭ってるんだから、多少はいいだろ」


蓮二が小さく咳払いした。


「えーと。普通に紹介してくれるかな?」


蒼麻は少し考えた。


「酒にうるさい狐」


「はい?狐?」


蓮二が真響を見る。


真響は涼しい顔で言った。


「人間にしては、良い店だ」


「……ありがとうございます?」


褒められたのか判断できず、蓮二は微妙な顔をした。


蒼麻は笑った。


「かなり褒めてる。たぶん」


「たぶんって何だ」


「こいつの褒め言葉は基本的に分かりにくい」


真響は蒼麻を横目で見た。


「お前の理解が浅いだけだ」


「ほらな」


蓮二はため息をつき、二人の前に小鉢を置いた。

今日は里芋の煮物だった。


「食え。変なもの見た後は、腹に入れた方がいい」


真響が箸を止める。


「お前、分かっているな」


「経験則です」


蓮二はそう言ってから、少しだけ声を落とした。


「蒼麻」


「何だ」


「うちの店って、なんか霊的なものが出やすい場所なのか?」


蒼麻は盃を持つ手を止めた。


「急だな」


「急じゃない。前から思ってた」


蓮二はカウンターに手をついた。


「閉店後に、誰もいない席に徳利が置いてあったり。厨房の火が勝手に弱まったり。奥の一席だけ、やたら冷えたり。あと、お前がたまに何もないところに向かって『今日はそこ座るな』って言っただろ」


真響が少しだけ興味を示した。


「ほう」


蒼麻は気まずそうに視線を逸らした。


「……昔の話だろ」


「今でもたまにあるからだよ」


蓮二は真顔だった。


「最初に気づいたの、覚えてるか?」


蒼麻は少し黙った。


覚えている。


和灯が開店して間もない頃。

閉店後のカウンターに、誰もいないのに一席だけ気配が残っていた。


蓮二は疲れていて、気づいていなかった。


だが蒼麻には見えていた。


古い作業着のようなものを着た、ぼんやりした影。

出された酒を飲み終えられず、いつまでも席を立てない何か。


蒼麻はその席に、小皿を置いた。

余っていた出汁巻きと、少しだけ酒を注いだ盃。


そして言った。


「食ったら帰れよ。ここは蓮二の店だ」


翌日から、その席の冷えは消えた。


蓮二は、その時から蒼麻が“何かを見ている”と気づいた。


「……あれは、出やすいっていうより、残ってただけだ」


蒼麻はぽつりと言った。


「残ってた?」


「和灯になる前の店の客か、近所の誰かかは分からない。でも、腹が減ってて、酒も飲みたそうだった」


蓮二は顔をしかめた。


「そんな理由であの席にいたのか」


「人間、死んでも食い意地は残るんじゃないか」


「雑な死生観だな」


「俺に詳しい理屈を求めるな」


真響が静かに盃を手に取った。


「この店は、隙間にある」


蓮二が真響を見る。


「隙間?そりゃ小さい店ですけど」


「そういう意味で言ってない。路地裏。酒。火。人の息。帰る場所を探すものには、見つけやすい」


蓮二は少し困った顔をした。


「それ、店としては良いんですかね」


「主の氣が悪ければ、もっと濁っている」


真響は盃に口をつける。


そして、ほんのわずかに目を細めた。


「悪くない」


蓮二は小声で蒼麻に聞いた。


「これ、褒めてんだよな?」


「かなり褒めてる」


三人の間に、少しだけ静かな笑いが落ちた。


蓮二は新しい徳利を出した。


「じゃあ、うちは出やすい場所だけど、悪い場所じゃないってことでいいのか?」


蒼麻は真響を見る。


真響は、答える気がなさそうに酒を眺めている。


仕方なく蒼麻が言った。


「たぶん、帰り道みたいな場所なんだろ」


「帰り道?」


「誰かが迷った時に、ちょっと座って、酒を飲んで、帰っていく場所」


蓮二はしばらく黙っていた。


それから、嬉しそうに小さく笑った。


「悪くないな、それ」


真響がぽつりと言う。


「人間にしては、良い店名だ。和灯。和らぐ灯り、か」


蓮二は目を丸くした。


「そこまで考えてつけたわけじゃないんですけど」


「名は、つけた者の意図より先に育つことがある」


蒼麻はその言葉に、名刺憑きの一件を思い出した。


名前。

肩書き。

縁。


最近、そういうものばかり見ている。


蓮二が、真響の前に小さな盃を置いた。


「よかったら、一杯どうぞ。さっきの酒、香り戻ってるか確認してもらえます?」


真響は盃を受け取った。


「よかろう」


「偉そうだな」


蒼麻が言うと、真響はさらりと返した。


「偉いのでな」


蒼麻は吹き出した。


「自己申告制かよ」


「狐の申告は重いんだぞ」


「初めて聞いたぞ、その制度」


蓮二も少し笑った。


真響は酒を口に含む。


しばらく黙り、静かに言った。


「戻っている」


蓮二の表情がほっと緩む。


「よかった」


「ただし、肴が弱い」


「えっ」


「この酒なら、少し焼いた葱か、炙った味噌がよい。香りが戻った分、受けるものがいる」


蓮二は一瞬固まったあと、真剣な顔になった。


「……なるほど。少々お待ちください」


蒼麻は呆れた。


「蓮二、受け入れが早いな」


「酒と肴の話なら聞くぞ」


「そこは俺たち似てるな」


「一緒にするな」


真響が言った。


蒼麻は真響を見る。


「今の、俺に言った?」


「二人にだ」


「まとめて斬られたな」


蓮二が厨房へ向かい、炭火の準備を始める。


店内に、葱の焼ける香りが少しずつ広がった。


酒の香りも、さっきとは違う。

抜けていない。

ちゃんと整っている。


蒼麻は盃を持ち上げた。


「なあ、真響」


「何だ」


「こういう怪異も、けっこういるのか」


「いる。人間が何かを愛せば、そこに縁ができる。縁がほどけ損ねれば、影が残る」


「酒が好きだっただけでも?」


「好きだっただけ、ではない。好きだったものに帰れなくなった」


蒼麻は黙った。


先ほどの影を思い出す。


飲めなくなって、香りだけを盗っていた男。

悪意は薄い。

ただ、戻れなかった。


「……少し寂しいな」


真響は盃の中を見た。


「寂しさは、怪異になりやすい」


「それって経験談か?」


真響は答えなかった。


ただ、盃を静かに置いた。


その沈黙に、蒼麻はそれ以上踏み込まなかった。


代わりに、自分の盃へ酒を注ぐ。


「まあ、今日は戻せたからいいか」


「軽いな」


「重くすると酒がまずくなるだろ」


真響は蒼麻を見た。


その目は、いつものように冷たく鋭い。

けれど、ほんの少しだけ、柔らかかった。


「お前は、酒を言い訳にするのが上手いようだな」


蒼麻は笑った。


蓮二が炙った葱味噌を出す。


「はい。真響さん監修、即席版」


「監修した覚えはない」


「助言料は酒です」


「わたしの監修だ。この時期なら木の芽味噌でもよい」


蓮二は蒼麻に目配せした。


蒼麻は肩をすくめる。


三人で、少しだけ盃を合わせた。


かすかな音がした。


ちん、と。


水守の蔵で聞いた、盃の音に似ていた。


だが今度は、どこか明るい。


真響はその音を聞いて、ほんの一瞬だけ目を伏せた。


蒼麻は気づいたが、何も言わなかった。


言わないことも、距離の取り方だと思った。


店の外を、夜風が通る。


蝋梅の香りが、ほんの少しだけ混じっていた。


けれど今夜は、それが遠い警告のようには感じなかった。


和灯の中に、酒と葱味噌の香りが満ちる。


蓮二がぽつりと言った。


「まあ、変なものが来ても、食って飲んで帰ってくれるなら、うちの店らしいかな」


蒼麻は笑った。


「懐が広いな」


「出禁にはするけどな。暴れるやつは」


真響が静かに言う。


「その時は斬ればいい」


蓮二が固まる。


蒼麻は盃を傾けた。


「……出禁の概念が強いな」


真響は薄く笑った。


「店を守るなら、それくらいでよいぞ」


その笑みは一瞬だった。


けれど蒼麻には、確かに見えた。


黒狐は、ただ闇を纏うだけではない。

帰る場所の灯りを、嫌いではないのだと。


蒼麻はもう一度、盃を満たした。


「じゃあ、和灯の無事に」


蓮二が盃を上げる。


「ついでに、酒の香りにも」


真響は少し遅れて、盃を持ち上げた。


「縁が濁らぬように」


三つの盃が、静かに触れた。


今夜の酒は、いい香りだった。


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