第七話 白の名
白い名刺が、雪のように舞っていた。
天井のシャンデリアの光を受けて、ひどく綺麗に見える。
だから余計に質が悪い。
蒼麻は一枚を指で弾いた。
紙の感触。
軽い。
だが、触れた瞬間、ほんの一瞬だけ“自分の肩書き”が頭に浮かぶ。
役職。
立場。
説明しやすい自分。
「……これ、やっぱり嫌だな」
「当然だ」
真響が横で言った。
黒い狐火が、舞う名刺の一部を焼き払う。
だが焼かれたはずの紙は、灰にならず、また白に戻る。
「燃えないのか」
「燃やすものではない」
「じゃあ何だ」
「剥がすものだ」
蒼麻は眉を寄せた。
「簡単に言うなよ」
「簡単ではない」
真響の声は冷静だった。
「だが理は単純だ。あれは“名”を奪っているのではない。名の上に、別のものを重ねている」
蒼麻は宙を飛び交う名刺を見た。
白い紙。
肩書きだけが浮かび上がる。
名前は、その下に埋もれていく。
「……上書きか」
「そうだ」
真響は、中央の男を見据えた。
「人間は、肩書きを名だと思い込みやすい。そこに付け込んでいる」
蒼麻は小さく笑った。
「厄介なところを突いてくるな」
「お前のやり方もそうだろう」
「俺の肩書はまだ“酒好き”くらいしかないんでね」
「それでなんとかなる」
真響の言葉は適当であったが、妙に引っかかった。
その間にも、会場では異変が広がっていた。
「私は〇〇株式会社の……」
「私は……あれ、私は……」
「名刺……名刺を……」
人々が、自分の胸元を見ている。
名前が揺れている。
蒼麻は一歩前へ出た。
中央の男が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「あなたは、分かっているようだ」
顔は見えない。
だが、声には確かな意思がある。
「名刺は、ただの紙ではない。人の価値を可視化するものだ」
「嫌な言い方だな」
蒼麻は答える。
「価値ってのは、そんな紙一枚に収まるもんじゃないだろ」
「だが、人はそれで判断する」
男は一枚の名刺を掲げた。
そこに浮かぶ文字が、次々と変わる。
社長。
顧問。
理事。
投資家。
専門家。
「肩書きがあれば、人は耳を傾ける。肩書きがなければ、誰も見ない」
蒼麻は首を傾げた。
「それは、あんたがそう思ってるだけじゃないのか」
男の輪郭が、わずかに揺れた。
真響が低く言う。
「そこだ」
蒼麻は続けた。
「確かに、肩書きは分かりやすい。便利だ。でも、それが全部じゃない」
男は沈黙する。
蒼麻は、ゆっくりと周囲を見た。
名刺を握りしめている人々。
肩書きを口にし続けている男。
自分の名前を探している女。
「なあ」
蒼麻は会場に向かって呼びかけた。
「ここにいるみんな、全員“自分の名前”で呼ばれたこと、あるはずだろ」
誰も答えない。
だが、何人かの目が揺れた。
「親とか、友達とか、昔の知り合いとか」
蒼麻は続ける。
「肩書きじゃなくて、ただ名前で」
白い名刺の動きが、ほんのわずかに鈍った。
真響が目を細める。
「揺らいでいる」
蒼麻は赤ペンを握る。
「だったら、そこから戻せばいい」
男が笑った。
「戻ると思っているのか?」
「戻るよ」
蒼麻はあっさり言った。
「名前の方が先にあるんだから」
その言葉に、真響が一瞬だけ驚いたように蒼麻を見た。
蒼麻は気づかない。
ただ、目の前の名刺を見ていた。
白い紙。
そこに浮かびかけた名前。
蒼麻は、一枚の名刺を掴んだ。
そして、その上に線を引く。
今度は、横線ではない。
縦に、ゆっくりと。
肩書きを断ち切るように。
赤い線が光る。
その瞬間、名刺の中から、声が漏れた。
――違う。
蒼麻は、さらに書き足す。
小さく。
だが、はっきりと。
名前だけを。
その人の名前を、思い出すように。
すると、名刺が震えた。
白い紙が、わずかに色を取り戻す。
男が一歩下がった。
「何をした」
「戻しただけだよ」
蒼麻は笑う。
「元の順番に」
真響が静かに言う。
「名が先。肩書きは後」
「そういうこと」
蒼麻は次の名刺を掴む。
一枚、また一枚。
すべてに同じことをするわけではない。
人によって違う。
ある人には、ただ線を引く。
ある人には、名前をなぞる。
ある人には、何も書かず、手で握るだけ。
縫い止めない。
押し付けない。
思い出させる。
それだけ。
白い名刺の群れが、次第に数を減らしていく。
床に落ちた紙は、ただの紙に戻る。
会場の空気が、ゆっくりと戻ってくる。
男は動かない。
その輪郭が、薄くなっていく。
「なぜだ」
男が言った。
「なぜ、肩書きを捨てさせる」
蒼麻は少し考えた。
「捨てさせてない」
「なら、何だ」
「順番を戻してるだけ」
男は沈黙する。
蒼麻は続けた。
「肩書きは悪くない。でも、それが先に来ると、たぶん歪む」
真響が小さく頷いた。
「その通りだ」
蒼麻は男を見る。
「……あんたは、名前で呼ばれたこと、ないのか?」
その問いに、男の輪郭が大きく揺れた。
初めて、声が崩れる。
「……ない」
小さな声だった。
「誰も……」
白い名刺が、一枚、はらりと落ちた。
そこには、何も書かれていなかった。
蒼麻は、その名刺を拾った。
しばらく見てから、小さく書いた。
“ただの人”
男の輪郭が、静かに崩れていく。
真響が狐火を消した。
「終わりだな」
会場には、静けさが戻っていた。
人々は、戸惑いながらも、自分の名札を見ている。
「……俺、さっき何してた?」
「名刺交換……?」
「なんか、変な感じが」
蒼麻は深く息を吐いた。
「かなり疲れるな、これ」
「当然だ」
真響が言う。
「名は重い」
蒼麻は苦笑した。
真響は少しだけ目を細めた。
「だが、お前のやり方は悪くない」
「どうせまた少しだけって言うんだろ」
「少しで十分であろう?」
蒼麻は笑った。
その時、会場の窓から夜風が入った。
蝋梅の香りが、ほんの一瞬だけ漂う。
蒼麻は振り返る。
真響は、もういなかった。
「……帰るの早いな。酒はちゃんと飲んだのかな、あいつ」
ポケットの中の札が、かすかに温かい。
蒼麻はそれを握りしめた。
肩書き。
縁。
全部が、まだ中途半端かもしれない。
でも、少なくとも今は――
「神代蒼麻かみしろそうま」
自分の名前を、もう一度心の中で言う。
それだけで、十分だろう。
外に出ると、日本橋の夜はいつも通りだった。
ネオン。
車の音。
人の流れ。
アスファルトの匂い。
蒼麻は、少しだけ空を見上げた。
「……酒、ちゃんと飲んで帰りたいな」
静かな夜に、小さく呟く。
そして、いつものように歩き出した。




