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第六話 名刺憑き

水守酒造の件から数日経っていた。


蒼麻は、神楽坂の小料理屋「和灯」で、いつものようにカウンターの端に座っていた。


目の前には、長野から送られてきた水守(みもり)酒造の酒。

ラベルには、水守の月とある。


米不足と価格高騰の昨今、65%磨きでこの綺麗さは脱帽である。


改めて良い酒蔵だと蒼麻は思った。


しっかりとした旨味と綺麗な酸が食指を動かしてくれる。


そしてあの夜のことを思い出す。


黒狐。

月影様。

古い井戸。

失われた神酒、月守。


そして、蝋梅の香りを残して消えた女。


真響(まゆら)


「珍しく静かだな」


蓮二が言った。


「いつも静かだろ」


「いつもは酒を飲みながら、何かしら文句を言ってるじゃないか」


「そんなに言ってるか?」


「言ってるな。だいたい、今月の酒代が足りない事と買ってもストックする場所がない事と妹さんの経費精算の事」


「うん、どれも重要案件の話だな」


蓮二は呆れたように笑い、蒼麻の脇に3種きのこのバター醤油炒めを置いた。


蒼麻が盃を持ち上げた、その時だった。


スマートフォンが震える。


画面には、妹の名前。


神代麻那(かみしろ まな)


蒼麻は、盃を置いた。


「……出たくない」


「出ろよ」


「このタイミングで電話が来ると、仕事の事を考えながら酒を飲む事になる」


「経費で落ちるならいいじゃないか」


「上限があるし」


「そこを気にするんだな」


蒼麻はため息をついて、通話を取った。


「もしもーし」


『お兄ちゃん、今飲んでる?』


「軽く飲み始めたとこ」


『よかった』


「その“よかった”は、だいたいよくない」


電話の向こうで、麻那が笑った。


『もう1件手伝って欲しいんだ。今度は東京の案件。近いよ』


「近いから軽いとは限らない」


『うん。軽くはないかも』


「最初から不穏じゃないか」


『でも、お兄ちゃん向き』


「その言い方も不穏だ」


麻那の声が、少しだけ仕事の色を帯びた。


『ある企業交流会で、参加者が変なんだって』


「交流会?」


『経営者、投資家、士業、コンサル、政治家の関係者。名刺が飛び交うタイプの会』


蒼麻は露骨に嫌な顔をした。


「行きたくない」


『まだ内容言ってないよ』


「その時点で行きたくない」


『名刺交換した人たちが、少しずつおかしくなってる』


蒼麻の手が止まった。


「おかしくって?」


『自分の名前を間違える。肩書きばかり口にする。昔からの知人を覚えていない。逆に、会ったばかりの相手の肩書きには異様に執着する』


「認知症とか、薬物とかの線は?」


『一応調べた。でも、違う可能性が高い。共通点は、ある人物と名刺交換したこと』


「その人物っていうのは?」


『分からない』


「分からない?」


『名刺は残ってる。でも、誰に聞いても顔を思い出せない』


蒼麻は黙った。


水守の月の香りが、意識から遠のいていく。


『お兄ちゃんには、会場に入って様子を見てきてほしいの』


「俺、そういう場に向いてないぞ」


『知ってる』


「知ってて言うのかよ」


『でも、お兄ちゃんは肩書きにあまり興味がないでしょ』


「名刺交換そのものが苦手だな」


『そこがいいの』


「褒められてる気がしない」


『すごく褒めてる』


蒼麻は蓮二を見る。

蓮二は「どうせ行くんだろ」という顔をしていた。


「場所は?」


『日本橋。兜町に近いホテルの会場。明日の夜』


「麻那の会社の近くか」


『うん。だから、こっちでも監視はする。でも、お兄ちゃんの目で見てほしい』


「また“見るだけ”か」


『今回は、名刺をもらわないでほしいの』


蒼麻は眉を寄せた。


「名刺交換の会で?」


『うん。できるだけ避けて。どうしても必要なら、受け取るだけ。自分の名刺は渡さないで』


「俺、そもそも名刺持ってないけど」


『そこは助かる』


「社会人としてどうなんだろ」


『今回は長所』


麻那は少し間を置いて、静かに言った。


『それと、お兄ちゃん』


「何だ」


『もし、自分の名前が分からなくなりそうになったら、すぐに会場を出て』


蒼麻は返事をしなかった。


名前。


人が人であるための、最初の輪郭。


それを奪う怪異だとしたら、帳簿憑きとは比べものにならない。


「分かった」


『ありがとう』


「仕事あとの飲み代は出る?」


蒼麻もここぞとばかりに必死である。

手元を動かしながら蓮二もにやけていた。


『うーん、上限内なら』


「結局そこだよな」


通話を切った後、蒼麻はしばらく盃を見ていた。


蓮二が静かに言う。


「妹さん今度は何だって?」


「名刺が人を食うかもしれない」


「なんて?」


「比喩であってほしい」


蓮二は少しだけ真面目な顔になった。


「おぉ。名刺って、怖いよな」


「急にどうした」


「名前より肩書きが前に出るだろ。料理人でも、店主でも、代表でも、肩書きで呼ばれ続けると、たまに自分が何だったか分からなくなる」


蒼麻は蓮二を見た。


「……たまに、いいこと言うな」


「毎回いいことしか言ってない」


「それはない」


蓮二は笑った。


蒼麻は水守の月を一口飲んだ。


澄んだ酒だった。

あの蔵は、きっと月守造りに奔走するだろう。


忘れたものを思い出すために。約束を思い出すために。


そして今度は、名前を忘れる者たちの話だ。


蒼麻は盃を置き、小さく呟いた。


「名前より肩書きが重くなったら、そりゃ化けるよな」


その時、店の外を冷たい風が通った。


ほんの一瞬、あの花の香りがした。


蒼麻は暖簾の方を見る。


真響の姿はない。


けれど、どこかで聞こえた気がした。


――人間は、名を軽んじる。


蒼麻は苦笑した。


「早く出て来いよ、水守の月まだ残ってるぞ」


返事はない。


ただ、夜の奥で、何かが静かに笑ったような気がした。



翌日の夕方。


蒼麻は、麻那の会社に立ち寄った。


日本橋兜町。

証券会社や金融関連のビルが並ぶ街。


金と情報と信用が、目に見えない川のように流れている場所だった。


神代商工会調査機構のオフィスは、その一角にあった。


外観は堅い。

看板も控えめ。

だが、中に入ると空気が違う。


受付の花は整いすぎていて、廊下は静かすぎる。

普通の会社の顔をしているのに、奥には何か、神社の社務所に似た気配があった。


「まるで静謐な霊廟みたいだ」


麻那は会議室で待っていた。


「お兄ちゃん、こっち」


スーツ姿の麻那は、家で見てきた妹とは別人のようだった。


表情は柔らかい。

けれど、目だけは鋭い。


「資料は?」


「ここ」


麻那はタブレットを渡した。


画面には、今回の交流会の参加者名簿が表示されている。


会社代表。

投資顧問。

地方自治体関係者。

医療法人理事。

外資系ファンド。

コンサルタント。


肩書きの圧が強い。


「名刺が人を殴ってきそうな名簿だな」


「実際、殴ってくるかも」


「笑えない冗談だな」


麻那は真面目な顔で頷いた。


「怪異の仮称は、名刺憑き」


「そのままだな」


「分かりやすいでしょ」


蒼麻は資料をめくる。


被害者の欄には、数名の名前が並んでいた。


共通点は、ある交流会で同じ名刺を受け取ったこと。


しかし、その名刺に書かれている名前は一定しない。


ある人の手元では、

黒瀬慎一 事業創造アドバイザー


別の人の手元では、

白鳥宏明 未来戦略研究所 代表


さらに別の名刺では、

赤岩総研 特別顧問


肩書きも会社名も変わる。

だが、紙質だけが同じ。


奇妙に白い名刺。


「顔を誰も思い出せないっていうのは?」


「会った記憶はある。でも、思い出そうとすると顔がぼやける。声も曖昧。なのに、肩書きだけは強く残る」


「肩書きを食わせてるのか」


「あるいは、肩書きで釣っている」


麻那は、蒼麻をじっと見た。


「お兄ちゃんは、自分を何者だと思ってる?」


「急に何だよ」


「確認」


蒼麻は少し考えた。


「神代蒼麻。麻那の兄。蓮二の店の手伝い。酒好き。たまに調査員」


「肩書き薄いね」


「わざわざ言わせるなよ」


「ううん。それでいい」


麻那は小さな封筒を差し出した。


中には、白い札が三枚入っている。


「危なくなったら使って。名刺に貼るか、胸元に当てて」


「また簡単な説明だな」


「今回はまだ詳しい使い方が分からないから」


「正直だな」


「お兄ちゃんに嘘つくと、だいたいバレるから」


蒼麻は封筒を受け取った。


「麻那」


「なに?」


「この件、神代一族の誰かが絡んでる可能性は?」


麻那の表情が、一瞬だけ消えた。


「ある」


「やっぱりか」


「経済界の怪異は、自然発生だけじゃない。育てる人もいる」


「嫌な表現だな」


「欲望は、餌として優秀だから経済界は怪異が発生しやすい」


蒼麻はタブレットを閉じた。


「人の肩書き、立場、見栄、承認欲求。それを餌にする怪異か」


「うん」


「俺、場違いすぎないか」


麻那は笑った。


「だからいいんじゃない」


「またそれか」


「お兄ちゃんは、肩書きで人を見ないでしょ」


蒼麻は返事をしなかった。


見ない、というより、苦手なだけだ。


肩書きを見た瞬間、人の輪郭が少し遠くなる。

何をしている人かは分かる。

でも、その人が何を失って、何を欲しがって、何を恐れているのかは、肩書きからは見えない。


酒の方がまだ分かりやすい。


甘い。

荒い。

おだやか。

澄んでいる。

濁っている。


人も、それくらいわかりやすかったら楽なのに。


「行ってくる」


「うん。無理しないでね」


「それ毎回言ってるよな」


「毎回心配してるもん」


蒼麻は少しだけ黙った。


麻那の声には、子供の頃と同じ響きがあった。


兄を頼る妹の声ではない。


兄を失うことを恐れている声。


「大丈夫だよ」


蒼麻は軽く言った。


「俺は肩書きが薄いから、食われるところも少ないぞ」


麻那は笑わなかった。


「そういう人ほど、名前ごと持っていかれることもある」


蒼麻は封筒を鞄に入れた。


「気をつける」


それだけ言って、会議室を出た。


交流会の会場は、日本橋のホテルだった。


高い天井。

眩しいシャンデリア。

磨かれた床。

並ぶグラス。

整いすぎた笑顔。


名刺入れを手にした人々が、あちこちで頭を下げている。


「初めまして」

「いつもお世話になっております」

「ぜひ一度、お話を」

「御社の取り組み、大変興味深く」


言葉が丁寧なほど、場の空気は濁っていく。


蒼麻は、受付で胸元に参加証をつけられた。


そこには、こう書かれている。


神代商工会調査機構 神代蒼麻


「……肩書き、増えてるな」


麻那の仕業だろう。


蒼麻は会場の端に立ち、全体を眺めた。


見える。


いや、まだはっきりとは見えない。


だが、名刺が交換されるたびに、白い紙の端から細い糸のようなものが伸びている。


それは相手の胸元に絡み、名札や社章やネクタイピンに巻きついていく。


糸は黒くない。


白い。


だから余計に気味が悪かった。


清潔すぎる白。

空白の白。

何も書かれていない名刺のような白。


「……いるな」


蒼麻は小さく呟いた。


その時、背後から声がした。


「神代商工会の方ですか?」


振り返ると、中年の男が立っていた。


仕立てのいいスーツ。

柔らかな笑顔。

手には名刺。


「初めまして。わたくしこういう者です」


男は名刺を差し出した。


蒼麻は受け取らなかった。


名刺交換対策として片手にスマートフォン、片手に水の入ったグラスを持っている。


「すみません、今ちょっと手が塞がっていて」


「では、後ほど」


男は自然に笑い、別の相手へ向かった。


普通の人間だ。


だが、その後ろ姿に、白い糸が一本絡んでいる。


蒼麻は目で糸を追った。


糸は会場の中央へ伸びていた。


人の輪の中に、ひときわ白い名刺を持つ男がいる。


顔が、見えない。


そこに立っていることは分かる。

声も聞こえる。

動きも見える。


なのに、顔だけが記憶に入ってこない。


目を向けた瞬間、視界が滑る。


「……あいつか」


蒼麻が一歩踏み出した時、会場の空気が変わった。


白い名刺の男が、誰かと名刺を交換した。


その瞬間、相手の男性が笑顔のまま固まる。


そして、ゆっくりと言った。


「私は、株式会社東雲開発の代表取締役です」


隣にいた女性が笑った。


「存じ上げておりますよ」


男はまた言った。


「私は、株式会社東雲開発の代表取締役です」


声に感情がない。


もう一度。


「私は、株式会社東雲開発の代表取締役です」


その目から、本人の色が消えていく。


蒼麻の背筋が冷えた。


名前ではない。


肩書きだけが残っている。


蒼麻は鞄に手を入れ、麻那から渡された札を掴んだ。


その時、鼻先をかすめる香りがあった。


蝋梅。美しいあの女の気配。


蒼麻は振り返る。


会場の端、柱の影に、黒髪の髪の長い女が立っていた。


黒いドレス。

白い指。

狐のような琥珀の瞳。


真響(まゆら)


蒼麻は思わず声を殺して言った。


真響がゆっくりと近寄ってくる。


「なんでいる」


真響は、会場を見渡して眉をひそめた。


「酒が不味くなる場だな」


「酒目当てかよ」


「違う」


「じゃあ何で」


真響は白い名刺の男を見た。


「名を喰う匂いがした」


蒼麻は小さく息を吐いた。


「やっぱりあの“怪異”のことだよな」


「半分はな」


「半分?」


真響の目が冷える。


「あれは、人間が育てたものだ」


その言葉と同時に、会場中央の男がこちらを向いた。


顔は見えない。


けれど、笑ったことだけは分かった。


男は、白い名刺を一枚取り出す。


そして、蒼麻へ向かって歩いてきた。


「初めまして」


声は、やけに聞き取りやすかった。


「ぜひ一度、ご挨拶を」


蒼麻の胸元の参加証が、かすかに震えた。


神代蒼麻の文字が、白く滲み始める。


真響が低く言った。


「受け取るな」


蒼麻は苦笑した。


「言われなくても」


男は名刺を差し出す。


その白い紙には、まだ何も書かれていなかった。


空白の名刺。


だが、蒼麻には見えた。


そこに、ゆっくりと文字が浮かび上がる。


神代蒼麻


その下に、見知らぬ肩書きが刻まれていく。


神代商工会調査機構 特別観察官


「……おー、勝手に盛るなよ」


蒼麻は呟いた。


男の口元が笑う。


「あなたは、そういう者でしょう?」


その瞬間、蒼麻の頭の奥が白く霞んだ。


自分の名前。

自分の輪郭。

蓮二の店。

麻那の声。

水守の月。

真響の蝋梅の香り。


すべてが名刺の白に吸い込まれそうになる。


真響の黒い狐火が灯った。


「蒼麻」


名前を呼ばれた。


その声が、白い霞を裂いた。


蒼麻は息を吸う。


「……ああ」


自分の名前を、胸の中で言い直す。


神代蒼麻。


麻那の兄。

酒好き。

和灯手伝い。

調査員。

そして、まだ自分が何者か分かっていない男。


それで十分だ。


蒼麻は麻那の札を取り出し、空白の名刺へ貼ろうとした。


だが、真響が言った。


「貼るな。固定される」


蒼麻の手が止まる。


「じゃあどうする」


「名を返せ」


「どうやって」


「お前の得意なことだろう」


「俺の得意なこと、酒を飲むことなんだけど」


「では、今だけ別の得意を探せ」


「この状況で無茶言うな」


蒼麻は名刺を見た。


空白。

肩書き。

名前。

人の輪郭を紙に閉じ込めるもの。


帳簿の余白とは違う。


月影様の井戸とも違う。


これは、縫い止めてはいけない。


剥がす。

戻す。

名前を、本人へ返す。


蒼麻は赤ペンを取り出した。


白い名刺の男が、初めて動揺したように見えた。


「何をする」


「訂正」


蒼麻は、空白の名刺に浮かびかけた肩書きへ、一本の線を引いた。


神代商工会調査機構。

特別監察官。


その文字を、赤い線が横切る。


そして残った名前の上に、蒼麻は小さく書いた。


“ただの蒼麻”


真響が一瞬、呆れた顔をした。


「なんだそれは」


「効けばいいだろ」


赤い線が光った。


空白の名刺から、白い糸が一斉に震える。


会場のあちこちで、肩書きだけになりかけていた人々が、はっと息を吸った。


「……あれ、俺、何を」

「私、誰と話して……」

「なんで名刺をこんなに」


白い名刺の男が、低く笑った。


「名前だけで、人は立てない。肩書きがなければ、誰もあなたを見ない」


蒼麻は男を見る。


やはり顔は見えない。


だが、声の奥に、ひどく人間臭いものがあった。


恐れだ。


誰にも覚えられない恐れ。

肩書きがなければ価値がないという恐れ。

名刺の中にしか自分を残せない恐れ。


「それは、あんたの話なのか」


男の輪郭が揺れた。


真響が黒い狐火を強める。


「蒼麻、来るぞ」


白い名刺が、会場中から舞い上がった。


紙の群れが、鳥のように宙を舞う。


一枚一枚に、誰かの肩書きが浮かび、消え、また別の肩書きに変わる。


代表。

顧問。

理事。

責任者。

役員。

専門家。

先生。


名刺の雪が降る。


白すぎる雪だった。


蒼麻は、その中心で赤ペンを握り直した。


「真響」


「何だ」


「これ、酒より厄介だな」


「どうして酒と比べてるんだお前は」


「酒席にも出るだろ、こういう怪異」


真響は薄く笑った。


「ならば祓え。酒が不味くなる前に」


蒼麻も笑った。


「了解」


白い名刺の群れが、二人へ襲いかかった。

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