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第五話 玄狐の記

一番最初に書きたかったものをこの5話でまず書けました。

読んでくださった皆さま

引き続き宜しくお願い致します(*'ω'*)

祠から滲み出した黒い泥は、酒の匂いを帯びていた。


甘い。

けれど、腐りかけた果実のように重い。


真響の黒い狐火が、その泥を包みこんだ。


「下がれ」


「はいはい、言われなくても下がりますよ」


蒼麻は簡易札を構えたまま、一歩引いた。


黒い泥は、祠の石段を伝い、ゆっくりと地面へ広がっていく。

ただの水ではない。

水守酒造の水場と、祠と、蔵の奥に沈んでいた記憶が混ざり合ったものだ。


泥の表面に、月のような光が揺れた。


その中に、狐の目が浮かぶ。


――返して。


女の声がした。


水守社長が息を呑む。


「今の声は……」


「聞こえたんですね」


蒼麻が言うと、水守は青ざめた顔で頷いた。


杜氏の塩尻は祠を睨んでいる。


「月影様か」


真響が静かに答えた。


「正確には、月影と呼ばれたものの残滓だ。もう本体ではない」


「残滓?」


「縁だけが残っている。酒と水と約束に縛られてな」


蒼麻は真響を見る。


「その約束って何だ」


「それを知るために、お前はここへ来たのだろう」


「警告したくせに」


「来た以上は働かなければな。経費で酒が飲めるぞ」


「急に雇用主みたいなこと言うな」


真響は答えず、祠の奥を見た。


黒い泥は狐の形を作りかけては崩れ、また泥に戻る。

敵意は薄い。

だが、焦りと飢えに近いものを感じる。


放っておけば怪異になる。


真響の言葉は、たぶん正しい。


蒼麻は水守に向き直った。


「この蔵に、古い記録はありますか。黒狐、月影様、祠、昔の酒について書かれたもの」


水守は少し考えた後、はっと顔を上げた。


「土蔵に、古い帳面や家記があります。祖父の代から整理されていないものですが」


「調べましょう」


塩尻が低く言う。


「今すぐですか」


「今すぐです。あれが何を返せと言っているのか、分からないまま札を貼るのは危ない」


蒼麻は、祠の黒泥を見た。


「たぶん、これは祓うだけじゃ駄目です」


真響がわずかに目を細めた。


「少しは分かっているようだな」


「それって褒めてる?」


「ほんの少しだけな」


水守の案内で、一同は急ぎ蔵の奥にある古い土蔵へ向かった。


真響も当然のようについてくる。


宮坂が小声で蒼麻に尋ねた。


「あの方は……神代さんのお知り合いの霊能者の方ですか?」


夜の酒蔵に女がふらっと入ってくるはずがない。


するりと会話に入り込み、立ち振る舞いは完全に関係者である。

蒼麻の仕事仲間が遅れてやってきた、そう思うのは当然だろう。


蒼麻は少し迷った。


知り合いかと言われると、たった今名乗り合ったばかりである。

だが、まったく知らないとも言いづらい。


「酒にうるさい狐専門家です」


「狐の専門家ですか?」


「狐火に造詣が深いそうです」


蒼麻は口から出まかせを言ってみた。


「蒼麻さんって、あの怪異祓いの神代一族の方なんですよね」


「俺は事前調査員といったところですね」


土蔵の中に入ると、紙と木と古い埃の匂いがした。


棚には帳面、巻物、古い酒造記録、神社の札、破れかけた地図が積まれている。


塩尻が、棚の奥から桐箱を取り出した。


「これは先々代が、大事なものだと言っていました」


箱を開けると、中には古びた写しが数冊入っていた。


蒼麻はその一つを慎重に開く。


文字は古い。

だが、読めないほどではない。


神代の家に近い場所で育ったせいか、蒼麻は古文書の類にまったく縁がないわけではなかった。

好きではない。

読めと言われれば読む、程度だ。


「……玄狐」


その文字が目に入った瞬間、真響の気配が少し変わった。


蒼麻は続きを読んだ。


「和銅五年、秋七月。伊賀国より玄狐を献ず……」


水守が眉を寄せる。


「玄狐とは?」


「黒狐のことです」


蒼麻はページをめくった。


そこには、別の筆で注釈が書き込まれている。

正史の写しではない。

水守家か、あるいは水守家に関わった陰陽師筋が残したものだろう。


和銅元年、隠岐国に長雨大風あり。

諸国に疫病を見る。

和銅二年、隠岐国また飢え、河内、摂津、山背、伊豆、甲斐、連雨により苗を損ず。

和銅三年、都を平城に遷す。

四月、旱。祈雨あり。

六月、長雨。


蒼麻は思わず顔をしかめた。


「天候が荒れすぎだろ」


真響が淡々と言う。


「水の巡りが狂っている」


「当時の人間も、そう見たらしい」


蒼麻はさらに注釈を読む。


和銅三年、庚戌(かのえ いぬ)

(かのえ)は金の兄。(いぬ)は金気を帯びる。

金生水(きんしょうすい)。水害を憂う。


和銅四年、辛亥(かのと い)

辛は金の弟。亥は水の生気。

金、水を生ず。水気さらに盛んなり。


和銅五年、壬子(みずのえ ね)

(みずのえ)は大水。子は水の旺気。

天干地支(てんかんちし)ともに水。水気もっとも盛んなる年。


宮坂がぽつりと言った。


「まるで、災害を予測していたみたいですね」


「予測というより、恐れていたんでしょうね」


蒼麻は次の行を見た。


水、多きに過ぐれば土をもって鎮む。

狐、土気を司るものなり。

ゆえに狐神を勧請(かんじょう)し、土剋水(どこくすい)の理をもって水を制す。


「狐神勧請鎮祭……」


水守社長が驚いたように顔を上げた。


「それは、うちの祠にゆかりのある古い名です。祖父が一度だけ、そう呼んでいた」


蒼麻は真響を見た。


「黒狐は、水害を抑えるための土気の神として祀られた?」


真響は祠の方角を見た。


「黒は水。狐は土。相剋(そうこく)をその身に抱かされたものだ」


その声には、かすかな棘があった。


蒼麻は気づく。


真響はこの理屈を嫌っている。


たぶん、神を(ことわり)で縛る人間のやり方を。


「つまり、黒狐は水を背負わされ、同時に水を抑えろと祀られた」


「人間は都合がいい」


「否定はできないな」


「しかも、効いた」


真響は小さく言った。


「効いたからこそ、縁は残った」


蒼麻は続きを読んだ。


和銅四年辛亥(かのと い)、二月戌午日。

水気を鎮むるため、狐神を迎え、酒を供う。

善政を施し、天より豊作を賜る


この古代の記録から水守は黒狐を祀り魂を込めた酒を供え、五穀豊穣と水禍を退ける事を祈願することとする。


その酒、月を映す水にて醸すこと。

名を――


文字が掠れている。


蒼麻は目を凝らした。


「……月守(つきもり)?」


塩尻が反応する。


「水守の古い銘柄に、月守という酒があったと聞いたことがあります」


「今は造っていない?」


水守が頷いた。


「製法が失われています。米も、水の汲み方も、麹の扱いも分からない。今の『水守の月』は、その名を受け継いだものです」


真響が低く言った。


「違う、という声の意味はそれか」


蒼麻の脳裏に、蔵の奥で聞いた声が蘇る。


――あの酒ではない。

――あの月ではない。

――返して。


「月影様は、昔供えられていた酒を探している」


宮坂が呟く。


「でも、その酒はもう造れない」


黒い泥が遠くでざわめいたような気がした。


土蔵の中の空気が冷える。


蒼麻は写しをさらにめくった。


すると、最後の方に別の紙が挟まれていた。


かなり新しい。

とはいっても、百年以上は経っているだろう。


塩尻が目を細める。


「これは……」


蒼麻はそこに書かれた名前を見た。


水守弥一郎(みもり やいちろう)


水守社長の顔が変わる。


「曾祖父です」


蒼麻は紙を読み上げた。


「月守の仕込みを絶つ。祠への供えも、以後、水守の月をもって代える。古き法は時代に合わず。月影様も、いずれ新しき酒を受け入れ給うべし」


宮坂が困惑する。


「それだけなら、そこまで悪いことには……」


「続きがあります」


蒼麻は声を落とした。


「ただし、古法に用いた井戸は封ず。祠の奥の石室も閉じる。水脈の乱れ、蔵の害となるを恐るるため」


塩尻の顔が険しくなった。


「井戸を封じた?」


水守が首を振る。


「聞いたことがありません。蔵の水は今の湧水だけだと」


真響が静かに言った。


「封じたのは井戸だけではない」


蒼麻は頷いた。


「たぶん、約束も封じた」


その瞬間、土蔵の外から狐の鳴き声が響いた。


こん。


さっきよりも強い。


続けて、蔵の奥からも。


こん。


祠と蔵が呼び合う。


水守が青ざめた。


「神代さん、これは……」


「月影様は酒を盗んでいるんじゃない。供えられるはずだった酒と、封じられた水と、忘れられた約束を探している」


「では、どうすれば」


蒼麻は古文書を見下ろした。


失われた酒。

封じられた井戸。

黒狐の祠。

水を鎮めるために呼ばれた土気の狐神。


ここで無理に祓えば、たぶん蔵の水そのものが傷む。


それは避けたい。


「まず、封じた井戸を探します」


塩尻が頷いた。


「蔵の奥ですね」


水守は不安そうに言う。


「ですが、夜に?」


真響が答えた。


「夜でなければ開かぬ」


蒼麻は真響を見る。


「知ってるのか」


「月と水と狐の縁だ。昼に開くと思う方がおかしい。鈍すぎる」


「言い方がひどい」


「事実だ」


「はいはい」


真響は、祠の方を見た。


蝋梅の香りが濃くなる。


「急げ。残滓が怪異に傾きかけている」


一同は土蔵を出て、仕込み蔵の奥へ向かった。


夜の蔵は、先ほどよりも冷えていた。


タンクの間を抜けるたび、酒の香りが変わる。

新しい醪の若い香り。

麹の甘い香り。

木と水の匂い。


その奥に、古い井戸の気配があった。


塩尻が壁際の床を叩く。


「ここか」


古い板張りの一部が、わずかに違う音を返した。


水守と宮坂が工具を持ってきて、板を外す。


その下に、石蓋があった。


古い注連縄の跡が残っている。


蒼麻の胸の奥が締め付けるように熱くなった。


触れるな、と本能が言う。


触れろ、と何かが囁く。


真響が蒼麻の手首を掴んだ。


白い指は冷たかった。


「勝手に縫うな」


「分かってる」


「分かっていない顔だ」


「顔で判断するな」


「匂いで分かる」


「狐の嗅覚すごいな」


「茶化すな」


蒼麻は深く息を吸った。


石蓋の隙間から、黒い水気が漏れている。


だが、その中に、わずかに澄んだ香りがあった。


古い酒の香り。

月の光を含んだような、冷たく甘い香り。


塩尻が膝をつき、低く言った。


「この水だ」


「分かるんですか」


「蔵の者なら分かるんです。これは、今の水と違うんです。だが、水守の水だ」


水守の目が揺れた。


「うちの蔵は、これを忘れていたのか」


誰も答えなかった。


真響が静かに言う。


「忘れたのではない。忘れることにしたのだ」


その言葉は厳しい。


だが、責めているだけではなかった。


忘れなければ進めないこともある。

けれど、忘れたものは消えない。


蒼麻は石蓋に手をかざした。


「開けます」


真響が黒い狐火を灯す。


「私が残滓を抑える。お前は縁を固定するな。ほどける道だけを見ろ」


「なにを言ってるかさっぱりわからない」


「できねば蔵の水が濁る」


「わからないなりにやってみるしかないか」


蒼麻は簡易札を一枚取り出し、石蓋の横に置いた。


貼るのではない。

ただ置く。


帳簿の時のように、線で止めるのではなく、道を示す。


蒼麻は赤ペンを取り出した。


宮坂が目を丸くする。


「そんなもので何をするんですか」


「俺にも分かりません」


「分からずにやるんですか」


「だいたいそういう仕事なんで」


真響が呆れたように言う。


「本当に最悪だな」


蒼麻は石蓋の埃の上に、一本の線を引いた。


止める線ではない。


祠と井戸を結ぶように。

水と酒と月影を、無理に縛らず、思い出させるように。


赤い線は、かすかに光った。


石蓋の下から、声がした。


――月を。


蒼麻は息を止める。


――月を、返して。


その瞬間、仕込み蔵の奥に黒狐が現れた。


先ほどよりも大きい。

だが、体は半透明で、尾の先は黒い水に溶けている。


真響が一歩前に出る。


黒狐は真響を見た。


二つの黒が向かい合う。


真響の蝋梅の香りと、月影の古い酒の香りが混ざる。


「お前は、月影ではない」


真響が言った。


「月影の名に縛られた、水守の記憶だ」


黒狐が鳴いた。


こん。


悲しい声だった。


水守社長が、その場に膝をついた。


「申し訳ありません」


塩尻も深く頭を下げる。


「水守は、忘れていました」


宮坂も震える声で続いた。


「でも、捨てたいわけじゃありません。俺たち、ちゃんと知りたいです。昔の水も、酒も、約束も」


黒狐の輪郭が揺れる。


蒼麻は声をかけた。


「月守は、今は造れない。でも、探すことはできる」


水守が顔を上げた。


蒼麻は続ける。


「古い水を調べて、記録を読み直して、できるところから復元する。完全に同じ酒は無理でも、忘れたままにはしない」


真響がちらりと蒼麻を見る。


「軽々しく勝手に約束するな」


「俺が造るわけじゃない」


「なお悪いではないか」


「でも、この蔵の人たちならやると思う」


塩尻が、静かに頷いた。


「やる。蔵の水を忘れたまま、酒は造れん」


水守も深く息を吸った。


「水守の月とは別に、古法の復元を始めます。月守の名を、由来をもう一度調べます」


黒狐の目から、黒い雫が落ちた。


床に落ちた雫は、泥ではなく、澄んだ水になった。


真響が狐火を弱める。


「受け入れかけている」


蒼麻は石蓋に置いた札へ視線を落とした。


赤い線が、祠の方角へ伸びているように見える。


いや、本当に伸びていた。


床の上に、淡い赤い線が走っている。

蔵の奥から祠へ。

井戸から狐神へ。

忘れられた約束の道筋のように。


蒼麻は、その線を止めなかった。


ただ、見ていた。


黒狐はゆっくりと祠の方へ歩き出す。


その背後で、月の光が蔵の窓から差し込んだ。


水守の月。


月守。


月影様。


名前が、少しずつ重なっていく。


真響が蒼麻の横に立った。


「悪くない」


「褒めてる?」


「少しな」


「少しが多いな」


「調子に乗るな」


祠の方から、澄んだ鈴のような音が響いた。


盃が触れ合う音にも似ていた。


黒狐の姿が、ゆっくりと薄れていく。


完全に消えたわけではない。


だが、怪異にはならなかった。


水守社長が、深く頭を下げる。


「ありがとうございます。神代さん。真響さん」


真響は何も言わない。


蒼麻は肩をすくめた。


「礼は、月守が復元できたらその時に」


宮坂が目を輝かせる。


「飲みに来てください」


「業務上必要ですからね」


その冗談に塩尻が初めて、少しだけ笑った。


「それなら仕方ないな」


夜明け前。


祠には、新しい盃が供えられた。


中身は今の水守の月。

そして、その横に、封じられていた井戸の水を一滴だけ落とした水。


完全な月守ではない。


だが、忘れないという最初の約束だった。


真響は祠の前で、静かに目を閉じていた。


蝋梅の香りが、夜明けの冷気に溶ける。


蒼麻はその横に立つ。


「真響」


「何だ」


「あんた、月影様と関係あるのか」


真響はすぐには答えなかった。


東の空が、ほんの少し白む。


「黒狐は、黒狐を忘れぬ」


「答えになってるようで、なってないな」


「今はそれでよい」


蒼麻は苦笑した。


「じゃあ、もう一つ」


「ずうずうしいな」


「あんたは、俺が縁を縫い止めるって言った」


真響の目が、わずかに鋭くなる。


「それが何なのか、知ってるのか」


沈黙。


水音だけが聞こえる。


やがて真響は、祠に背を向けた。


「知らぬな」


「嘘だな」


「すべては知らぬ、という意味だ」


「便利な言い方だな」


真響は振り返らずに言った。


「だが、一つだけ分かるぞ」


「何が」


「お前の力は、祓う力ではない。戻す力でもない」


蒼麻の胸の奥が、また微かに熱くなった。


真響は続けた。


「失われかけたものを、そこに縫いとめる。ほどけた縁を、あるべき場所へ戻す。だが使い方を誤れば、濁りも痛みも、そのまま固定することになる」


蒼麻は何も言えなかった。


帳簿の余白。

赤い線。

封じられた井戸。

月影の黒狐。


すべてが一本の線でつながりかけている。


だが、その先はまだ見えない。


真響が、横目で蒼麻を見た。


「だから言った。今のお前が触れるなと」


「だけど来た」


「酒に釣られてではないか」


「否定できない」


真響は、ほんのわずかに笑った。


その笑みは妖艶で、ひどく静かだった。


「ならば、覚えておけ。酒は縁だ。縁を雑に扱う者は、いずれ縁に喰われる」


蒼麻は祠を見た。


新しい盃の中で、月の名残が揺れている。


「肝に銘じるよ」


「軽い」


「真面目に言ったんだけどな」


「お前の真面目は軽く聞こえる」


「声質の問題か。損な声帯だなほんと」


夜明けの山に、鳥の声がした。


水守酒造の異変は、ひとまず収まった。


だが、蒼麻は分かっていた。


これは終わりではない。


黒狐。

玄狐。

土気の狐神。

水を鎮めるために呼ばれたもの。

そして、真響。


この蔵で出会ったものは、ただの地方伝承ではなかった。


もっと古いものへつながっている。


神代一族が隠しているもの。

陰陽五行に関わる妖狐の記憶。

そして、蒼麻自身の中に封じられている何か。


真響は歩き出した。


「どこ行くんだ」


「帰る」


「送らなくていいのか」


「誰を」


「いや、あんたを」


真響は振り返った。


「狐を送る人間があるか」


「迷子の狐なら送らないと」


「斬るぞ」


「冗談だ」


真響は目を細めたが、少しだけ口元が緩んでいた。


そして、蝋梅の香りだけを残し、朝靄の中へ消えていった。


蒼麻はしばらく、その場に立っていた。


やがて背後から、宮坂が声をかける。


「神代さん、朝食を用意します。あと、良かったら少しだけ試飲も」


蒼麻は振り返って合言葉のように言う。


「業務上必要ですね」


「はい。業務上必要です」


水守社長が苦笑し、塩尻が呆れたように笑っていた。


蒼麻は小さく笑った。


怪異も、神も、狐も、分からないことだらけだ。


だが、美味い酒が飲める。

今はそれで十分だった。


後日、水守社長から電話があった。


「曾祖父の私的な記録が見つかったんです。彼は水守を愛していた。苦渋の決断だった」


土地にも機嫌があり水に癖がある。

蔵人の心が荒れることもあれば、酒がうまくできないこともある。

理屈だけでは説明できない何かに左右される。


だから蔵には昔から水神や稲荷伸、山神などが祀られる。


古代の写本に残る黒狐を祀る理由として弥一郎はこう考えた。


黒狐は福を呼ぶのではない。穢れを沈めて悪い流れを引き取る存在。


だから弥一郎は黒狐を祀り、特別な酒を造ることにした。


「月守」

夜を照らし静かに人を見守る。人を酔わせるのではなく

人の穢れや迷いを少しだけ沈めてくれる酒として造った。


そんな月守を封じた理由はこうだ。


月守の仕込みには、封じられた古井戸の水が必要だった。

しかしその井戸は、ただの水源ではなく、黒狐・月影様との縁が強すぎる水だった。


ある年、水守家で異変が起きる。


月守を仕込むたびに、


蔵人が同じ夢を見る。

井戸の水面に黒狐が映る。

仕込み中の酒が異様に冴えすぎる。

飲んだ者が、過去の記憶や失った人の声を聞く。

水守家の子どもが、井戸に呼ばれる。


つまり月守は、ただ美味い酒ではなく、記憶と縁を呼び戻す酒になっていた。


本来は神酒だった。

だが、人が日常の酒として扱うには強すぎた。


弥一郎は、決して月守を軽んじたわけではない。


むしろ、誰よりも月守を愛していた。そして酒が力を持ちすぎた。


しかし、ある仕込みの年に、月守を飲んだ蔵人が亡くなった家族の声を聞き、井戸へ向かってしまう。

あるいは、水守家の幼い娘が「月影様が呼んでいる」と言って夜中に井戸へ近づく。


弥一郎は悟る。


この酒は、人を救うこともある。

だが、失ったものへ引き戻すこともある。


水守の月は、今を生きるための酒でなければならない。

過去へ連れ戻す酒になってはいけない。


だから、彼は月守の仕込みを封じた。


古文書の表向きには、


古き法は時代に合わず。

月影様も、いずれ新しき酒を受け入れ給うべし。


と書いた。


別の私的な記録にはこう残っていた。


月守は美しすぎる。

美しすぎる酒は、人を今に留めぬ。

亡き者の声を聞かせ、帰らぬ月へ手を伸ばさせる。

この蔵は、生きている者のために酒を造らねばならぬ。


弥一郎は月影様を裏切ったのではなく、蔵と人を守るために月影様との縁を閉じた。


しかし縁の閉じ方を誤った。


彼は月影様に説明しなかった。

あるいは、説明したつもりだったが、それは人間側の一方的な理屈だった。


供えを絶やし、井戸を封じ、月守の名だけを別の酒へ移した。


その結果、月影様側にはこう残った。


約束を破られた。

酒を奪われた。

月を返してもらえなかった。


水守社長は「月守」を復活させると決めた。

販売用ではない。

大量生産もしない。

祠へ供えるために、年に一度だけ仕込む。


蒼麻が答える。


「売るために戻すんじゃない。供えるために戻す。

それなら、弥一郎さんが怖がったものとは違うはずです」


蒼麻は電話を切ったあと、しばらく黙っていた。


月守は、売るために醸すものではない。

年に一度、月影様へ供えるためだけに、できる範囲で仕込む。


それが、水守社長と塩尻杜氏の出した結論だった。


もしここに真響がいれば、きっとこう言っただろう。


「人間にしては、まともな落とし所だな」


その声が、やけにはっきり思い浮かんで、蒼麻は小さく笑った。


「……褒めてるのか、それ」


返事はない。

ただ、窓の外から、どこか冬の花に似た甘い香りが、ほんの一瞬だけ流れ込んだ気がした。



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