第四話 水守の月
新幹線の窓の外で、街の灯りが少しずつ遠ざかっていく。
蒼麻は指定席に座り、麻那から送られてきた資料を開いていた。
水守酒造。
長野の山あいにある、小さな蔵元。
創業は明治初期。
地元の湧水を使い、手仕事を重んじる蔵として知られている。
代表銘柄は、水守の月。
名前はかなり良い。美味しさを予感させてくれる好みの名前だ。
「月を守る水、か」
蒼麻は小さく呟いた。
蔵に着く前に資料にある箇条書きでまとめられた異変を確認する。
仕込み水の味が日によって変わる。
蔵人たちが同じ夢を見る。
夜の仕込み蔵で、黒い狐が酒を舐めている。
蔵の奥で、女の声がする。
狐の鳴き声が聞こえた翌朝、酒母の状態が乱れている。
そして最後に、現地担当者の聞き取りメモ。
――黒い狐は、酒を盗むのではなく、何かを探しているようだった。
蒼麻は、その一文に指を置いた。
「何を探してるんだろうな」
そう呟いた瞬間、鼻先をかすめる香りがあった。
蝋梅の甘やかな。
蒼麻はハッとして顔を上げた。
車内には、出張帰りの会社員や、旅行客が数人いるだけだった。
花を持っている者はいない。香水とも違う。
まただ
甘くて冷たい。
清らかでいてどこか危うい。
駅前で聞いた女の声が、耳の奥に蘇る。
――その蔵には、行くな。
蒼麻は資料と目を閉じた。
長野に着いた頃には、空気が東京よりも冷えていた。
駅前には、麻那が手配した迎えの車が来ていた。
運転していたのは、水守酒造の若い蔵人だった。
「神代さんですね。水守酒造の宮坂です」
「神代蒼麻です。よろしくお願いします」
宮坂は二十代後半、蒼麻と同年代の青年だった。
人当たりは柔らかいが、目の下に薄く隈がある。
眠れていない顔だ。
車は駅前を抜け、山の方へ向かった。
窓の外には、暗く沈む山並みと、点々と続く家の灯りが見える。
東京の夜とは違う。
音が少ない。
その分、土地の気配が濃い。
「遠いところ、ありがとうございます」
宮坂が言った。
「いえ。酒蔵と聞いたので思わず引き受けてしまいました」
「お好きなんですか、日本酒」
「かなり好きです」
「それはよかった。うちの酒、飲んでいただけたら嬉しいです」
「調査に必要なら飲まなければいけないので」
蒼麻が真面目な顔で言うと、宮坂は少し笑った。
「必要だと思います」
「やはり必要ですよね」
蒼麻は謎の念押しをする。
その反応に宮坂は少しだけ表情を緩めた。
「最近、そういう冗談を言う余裕がなくて」
「夢の件ですか」
宮坂の手が、ハンドルの上でわずかに強張った。
「はい」
「宮坂さんも見たんですか」
「見ました」
車のライトが、山道を照らす。
宮坂はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「夜の蔵に、黒い狐がいるんです。大きな狐です。最初は野犬でも入り込んだのかと思いました。でも、怖いというより……なんだか寂しそうなんです」
「寂しそう」
「はい。酒を舐めているというより、香りを確かめているように見えました。何かを探して、違う、と言っているみたいな」
蒼麻は資料の一文を思い出した。
何かを探している。
「その夢の中で、声は聞こえましたか」
「女の人の声が」
「え、何と?」
宮坂は少し言いづらそうにした。
「……返して、と」
車内が静かになった。
返して。
帳簿憑きの時にも聞いた言葉だった。
だが、響きが違う。
あの時は恨みと欲が混じっていた。
今回は、もっと深い。
失くしたものを、ずっと探し続けているような声。
「蔵に、狐に関する伝承はなにかありますか」
「創業時、水を鎮め豊穣を守る黒狐に酒を供えていたという話は聞いたことがあります。詳しくは、杜氏か社長の方が知っていると思います」
「黒狐に酒を」
蒼麻は窓の外を見た。
山の稜線の向こうに、細い月が浮かんでいる。
その月が、ほんの一瞬だけ、黒く滲んだように見えた。
水守酒造は、山裾に建っていた。
古い白壁の蔵。
木の看板。
敷地の奥には、小さな水場があり、澄んだ水音が聞こえる。
夜の蔵は静かだった。
だが、蒼麻は車を降りた瞬間、眉を寄せた。
水の匂いがする。
普通なら、それは清々しいはずだった。
湧水のある蔵なら、むしろ誇るべき匂いだ。
けれど、その水の奥に、灰のような古い紙を濡らしたような、そんな匂いを嗅ぎ取った。
そして、そのさらに奥に、蝋梅の香りがほんの少しだけ混じっていた。
「……いるな」
蒼麻が呟く。
「え?」
「いえ。いい水場ですね」
誤魔化すと、宮坂は少し安心したように笑った。
蔵の入口で、社長の水守尚弥と、杜氏の塩尻源吾が待っていた。
水守社長は四十代半ば。
穏やかだが、相当疲れている。
杜氏の塩尻は六十代前半といったところ。
背筋が伸び、目が鋭い。
いかにも現場で蔵を支えてきた人だった。
「神代さん、遠いところをありがとうございます」
水守が頭を下げる。
「こちらこそ。まずは話を聞かせてください」
蒼麻は一礼し、蔵の中へ足を踏み入れた。
その瞬間。
耳の奥で、鈴のような音が鳴った。
いや、鈴ではない。
盃が、どこか遠くで触れ合う音。
そして、女の声。
――違う。
蒼麻は足を止めた。
水守が振り返る。
「どうかしましたか」
「……いえ」
蔵の中は、清潔だった。
道具は整えられ、床も磨かれている。
雑な蔵ではない。
人の手がきちんと入っている。
だからこそ、異変が目立つ。
空気の一部だけが、妙に古いと感じてしまうのだ。
新しい仕込みの香りの中に、まるで何十年も前の酒の匂いが混じっているようだった。
杜氏の塩尻が、低い声で言った。
「水が変わるようになったのは、ひと月ほど前からです」
「水が変わる、というのは具体的にはどのようなことですか?」
「朝一番の水が、日によって硬くなる。いや、硬いというより、角が立つというか。昨日まで柔らかかった水が、急に舌に引っかかるような感じです」
蒼麻は頷いた。
「酒母の乱れというのは?」
「狐の鳴き声が聞こえた翌朝に出る。温度管理も、手入れも、変えていない。絶対に蔵人の手抜きではないんです」
その言い方に、蒼麻は少し好感を持った。
現場の人間を疑う前に、蔵の異変として見ていた。
「黒狐の伝承について、聞いてもいいですか」
水守と塩尻が、わずかに顔を見合わせた。
先に口を開いたのは、水守だった。
「蔵の裏手に、小さな祠があるんです。今はほとんど手を入れていませんが、昔はそこに酒を供えていたそうです」
「何のためにですか?」
「水を守ってもらうためだと」
「黒狐に?」
「はい。水守の家では、“月影様”と呼んでいたそうです」
月影様。
蒼麻はその名を心の中で繰り返した。
点はある。
まだ線にはならない。
「祠を見せてもらえますか」
「暗いですが、大丈夫ですか」
「むしろ夜の方がよさそうです」
そう言った瞬間、蔵の奥から音がした。
こん、と。
木の床を、細い爪で叩いたような音。
全員が黙る。
こん。
もう一度。
宮坂の顔が青ざめた。
「……聞こえましたか」
塩尻が、厳しい顔で蔵の奥を見た。
「またかい」
蒼麻は鞄の中に手を入れた。
麻那から渡された簡易札がある。
だが、すぐには出さない。
帳簿憑きとは違う。
これは、軽く札を貼って終わるものではない気がした。
こん。
三度目の音。
その後、蔵の奥から、ふっと香りが流れてきた。
蝋梅。
蒼麻は息を止めた。
あの美しい女の残り香と同じ香り。
いや、完全に同じではない。
こちらはもっと古い。
甘さの奥に、長く閉じ込められた熟成酒のような重さがある。
「……月影様、か」
蒼麻が呟くと、蔵の奥の闇が揺れた。
一瞬だけ、黒い狐の影が見えた。
大きな尾。
悲しげな琥珀の目。
そして、濡れたような黒い毛並み。
狐は蒼麻を見た。
その目に、敵意はなかった。
ただ、何かを探していた。
次の瞬間、影は消えた。
宮坂が震えた声で言う。
「今の……」
「見間違いじゃないですね」
蒼麻は静かに言った。
水守が唇を引き結ぶ。
「神代さん。あれは、悪いものなのでしょうか」
蒼麻はすぐには答えられなかった。
悪いもの。
そう言い切るには、あの目は悲しすぎた。
「まだ分かりません」
正直に答える。
「ただ、蔵を壊したいものには見えませんでした」
塩尻が低く言う。
「では、なぜ酒を乱すんです」
「探しているものが見つからないから、かもしれません」
蒼麻は蔵の奥を見た。
月影様。
黒狐。
返して。
そして、行くなと警告した、あの女。
「祠を見ます」
水守は頷いた。
蔵の裏手へ回ると、空気はいっそう冷えていた。
小さな石段の先に、古い祠がある。
かなり古びているが、完全に放置されているわけではない。
水守の誰かが、時折掃除していたのだろう。
ただ、供えられていた盃は空で塵が溜まっていた。
蒼麻は膝をつき、祠の前を見た。
祠の前に、長い黒い毛が一本落ちている。
駅前で見たものと似ている。
手を伸ばしかけた瞬間。
「触るな」
背後から声がした。
蒼麻は振り返った。
祠の横、月明かりの下に、黒髪の女が立っていた。
黒い着物姿。
白い指。
狐のような琥珀色の目。
そこには駅前で見かけた時の気配ではなく、圧倒的な存在感を伴っていた。
子供のころから怪異をみてきた蒼麻は直観で確信した。
さっきの黒い狐とは別の、人の姿をした黒い狐。
今ならはっきりわかる。この女は人間ではない。
蒼麻は、思わず笑った。
「やっと出たな」
女は静かに目を細めた。
「警告はしたぞ」
「聞いたよ」
「なら、なぜ来た」
「仕事だし経費も出る。酒蔵だし」
女の眉が、わずかに動いた。
「愚かな人間だ」
「よく言われる」
「酒で釣られるとは、なんと軽いことか」
「否定はしない」
女は蒼麻をじっと見た。
その視線は、冷たい。
だが、不思議と嫌な感じはしなかった。
蒼麻は立ち上がる。
「俺は神代蒼麻。あんたは?」
女は少しだけ沈黙した。
風が吹く。
祠の周囲に、蝋梅の香りが濃くなる。
「真響」
「まゆら」
「そうだ」
蒼麻は頷いた。
「で、真響さん」
「さんはいらぬ」
「じゃあ真響」
「馴れ馴れしいぞ」
「どっちなんだよ」
真響は答えなかった。
ただ、祠を見た。
その目が、わずかに曇る。
「ここは、お前が触れていい場所ではない」
「理由はなんだ?」
「お前は、縁を縫い止める」
蒼麻は眉を寄せた。
「なんの話だ」
「自覚がないのか。自覚がないならなおさら触れるな」
蒼麻は息を呑んだ。
帳簿の余白。
赤い線。
怪異の動きが止まった瞬間。
脳裏にあの時の光景がよぎる。
「縁を縫うってなんだよ。まさかあの現象の事を、なにか知ってるのか?」
「知らぬ。わたしは見ていない。だが、見ればなんとなく分かる」
「随分と便利な目だな」
「確かにお前ほど不便ではないな」
「初対面でずいぶんと失礼だな」
「二度目だぞ」
蒼麻は眉を上げた。
「やっぱり駅前にいたよな?」
「その前から」
真響は、祠の奥へ視線を向けた。
「この蔵の黒狐は、怪異ではない。だが、放っておけば怪異になる」
「月影様のことか」
「そう呼ばれていたものの残り香だ」
「残り香?」
真響は蒼麻を見た。
「失われた縁。忘れられた酒。返されなかった約束。そういうものが、蔵の水に沈んでいる」
蒼麻は黙った。
「何を返せって言ってるんだ」
真響は答えなかった。
その代わり、祠の前に歩み寄る。
黒い毛に触れることなく、白い指をかざした。
すると、祠の奥から、かすかな声が聞こえた。
――あの酒ではない。
――あの月ではない。
――返して。
蒼麻の背筋が冷えた。
真響は静かに言った。
「この蔵には、かつて黒狐へ捧げた酒があった。今の酒ではない。失われた酒だ」
「それを探しているのか?」
「おそらくな」
「でも、酒が変わったくらいで、ここまで乱れるか?」
真響の目が細くなる。
「酒だけではない」
「じゃあ何だ」
「記憶だ」
その言葉で、蒼麻の胸の奥が微かに熱くなった。
記憶。
触れてはいけないものに、指をかけたような感覚。
真響が低く言う。
「今のお前がこの蔵の記憶に触れれば、その濁った記憶ごとここに縫い止めるだろう。だから行くなと言った」
蒼麻は頭を掻いた。
「先にそれを説明してくれれば良かったのに」
「説明すれば来なかったのか」
「いや、たぶん来たな」
「愚かな人間らしい」
「否定はしない」
真響はため息のように目を伏せた。
その仕草が、妙に艶やかだった。
月明かりの下で、黒髪が揺れる。
蝋梅の香りが、夜の冷たさに溶ける。
蒼麻は、ふと気づいた。
この女は、ただ危険なだけではない。
何かを知っている。
そして、何かを失っている。
「真響」
「何だ」
「この蔵を助けたいのか」
真響は答えなかった。
少しだけ間を置いて、こう言った。
「酒が濁るのは、好かぬ」
蒼麻は笑った。
「そこは同意するよ」
「だが、お前一人では無理だ」
「だよな」
「案外素直なのだな」
「専門外だからな」
真響は蒼麻を見た。
蒼麻も見返す。
祠の奥で、また狐の鳴き声がした。
こん。
今度は、蔵の奥からも同じ音が返る。
水と記憶が、呼び合っている。
真響は静かに言った。
「人間。邪魔はするな」
蒼麻は、なぜかその言葉に懐かしさを覚えた。
「邪魔だと思われない程度に邪魔をするよ」
真響の目が、わずかに鋭くなる。
「馬鹿なのか」
「よく言われる」
その時、祠の中から黒い水が滲み出した。
水ではない。
酒のような香りを帯びた、黒い記憶の泥。
真響の霊力で発生したとでも言わんばかりの黒い狐火が、ふっと灯る。
蒼麻は鞄から簡易札を取り出した。
水守酒造の夜が、静かに歪み始める。
夜は、まだ始まったばかりだった。




