第三話 黒狐の残り香
暖簾の外には、誰もいなかった。
蒼麻は店の戸を少しだけ開け、路地を覗いた。
夜の湿った空気。
遠くを走る車の音。
神楽坂の平日の夜。街灯に照らされた、乾いた石畳。
それだけだった。
「どうした?」
蓮二がカウンターの奥から声をかける。
「いや……誰かいた気がして」
「お客さんか?」
「たぶん違う」
「じゃあ、ツケの取り立てかな」
「それなら俺じゃなくてお前だろ」
「うちは健全経営ですから」
目を泳がせるように蓮二がつぶやく。
「小料理屋でその言い方、怪しいな」
そう返しながら、蒼麻はしばらく路地を見ていた。
黒く長い影。
そして、ほんの一瞬だけ鼻先をかすめた、酒とは違う香り。
女性の長い髪の毛が見えたような気がした。
花と煙の匂い、その奥に冬の夜にだけふっと咲く蝋梅の甘く澄んだ香りが少し混じっている。不快ではない。
もし酒から吟醸香と燻製香、さらに蝋梅の香りが感じられたら相当に危険な香りだよな、と場違いな感想を抱いている自分に気づく。
「……んー、狐の影っぽかった?」
自分で呟いてから、蒼麻は首を振った。
何を言っているのか。
狐が街中の小料理屋を覗きに来るわけがない。
いや、正確には、狐くらいなら来るかもしれないが、
問題は今の影が狐だとしたら、ただの狐ではなさそうだったことだ。
女の気配と狐の影を持っているうえに尾が一本ではないように見えたとなれば、もはや怪異そのものではないか。
気のせいに違いない。
蒼麻は戸を閉め、席へ戻った。
すると盃の中の酒が、不自然に揺れていた。
店内に吹き込む風はなかったはずなのに。
「おまえ、顔が変だぞ」
蓮二が言った。
「元からだ」
「そういう返しできるうちは大丈夫だな」
「大丈夫じゃない時の基準はどうなってんだよ」
蓮二は笑い、小鉢を一つ追加した。
蓮根のきんぴらだった。
「食え。変なもの見た時は、根菜がいい。将来への見通しが良くなるからな」
「それって民間療法?」
「俺の経験則と言っておこう」
「これまで何を見てきたんだ、お前は」
「酔っ払いたちの醜態」
「説得力が少し出てきたな」
笑いながら蒼麻は蓮根を一口食べた。
しゃきりとした歯ごたえと、甘辛い味が口に広がる。
どういう酒が合うか考えを巡らせる。これは濃淳なお酒の方がいいな。
少しだけ、現実に戻った気がした。
その時、スマートフォンが震えた。
麻那からだった。
蒼麻は画面を見て、露骨に嫌な顔をした。
蓮二がそれを見て笑う。
「また妹さん?」
「嫌な予感しかしない」
「兄妹仲いいよな」
「仲がいいと、呼び出し回数が増えるから困る」
蒼麻は通話を取った。
「もしもし」
『お兄ちゃん、今大丈夫?』
「大丈夫じゃないと言ったら?」
『五分後にかけ直すね』
「根本的な解決になってないな」
電話の向こうで、麻那が小さく笑った。
『昨日の件、報告が来たよ。早川商事、退職した社員さんに連絡を取って謝罪するって。それで未払い分もすぐに精算するって』
「それはよかったよ」
『うん。佐伯さんからも、感謝してますって』
「俺は線を引いただけだけどな」
『その“線を引いただけ”ができる人、あんまりいないんだよ』
蒼麻は黙った。
昨日の感覚が、指先に戻る。
帳簿の余白。
赤い線。
黒い獣の動きが止まった瞬間。
あれは、何だったのか。
『お兄ちゃん?』
「……麻那」
『なに?』
「俺って昨日、変なことしたよな」
電話の向こうが、少し静かになった。
『変なこと?』
「帳簿に赤い線を引いたら、あれが止まった」
『うん』
「うん、じゃなくて。何でだ?」
『たまたまじゃない?』
「説明が雑すぎる」
『お兄ちゃん、昔から勘はいいから』
「勘で怪異は止まらないぞ」
『止まったんでしょ?』
「妹の説明が力技すぎる」
麻那はまた笑った。
だが、その笑いは少しだけ硬かった。
蒼麻は気づく。
麻那はもう何かを知っていて隠している。
いつもそうだ。
父も、麻那も、神代一族も。
蒼麻が見てきたものについて、はっきりとは教えてくれない。
麻那はいつもただ、困ったように笑うか、軽く流す。
まるで、蒼麻自身から何かを遠ざけているようだった。
「麻那」
『うん』
「俺に隠してること、あるだろ」
直球を投げた。
蓮二がこちらを見たが、何も言わなかった。
電話の向こうで、麻那が静かに息を吸う気配がした。
『あるよ』
あまりに素直な返事だった。
蒼麻は逆に言葉を失った。
『でも、今は言えない』
「なんで」
『お兄ちゃんを守るため』
「便利な言葉だな」
『うん。便利で、ずるい言葉だと思う』
麻那の声は、いつもの軽さを少し失っていた。
『でも、今はそれしか言えない。ごめん』
蒼麻は盃を見た。
酒の表面に、店の灯りが揺れている。
「……分かった」
『怒らないの?』
「どうせ怒ったって教えないんだろ」
『うん』
「じゃあ、酒がまずくなるだけ損だ」
『お兄ちゃんらしいね』
「褒めてんの?」
『前向きですごくいいと思う』
「納得しづらい褒め方だな」
麻那は少し笑った。
今度は、いつもの妹らしい笑いだった。
『それでね、次の案件なんだけど』
「待て。今の流れで仕事の話になるのか」
『なるよ。わたし経営者だもん』
「話の流れがいきなり変わりすぎだろ」
『今回は、お兄ちゃん向きだと思う』
「その言い方はもう信用しない」
『酒蔵の案件』
蒼麻は黙った。
蓮二が「お」と小さく反応する。
麻那は、兄の沈黙を読み切っているようだった。
『場所は長野。古い蔵元さん。経営状態は悪くない。むしろ最近、評判が上がってきてる』
「評判が上がってるなら、何が問題なんだ」
『仕込み水の味が日によって変わるらしいの』
「そんなばかな」
蒼麻の表情が変わった。
日本酒において、水は命だ。
水が変われば、仕込み方法が変わる。つまり発酵のコントロールができなくなる。
そんな事が本当に起こるとなれば、蔵にとっては致命的に決まっている。
『それだけじゃないの。蔵人さんたちが、同じ夢を見るんだって』
「夢?」
『夜の仕込み蔵で、黒い狐が酒を舐めている夢』
蒼麻は、すぐに路地で見た長い影を思い出した。
黒く長い狐のような影。
「……狐」
思わずつぶやいていた。
『そう。それで、蔵の奥から時々、狐の鳴き声が聞こえるんだって』
「なんだって?蔵に本物の狐が入り込んでる可能性があるんじゃないか?」
『現地では確認されてない。しかも、その鳴き声が聞こえた翌日は、なぜか酒母の状態が少し乱れる』
蒼麻は眉を寄せた。
どうやら軽い案件ではない。
少なくとも、帳簿憑きのような「小さな濁り」とは違う気配を感じる。
「麻那」
『なに?』
「それ、俺一人で行く案件か?」
『最初は様子見でお願い。危なかったら、すぐに引いて』
「様子見って言うけどな」
『飲み代は出るよ』
「交通費と宿泊費も出してくれ」
『もちろん出します』
「蔵の酒を買う費用は?」
『業務上必要なら』
「やはり事前の確認は必要だと思うんだよ」
『まだ見てもいないでしょ』
「酒蔵調査だぞ。酒を飲まずに何を調べるんだよ」
電話の向こうで、麻那が呆れたように笑った。
『お兄ちゃん嬉しそうだね。そういうところは信用してる』
「酒に関してだけ?」
『ううん。人を見るところも』
蒼麻は返事をしなかった。
麻那の言葉は、軽く聞こえるのに、たまに妙に深いところへ刺さる。
『資料、送るね。正式には明後日からでいいから明日は準備して』
「分かった」
『それと、お兄ちゃん』
「何だ」
『黒い狐を見ても、すぐには近づかないで』
蒼麻の指が止まった。
「……どういう意味だ」
『そのままの意味』
「麻那、何か知ってるのか」
『知らない。でも、狐は縁を結ぶものでもあるし、縁を攫うものでもあるから』
「急に神代っぽいこと言うな」
『神代だもん』
それだけ言って、麻那は通話を切った。
蒼麻はしばらくスマートフォンを見ていた。
蓮二が、静かに言う。
「もしかして酒蔵案件?」
「ああ」
「行くんだろ」
「行くらしい」
「また主人公ムーヴかよ」
「俺の人生は、俺より先に予定を入れてくる」
蓮二は笑い、徳利を持ち上げた。
「景気づけにもう一杯いく?」
蒼麻は少し考えた。
「いや、今日はやめとく」
蓮二が意外そうな顔をする。
「体調悪いの?」
「酒蔵案件の前に、酒を雑に飲むと失礼だろ」
「そこは真面目なんだな」
「俺はいつも真面目だぞ」
蒼麻は席を立った。
会計を済ませ、店を出る。
夜の路地は静かだった。
さっき見えたと思った影は、もちろんいない。
けれど、角を曲がる寸前、石畳の上に長く黒い毛が一本落ちているのが
なぜか不自然に目についた。
道端に落ちている髪の毛のようなものに、歩きながらいちいち気づくはずがない。
それはそれだけその場には異質なものだったのかもしれない。
蒼麻はそれを拾わなかった。
ただ、じっと見下ろした。
長く黒い毛は、街灯の下で一瞬だけ艶を帯び、煙のようにほどけて消えた。
「……近づくな、ね」
近づくなと言われたものほど、だいたい向こうから来る。
その経験則が正しいことを、蒼麻はまだ知らない。
翌朝。
麻那から届いた資料には、蔵の名が記されていた。
水守酒造。
山あいの湧水を使い、昔ながらの手仕事を守る小さな蔵。
代表銘柄は、「水守の月」。
資料の最後に、現地担当者の聞き取りメモが添えられていた。
――蔵の奥で、女の声がした。
――誰もいないのに、酒の香りが濃くなる夜がある。
――黒い狐が夢に出る。
――その狐は、酒を盗むのではなく、何かを探しているようだった。
蒼麻はその一文で、手を止めた。
何かを探している。
その表現が妙に引っかかった。
怪異なら、食う。
奪う。
憑く。
濁らせる。
だが、探している、とは何だ。
その日の昼過ぎ、蒼麻は現地に行く準備をした。
仕事用の鞄に、資料、手帳、筆記具、麻那から渡された簡易札を数枚。
そして、なぜか蓮二が持たせた出汁巻きの包み。
「旅先で変なものばっか食うなよ」
「酒蔵に行くんだぞ」
「だからだよ。空きっ腹に試飲するな」
「母親かよ」
「小料理屋の店主です」
蒼麻は苦笑しながら、包みを受け取った。
夕方、駅へ向かう途中だった。
人混みの中で、ふと足が止まる。
駅前の大型ビジョン。
信号待ちの人々。
スーツ姿の会社員。
学生の笑い声。
その雑踏の向こうに、黒い着物の女が立っていた。
長く艶やかな黒い髪。
細く白い指。
狐のように綺麗な琥珀色の瞳だった。
ほんの一瞬、視線が合った。
その美しさと気配に蒼麻は息を呑んだ。
だが、次の瞬間には、人の流れに紛れて姿が消えていた。
探そうと、一歩踏み出そうとした
その時、耳元で声がした。
――その蔵には、行くな。
女の声だった。
低く、艶やかで、どこか冷たい。
蒼麻は振り返った。
誰もいない。
ただ、風もないのに、駅前の街路樹がざわりと揺れた。
蒼麻は鞄を握り直した。
「……行くなって言われてもな」
新幹線の出発時刻は、もう近い。
仕事で経費も出る。
そして大好きな酒蔵である。
行かない理由がなかった。
蒼麻は改札へ向かう。
背後で、誰かが小さく笑った気がした。
それが警告なのか、誘いなのか。
蒼麻には、まだ分からなかった。




