第二話 帳簿の余白
通話を終えた麻那は蓮二との会話を思い出していた。
和灯を開店して間もなく、誰も居ない店内に人の気配がする事が多く、いわゆるいわくつき物件だったのかと蓮二が恐れはじめた頃の話。
蒼麻が誰も座っていない席にむかって、何か説教をしていた事があったという。それ以来、謎の気配が消えたという話を聞いたのだ。
そんなに前から、兄は怪異を視るだけでなく遠ざける力を使っていたのだ。
知らないでいたことに焦りを覚える。
もう知らせないまま守るは通用しない段階に来ていた。
封印の力が緩み始め、放っておけば神代一族の別派閥や怪異たちが必ずや接触してくるだろう。
ならば本家が絡むような大事件に関わる前に、自分が管理する小さな案件で力の制御に慣れさせていく方が安全と考えた。
「ずっと遠ざけていたかったよ。それができないなら、わたしの目の届く場所で、わたしが選んだ管理下にある案件に関わって欲しいの。わがままな妹でごめんね」
麻那は力が封じられた状態でもずっと自分を守ってきた兄の顔を浮かべながら目を伏せた。
翌日の午後、蒼麻は麻那から送られてきた住所へ向かった。
都心から少し外れた、古い商店街の裏手。
台東区 浅草橋に小さな食品卸会社があった。
看板には、**「早川商事」**とある。
社屋は三階建て。
一階が倉庫、二階が事務所、三階が応接室らしい。
外壁は少し古びていたが、手入れはされている。
「……潰れかけって感じではないな」
蒼麻がそう呟くと、背後から声がした。
「ええ。経営状態は悪くありません」
振り返ると、スーツ姿の女性が立っていた。
三十代半ばほど。表情は穏やかだが、目元に疲れがある。
「早川商事の経理を担当しております。佐伯美津子です」
「神代蒼麻です。今日は空請求の件で」
「はい。麻那様から伺っております」
麻那様。
その呼び方に、蒼麻は少しだけ肩をすくめた。
妹は外では、思った以上に偉いらしい。
家では容赦なく兄の飲み代上限を設定してくるくせに。
佐伯に案内され、二階の事務所へ上がる。
中は、普通の会社だった。
電話の音。
パソコンのキーを叩く音。
コピー機の低い駆動音。
誰かが淹れたコーヒーの匂い。
だが、その奥に、薄く焦げた紙のような匂いが混じっていた。
蒼麻は足を止めた。
「……最近、なにか紙を燃やしました?」
佐伯が驚いたように振り返る。
「いいえ。火気厳禁ですし、そういうことは」
「ですよね」
蒼麻は曖昧に笑った。
その匂いは、もしかしたら普通の人間には分からないのかもしれなかった。
焦げた紙。
古い墨。
カビて湿った古い本のような匂いが交じり合っていた。
好ましい匂いではない。
佐伯は奥の机へ蒼麻を案内した。
「こちらが、問題の帳簿です」
机の上には、数冊のファイルとノートパソコンが置かれていた。
「データ上にも出ますし、紙に出力しても残ります。消しても、翌日には戻っています」
「金額は?」
「最初は三千円でした。それが八千円、二万円、五万円と、少しずつ大きくなっています」
「請求元は?」
「存在しません。毎回、名前が違います。でも、どこか似ているんです」
佐伯はファイルを開いた。
そこに並んでいた請求名を見て、蒼麻は眉を寄せた。
黒井商会。
墨田物産。
闇川物流。
夜天堂。
「……あからさまに暗い感じの偽装会社みたいな名前だな」
「え?」
「いや、こっちの話です」
思ったことが口に出てしまった。
文字の端が、わずかに滲んでいる。
印刷された文字のはずなのに、墨に水を垂らしたように輪郭が揺れていた。
蒼麻は、指で紙の端に触れた。
その瞬間、耳元で小さな声がした。
――少しだけ。
蒼麻は顔を上げた。
事務所の誰も、こちらを見ていない。
――少しだけなら、いいだろう。
声は、帳簿の中から聞こえた。
「……なるほど」
蒼麻は小さく息を吐いた。
これは、いる。
ただの不正ではない。
だが、まったく人のせいではない、とも言い切れない。
こういうものは、たぶん、人の隙間に入り込む。
「佐伯さん」
「はい」
「この会社で最近、経費関係の揉め事はありませんでしたか」
佐伯の顔が、わずかに強張った。
「……揉め事、ですか」
「小さいもので構いません。立替が返ってこないとか、残業代の扱いとか、誰かが少額の経費をごまかしたとか」
佐伯は視線を落とした。
「ありました」
やはり。
「詳しく聞いてもいいですか?」
佐伯は、少し迷ってから頷いた。
「半年前に、退職した社員がいます。配送担当の若い男性でした。真面目な子だったのですが、立替分の精算が何度か遅れていて……本人は何度も申請していたと言っていました。でも、こちらの記録には一部しか残っていなくて」
「金額は?」
「大きくはありません。全部合わせても、二万円ほどです」
「大きくはない、ですか」
蒼麻は帳簿を見た。
その二万円は、誰かにとっては小さい。
でも、別の誰かにとっては、その月の生活を削る額だったかもしれない。
「それでどうなりました?」
「その後、彼は辞めました。最後は少し揉めて……社長も、忙しい時期だったので、ちゃんと話を聞いてあげられなかったんです」
「そうですか」
蒼麻は帳簿の余白を見つめた。
そこに、うっすらと文字が浮かんでいる。
――返せ。
しかし、その文字はすぐに滲み、別の言葉に変わった。
――もっと。
蒼麻は目を細めた。
最初は、未払いの恨みだったのだろう。
けれど今は違う。
小さな恨み。
小さなごまかし。
小さな見て見ぬふり。
それらを食って、別のものになりかけている。
「今夜、帳簿を見せてもらえますか」
「今夜、ですか?」
「たぶん、昼間は出ません」
佐伯は青ざめた。
神代家の噂は聞いたことがある。
「やはり、何か……いるんですか」
蒼麻は少し考えた。
正直に言いすぎると、余計に怯えさせる。
嘘をつきすぎると、こちらが困る。
「いるというより、溜まっています」
「溜まっている?」
「放置した小さいものが、この書類たちの隙間に」
佐伯は唇を噛んだ。
「私たちのせいでしょうか」
蒼麻はすぐには答えなかった。
それを言い切るのは、少し違う。
「誰か一人のせい、ではないと思います。でも、誰も関係ないとは言えない」
佐伯は、静かに頷いた。
その目に、ほんの少し覚悟のようなものが宿った。
「分かりました。今夜、私も残ります」
「危ないかもしれませんよ」
「経理担当ですから」
佐伯は苦く笑った。
「数字から逃げるわけにはいきません」
蒼麻はその返事を、少しだけ気に入った。
夜。
社員たちが帰った後の事務所は、昼間とはまるで違って見えた。
蛍光灯の白い光。
規則正しく並んだ机。
静まり返った電話機。
そして、机の上の書類。
佐伯は少し離れた席に座っていた。
蒼麻の手元には、麻那がバイク便で送ってきた簡易札がある。
白い小さな札に、神代の印が薄く入っていた。
「これ、どう使うんだよ」
昼間、麻那に電話で聞いた時、妹はこう言った。
『危なくなったら貼って』
「どこに?」
『危なそうなところ』
「説明が雑だな」
『お兄ちゃんなら分かるよ』
「それが一番困るんだよ」
その会話を思い出し、蒼麻はため息をついた。
分かるわけがない。何を言ってるんだあいつは。
いや、分かりたくない。
その時、帳簿のページがひとりでに開いた。
佐伯が息を呑む。
紙の上に、黒い文字が浮かび上がった。
黒井商会。
請求額、八万円。
「かなり増えてるな」
蒼麻が呟いた瞬間、ページの余白が盛り上がった。
墨が紙の上を這う。
細い足のようなものが生え、紙片が重なり、小さな獣の形を作っていく。
黒い紙でできた痩せた犬のようなもの。
それが、帳簿の上で口を開いた。
――少しだけ。
声は、何人もの声が混ざっていた。
――少しだけなら。
――誰も見ていない。
――これくらい。
――返せ。
――もっと。
――足りない。
佐伯が震える声で言った。
「これが……」
「帳簿憑き、ってところですかね」
蒼麻は立ち上がった。
黒い獣が、帳簿から床へ飛び降りる。
体は小さい。
だが、床に落ちた影は不自然に大きく広がった。
事務所中の引き出しが、かたかたと震え始める。
領収書。
請求書。
精算書。
未処理の書類。
それらの隙間から、黒い紙片がひらひらと舞い上がった。
「佐伯さん、下がって」
蒼麻は札を握った。
だが、貼る場所が分からない。全然わからない。
怪異の額か。
帳簿か。
床か。
それとも、震えている書類の山か。
黒い獣が蒼麻へ飛びかかる。
蒼麻は反射的に、机の上にあった赤ペンを掴んだ。
なぜ赤ペンなのかは分からない。
ただ、目の前の帳簿の余白が、妙に気になった。
そこに、逃げ道がある。
そんな気がした。
蒼麻は帳簿の余白に、一本、線を引いた。
まっすぐではない。
少し歪んだ、ただの赤い線。
だが、その瞬間。
黒い獣の動きが止まった。
「……は?」
蒼麻自身が一番驚いた。
赤い線が、帳簿の余白で淡く光っている。
文字でも印でもない。
ただの線のはずなのに、それはまるで境界のように、黒い墨の流れを断ち切っていた。
黒い獣が暴れる。
――返せ。
――もっと。
――足りない。
――消すな。
蒼麻は息を詰めた。
足りない。
その言葉だけが、他よりも人間に近かった。
「……佐伯さん」
「はい」
「退職した社員に、未払い分を払ってください。謝罪も。形式だけじゃなく、ちゃんと」
佐伯は震えながらも頷いた。
「はい」
「それと、社内の経費精算を全部見直してください。少額でも曖昧にしないでください」
「はい」
黒い獣が、さらに暴れた。
蒼麻は麻那から渡された札を、帳簿の余白に貼った。
札が淡く光る。
赤い線と札が重なり、黒い墨がじゅっと音を立てて縮んだ。
黒い獣は、小さな紙片へ戻っていく。
最後に、かすれた声が聞こえた。
――見ていたのに。一生懸命やっていたのに。
それは恨みだった。
そして、たぶん、悲しみでもあった。
蒼麻は何も言えなかった。
怪異は消えた。
だが、それで全部がなかったことになるわけではない。
事務所に静けさが戻る。
佐伯はしばらく動けずにいたが、やがて深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「俺は線を引いただけです」
「それでも、助かりました」
蒼麻は帳簿を見た。
赤い線は、もうただの赤ペンの線に戻っていた。
けれど、その余白だけは妙に綺麗だった。
翌朝、麻那から電話が来た。
『お兄ちゃん、初案件お疲れさま』
「簡単だって言ったな」
『簡単だったでしょ?』
「怪異が帳簿から出てきたんだが」
『低級だから軽いよ』
「基準が神代一族すぎるだろ」
電話の向こうで、麻那が笑う。
だが、少しして声が柔らかくなった。
『でも、ちゃんと帰ってきてくれてよかった』
蒼麻は返事に困った。
「……そんな大げさな案件じゃないだろ」
『うん。そうだね』
麻那はそう言ったが、声は少しだけ違っていた。
まるで、別の何かを恐れていたように聞こえた。
蒼麻は話題を変えた。
「それで、飲み代は経費で落ちるんだよな」
『もちろん。上限内なら』
「昨日の秋田晴と鯖南蛮」
『調査前だから微妙~』
「おい」
『でも、頑張ってくれたから半分だけ認めます』
「妹が経理だと世知辛いな」
『会社だもん』
電話を切ったあと、蒼麻は自分の指先を見た。
赤ペンを握った時の感覚が、まだ残っている。
線を引いただけ。
ただ、それだけだった。
なのに、あの黒い獣は止まった。
「……何なんだろうな、俺」
答える者はいない。
次の日の夜、蒼麻は蓮二の店「和灯」でまた飲んでいた。
酒は、昨日と同じ秋田晴だ。
けれど、味は少し違って感じた。
澄んでいるのに、不安が苦みになって表れてきたようだった。
それでいていつもより身体の奥に入り込んでくるような不思議な感覚があった。
蒼麻は盃を置き、小さく息を吐いた。
「和灯」の暖簾が揺れる。
風はなかった。
店の外の路地に、黒い影が一瞬だけ立っていた気がした。
長い髪。
黒い目。
獣のような気配。
蒼麻が瞬きをすると、もうそこには誰もいなかった。
ただ、夜の奥に、酒の香りとは違う、蝋梅を思わせるかすかな闇の匂いが残っていた。




