第一話 空請求の帳簿憑き
神代蒼麻は、子供の頃から不思議なものが視えていた。
神代一族は、表向きには巨大な企業群を抱える旧家として知られている。
不動産、物流、医療、金融、情報通信、酒造流通。
いくつもの業界に根を張り、経済界や政財界にも妙な影響力を持つ一族。
だが、それだけではない。
古くは神職に関わる家系であり、神社の祭祀や土地の鎮め、祈祷、怪異封じに関わってきたとも言われている。
表では企業家。
裏では、退魔師じみたことをしている一族。
もちろん、世間では半分都市伝説のように扱われている。
「神代の案件には、普通じゃないものが混じる」
「神代が動く時は、金か神か怪異が絡んでいる」
「政財界の揉め事を片づける裏で、何かを祓っているらしい」
そんな噂は、経済界の隅で囁かれていた。
蒼麻自身も神代の分家筋ではある。
だが企業群の中枢にも、祭祀の奥にも関わってはいない。
むしろ距離を取るようにしていた。
神代一族の人間でありながら、神代一族らしくない男。
それが、神代蒼麻だった。
夜道の電柱の影から、こちらを見ている小さな目。
神社の石段に残る、誰かの足跡ではない黒い染み。
誰もいないはずの店先で、暖簾を揺らす細い指。
だが、それが何なのかを、蒼麻は知らなかった。
父は何も教えなかった。
妹の麻那も、核心に触れることは避けていた。
だから蒼麻は、いつしかそれらを「深く考えないもの」として扱うようになった。
見えたら避ける。
気配が濃い道は通らない。
成人してからも酒がまずくなるような氣が溜まっている場所には長居しない。
それくらいで、これまで案外どうにかなってきた。
蒼麻は神代一族の人間ではあるが、巨大企業群を束ねる本流の者たちとは距離を置いて暮らしていた。
決まった会社に勤めているわけではない。
友人の小料理屋で仕込みや配膳を手伝うことをメインにしながら、閑散期などは知り合いの酒蔵で仕込みを手伝いに行くこともある。
本人いわく、定職に就いていないわけではない。
ただ、定まっていないだけだ。
「それを世間では定職に就いていないって言うんだよ」
そう言ったのは、小料理屋の店主であり、蒼麻の古い友人でもある橘蓮二だった。
その夜も、蒼麻は蓮二の店にいた。
店の名は「和灯」。
神楽坂の路地裏にある小さな小料理屋で、席はカウンター八つと小さな座敷が一つだけ。
派手さはないが、出汁の香りと炭火の匂いが落ち着く店だった。
蒼麻は手伝いを終え、カウンターの隅で一杯だけ飲んでいた。
「給料あんまりあげられないから、現物支給で勘弁してくれよ」
蒼麻にはありがたい言葉だ。
今夜の酒は、秋田の純米酒。
香りは控えめで、口に含むと米の旨味が静かに広がる。
派手ではない。
けれど、仕事あとにはこういう酒を飲むのが好きだ。
「また渋いの飲んでるな」
蓮二が小鉢を置いた。
鯖の南蛮漬けだった。
「全国各地の日本酒を飲むのが趣味だしね」
「趣味というより、もはや巡礼だろ」
「酒蔵は聖地だからな」
「その発言、神代の家の人間として大丈夫か?」
「大丈夫じゃないから、俺はあまり本家に近づかないようにしてる」
蓮二は呆れたように笑った。
蒼麻は、日本酒が好きである。
味も好きだ。
香りも好きだ。
土地によって水が違い、米が違い、人の手つきが違う。
同じ日本酒でも、北の酒と南の酒ではまるで表情が違うのが面白い。
酒には土地が出る。
人が出る。
時間が出る。
だから蒼麻は、全国各地の酒を飲み歩くのが好きだった。
ただ酔うためではない。
その土地に触れるために飲んでいる――などと言うと格好をつけすぎだが、まあ、半分くらいは本気でそう思っているのだった。
その時、スマートフォンが震えた。
画面には、妹の名前が表示されている。
神代麻那。
蒼麻は、嫌な予感がした。
「……出たくないな」
「妹さん?」
「ああ」
「出ろよ」
「なんだか仕事の匂いがする」
「働きなさいよ」
蒼麻はため息をつき、通話を取った。
「もしもし」
『お兄ちゃん、今どこ?』
「蓮二の店」
『飲んでる?』
「軽く」
『よかった』
「よかった、の意味が分からないんだが」
電話の向こうで、麻那が少し笑った。
『お兄ちゃん、本当にごめん。ちょっとだけ手伝って欲しい事があって。その代わり、仕事あとの飲み代は経費で落としていいからさ。お願い』
蒼麻は盃を置いた。
「……やっぱり仕事か」
『うん。ホントにちょっとだけ。たぶん』
「その“たぶん”はもう信用しないことにしてる」
これまで書類整理や経理の手伝いなど、小遣い稼ぎ程度の仕事の手伝いを何度もしてきたが、
妹の“たぶん”はおよそ、そうはならないという経験則がものをいう。
『今回は本当に簡単なの。小さな会社の経理調査。変な空請求が混じるんだって』
「空請求?」
『そう。存在しない請求書が、記録に出るの。消しても戻る。金額は小さい。でも、社員同士が疑い合い始めてる』
蒼麻は少し黙った。
店の奥で、出汁の鍋が静かに湯気を立てている。
酒の香りが、急に遠くなっていく。
「それ、普通に経理不正じゃないのか」
『普通ならね』
「普通じゃない?」
『お兄ちゃんなら、見れば分かると思う』
その言い方が、蒼麻は少し苦手だった。
麻那は昔から優秀だった。
神代一族の中でも、若くして企業をまとめる立場にいる。
弓の腕も、判断力も、交渉力もある。
そんな妹が、時々、蒼麻を見る目だけを変える。
まるで、蒼麻本人よりも、蒼麻の中にある何かを知っているように。
「麻那」
『なに?』
「念のため言っておくけど俺は、怪異とかそういうの専門じゃないぞ。苦手だし」
『知ってる』
「祓えないぞ」
『祓わなくていい。見てきてくれるだけでいいの』
「見えるだけって、けっこう厄介なんだけどな」
『うん。だからお兄ちゃんにお願いしてる』
蒼麻は返事に詰まった。
麻那の声は軽い。
けれど、その奥に妙な切実さがあった。
幼い頃、麻那が泣いていた夜のことを、蒼麻はふと思い出した。
何かに怯えていた妹の前に立ち、何がいるのかも分からないまま、ただ「こっちに来るな、戻れ!」と言ったことがある。
あれが何だったのか、今も知らない。
ただ、麻那はそのことを覚えている。
蒼麻が忘れかけていても、麻那は忘れていない。
「……場所、送っといて」
『ありがとう、お兄ちゃん』
「飲み代は本当に経費で落ちるんだろうな」
『上限はあるよ』
「急に現実的だな」
『会社だもん』
電話が切れた。
蒼麻はしばらく画面を見ていた。
蓮二が、黙って新しい小鉢を置く。
「行くのか?」
「行くらしい」
「らしいって、自分のことだろ」
「俺の人生、たまに俺の許可なく進むんだよな」
「漫画の主人公みたいなことを言うな」
「はいはい」
蒼麻は残っていた酒を飲み干した。
秋田晴、新屋の中硬水で造られた名酒だ。
米の甘みが、喉の奥に静かに消える。たまらない。
その余韻の向こうで、ふと、店の隅に黒い紙片のようなものが揺れた気がした。
瞬きをすると、もう何もない。
何かを予感した蒼麻は小さく息を吐いた。
「……簡単なやつ、ね」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
神代蒼麻にとって、それが初めての怪異調査案件となるのだった。
そして、彼がまだ知らない世界へ足を踏み入れる、最初の一歩でもあった。




