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第八十一話 三つの実は、同じ枝に生らない 前編

最初に消えたのは、一人の清掃員だった。


午前四時十三分。


首都圏最大級の地下複合施設。そして複数の鉄道路線。


巨大な地下商店街に行政の防災設備。


金融機関の地下金庫と整えられた通信網を完備する。


そして、地図には記されていない古い地下水路。


現在、地上では一日に数十万人が行き交う。


だが、その地下には、再開発によって消えた集落や、移転した神社の跡が幾重にも埋められているのだった。


清掃員は、閉鎖されているはずの通路を見つけた。


壁だった場所に、階段がある。


照明は点いている。


古い案内板。


――地下七階。


施設の図面では、地下六階までしか存在しない。


清掃員は無線で報告した。


『東側通路に、知らない階段があります』


管理室。


『場所は?』


『地下四階。旧搬入口の近くです』


『確認します。そこから動かないでください』


清掃員は階段の前で足を止めた。


一分。


二分。


三分。


地下施設の空調音だけが、妙に遠く響いている。


やがて無線が鳴った。


『すみません』


「はい」


『お名前を、もう一度お願いします』


清掃員は思わず笑った。


「毎日話してるじゃないですか」


『申し訳ありません。記録にお名前がありません』


笑みが消える。


「急に何を言ってるんですか」


『所属会社は?』


「東都環境サービスです」


短い沈黙があった。


『その会社とは契約をしていませんが』


「そんなわけ――」


背後で音がした。


誰かが、階段を降りてくる。


清掃員は振り返った。


階段の下には照明が点いているはずだった。


だが今は、奥まで深い闇が続いていた。


その暗闇の中に、赤いものが浮かんでいる。


巨大な果実。


人の頭ほどもある赤い実が、階段の途中にいくつも生っていた。


表面には、人の顔が浮かんでいる。


苦しそうに目を閉じた顔。


何かを訴えるように口を開いた顔。


泣いている顔。


笑っている顔。


「だ、誰かいる」


その異様な光景に清掃員は思わず無線へ叫んだ。


『どちら様でしょうか』


「こんな時にふざけないでくださいよ!俺ですって!」


『誰ですか』


「だから俺だって!」


『お名前をお願いします』


詐欺師の常套句を連呼しながら、清掃員は答えようとした。


だが、自分の名前が出てこなかった。


何度も名乗ってきたはずの自分の名前。


社員証にも、契約書にも、家の表札にも書いてある。


それなのに、頭の中から音だけが抜け落ちていた。


赤い果実の一つが割れた。


果肉の奥から、黒い手が伸びる。


清掃員は後ずさった。


無線が床へ落ちる。


管理室には、彼の最後の声だけが届いた。


『選ばれませんでした』


午前四時二十分。


清掃員は消えた。


監視映像には映っていない。


勤務記録からも名前が消えた。


会社の社員名簿にも存在しない。


自宅では、妻が朝目を覚まし、隣に空いた布団を見た。


そこに誰かがいた気がする。


だが誰だったのか、思い出せない。


壁に掛けられた家族写真には、不自然な隙間だけが残っていた。


午前七時、駅員が一人消えた。


午前八時、警備員が二人消えた。


午前九時には、地下商店街の店員七人が消えた。


午前十時、地下施設の一部が封鎖された。


行政は設備事故と発表した。


しかし、消えた人数は把握できていない。


記録がない。家族も覚えていない。


ただ、空席だけが増えてゆく。


そしてそのころ地下では、禍々しい巨大な樹木が急速に養分を取り込み、育ち始めていた。


根は人々の記憶を吸い上げ、枝が未来へ伸びてゆく。


実の中には、人そのものが閉じ込められているのだ。


怪異は、人を選別していた。


残す者。

消す者。

存在する価値のある者。

そうでない者。


午前十一時。


ついに神代が動いた。

神代一族には、それぞれ決められた役割がある。


桃は未来を動かす。


林檎は世界を見渡す。


苺は土地と勢力を育てる。


普段なら、この三人が同じ案件へ顔を揃えることは絶対にない。


それぞれが抱える仕事は、一人だけでも国を動かしかねない規模だからだ。


だから神代には、こんな言葉が残されている。


――三つの実は、同じ枝に生らない。


一つの枝へ三つの実が集まれば、枝は自らの重さで折れてしまう。


力とは分散してこそ世界を支えるもの。


それが神代一族の古くからの考えだった。


にもかかわらず、今日だけは違う。


当主・神代橘(かみしろたちばな)自らが三人を同じ場所へ送り出した。


「一人では足りない。」


そう判断せざるを得ない相手が、この大型怪異“選果(せんか)”だった。



地下施設の入口で、桃は腕を組んで待っていた。


「遅い」


到着した林檎は時計を見た。


「予定時刻の三分前です」


「私は十分前に来ていた」


「それは貴方の都合でしょう」


「僕は十五分前からいたよ」


背後から声がした。


桃が振り返ると、豪華な毛皮を羽織った苺が立っていた。


「いつ来た」


「君の後ろに、ずっと」


桃は眉をひそめる。


苺は少し笑った。


「嘘だけど」


林檎は二人を見た。


「開始前から時間を浪費しないでください」


桃は肩をすくめる。


「お前と話していると、未来がつまらなくなる」


林檎は表情を変えない。


「桃と話していると、不要な未来が増えます」


苺が楽しそうに笑う。


「仲がいいね」


桃と林檎は同時に答えた。


「よくない」


三人は地下施設へ入った。


照明は点いている。


だが人の気配がない。


普段なら多くの職員や警備員が行き交う通路は、異様なほど静まり返っていた。


「被害者は二十一名」


林檎が言った。


苺は首を横に振る。


「違う。四十三名だ」


二人が苺を見る。


「記録上は二十一名です」


「記録に残ってるのが二十一名。記録から消えた者が二十二名いる」


桃が尋ねた。


「どうやって分かった」


苺は壁へ手を触れた。


赤黒い霊力の根を伸ばしながら目を閉じる。


駅員。


清掃員。


警察官。


店員。


通行人。


無数の情報が、地下茎のような繋がりを通して苺へ流れ込む。


「四十三人分の空席がある」


林檎は静かに双晴を呼んだ。


白と黒、二つの霊体が現れる。


それらは天井をすり抜け、地上へ昇り、さらに人の目では届かない高度まで上がっていった。


同時に、林檎の視界へ地上と地下の情報が流れ込む。


白い双晴は人の動きを見る。


黒い双晴は、記録や空間の歪みを見る。


「地下七階」


林檎が言った。


桃が眉を上げる。


「ここは地下六階までしかないぞ」


「今は七階があります」


三人は奥へ進んだ。


だが通路は途中から同じ場所へ戻り始めた。


右へ進んでも元の場所。


左へ曲がっても、また同じ標識。


苺が周囲を見回す。


「迷路か」


「違います」


林檎は答えた。


「選択空間です。道を選ぶたびに、別の未来へ接続している」


前方に三つの通路が現れた。


右。


左。


中央。


桃が尋ねる。


「どれだ」


林檎は双晴を通して、それぞれの先を見た。


右の未来では、一人が消える。


左では百二十人。


中央では三十一人。


「右です」


桃がすぐに聞き返す。


「理由は」


「損失が最も少ない」


「何人だ」


林檎は少し黙った。


「一人」


奇妙な胸騒ぎを感じた桃の足が止まる。


「誰が消える?」


「まだ言いません」


「誰だと聞いている」


「知れば、貴方は選ばない」


桃は林檎を睨んだ。


「一人なら切っていいと、お前が決めるのか」


「百二十人を失うよりはいい」


「お前が決めるな」


「誰かが決めなければ、全員が死にます」


苺が二人の間へ入った。


「怪異の前で思想討論を始めるのはやめてくれる?」


桃は苺を見る。


「お前なら、その一人を捨てるのか」


苺の笑みが消えた。


「捨てない」


「なら、右へは進めない」


林檎が言う。


苺は壁の奥へ伸びる気配を探った。


「その一人を、僕の根へ繋ぐ」


林檎は即座に答える。


「怪異も侵入します」


「なら怪異ごと繋ぎますよ」


桃が呆れたように言った。


「お前も大概だな」


苺は少し笑った。


「褒められた」


その瞬間、壁が裂けた。


刹那、裂け目から出現した巨大な枝が三人へ襲いかかる。


桃が一歩前へ出た。


指先を払う。


枝が二つの未来へ分かれ、攻撃の軌道がずれた。


「私の未来が一つだと思うな」


その隙に、林檎は双晴を動かした。


黒い双晴が枝の影へ潜り込み、霊的な根元を喰い裂く。


白い双晴はさらに高度を上げた。


雲を越え、空の高みで円を描く。


林檎は片手を下ろした。


「照射」


空から光が落ちた。


地上の建造物をすり抜け、地下へ白い柱が突き刺さる。


怪異の枝が焼け落ちた。


桃が横目で見る。


「派手だな」


「効率的ですからね」


苺は焼けた壁を見上げた。


「地下に衛星攻撃とは。趣味が悪い」


林檎は苺の毛皮へ目を向けた。


「その格好をする人に言われたくありませんね」


だが、焼け落ちた枝はすぐに再生した。


一本が十本へ。


十本が百本へ。


床も、壁も、天井も、すべてが枝で覆われていく。


その枝の表面には、人の顔が浮かんでいた。


「助けて」


「自分の名前を思い出せない」


「誰か、私を覚えて」


赤い燐光を放つ苺の目が見開かれた。


地面から赤黒い根が伸びる。


枝へ絡み付き、実の中に閉じ込められた人々へ触れていく。


「名前がなくてもいい」


苺は言った。


「僕が繋いでおく」


人々の恐怖。


喪失。


忘れられる痛み。


すべてが苺へ流れ込む。


その量は、普通の人間なら一瞬で精神を壊すほどだった。


苺は笑っていた。


だが、その目の奥には、僅かな狂気が揺れている。


桃が苺を見る。


「入れすぎだ!」


「平気だよ」


「嘘をつけ」


「分かる?」


「顔が怖いんだよ」


苺は笑みを深くした。


「君に言われたくない」


地下全体へ、怪異の声が響いた。


――選べ


通路が震える。


――残す価値のある者を選べ


床が裂けた。


そこから巨大な樹が姿を現す。


天井を突き破り、地下全体へ根を張り巡らせている。


枝には無数の未来が絡み付き、実の中には四十三人が眠っていた。


怪異には顔がなかった。


だが声だけは、三人の意識へ直接流れ込んできた。


――お前たちは、私と同じだ


桃を見る。


林檎を見る。


苺を見る。


――未来を作る


――選択肢を削る


――人を繋ぐ


――お前たちも、人を果実として扱っている


三人は黙った。


怪異は笑う。


――誰を残す


――誰を捨てる


桃が片手を上げた。


周囲に新たな未来が生まれる。


「全員残す」


林檎は双晴の視界を広げた。


「不可能です」


苺は根をさらに伸ばす。


「なら、可能にする方法を探せばいい」


怪異の枝が振り下ろされた。


地下全体が崩れ始める。


残された時間は少ない。


林檎は無数の未来を見る。


そのほとんどで、四十三人は死ぬ。


一つだけ。


全員が助かる可能性がある。


ただし、その未来では、三果の一人が消える。


林檎は黙った。


桃がすぐに気付く。


「何を見た」


林檎は答えない。


苺も林檎を見る。


「誰が消える」


林檎は二人を見た。


「一人です」


桃が問い詰める。


「誰だ、言え」


林檎は静かに答えた。


「私です」

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