遮光陽小話 暇つぶしの五人
古びた雑居ビルの一室には、およそ統一感というものがなかった。
表向きは、すでに活動を停止した小さな不動産管理会社の事務所である。
入口の社名プレートは褪せ、窓には古いブラインドが下りている。
室内にあるのは、傷だらけの長机と不揃いの椅子傷だらけの長机。
いつから置かれているのか分からない湯沸かし器。
棚の上には、永野が持ち込んだ菓子の缶が無造作に積まれている。
その中で、城之内露乃だけが明らかに浮いていた。
艶のある淡い色のブラウスに、身体の線を上品に見せる細身のスカート。
長い脚を組んで椅子へ腰掛ける姿は、怪異の討伐報告へ来た退魔師というより、雑誌の撮影を終えて立ち寄ったモデルに近い。
向かいでは、落ち着いた色合いの着物を纏った本田舞紀が、持参した茶を湯呑みへ注いでいた。
「で、ろぬサマは今回、何をなさったんですか?」
永野康太郎が尋ねる。
露乃は紙コップを持ったまま、露骨に顔をしかめた。
「その呼び方をやめなさい」
「報告書には書けないので、今のうちに聞いておこうと思いまして」
「報告書に書かないなら、聞く必要もないでしょう」
「活躍したんですよね、ろぬサマ」
舞紀まで穏やかに加わる。
露乃は脚を組み替えた。
「非常口を確保したわ」
康太郎は大きく頷いた。
「つまり、外で待っていたと」
「退路を守っていたの」
「つまり、外で待っていたと」
「同じことを二度言わないで」
麗樹は報告書へ視線を落としたまま、穏やかに補足した。
「ろぬサマが出口を固定してくれなければ、住民は誰も外へ出られなかった。重要な役目だったよ」
「そうよ。少しは麗樹を見習いなさい」
露乃は満足そうに髪を払った。
すると康太郎が首を傾げる。
「でも、その格好で非常口に立っていたんですか?」
「何か問題でも?」
「いえ。避難してきた住民が、出口に女神がいると思ったらしくて」
露乃は僅かに目を細めた。
「……それは誰が言っていたの?」
「七〇二号室のおばあさんです」
「見る目があるわね」
舞紀が湯呑みを置いた。
「その方を背負って階段を下りたのも、露乃さんでしょう?」
「足を痛めていたのだから、当然よ」
「しかも靴を脱いで」
康太郎が続ける。
「細い踵では走れなかっただけ」
「避難後、ご自分の靴より先に、おばあさんの薬を探していましたよね」
「……よく見ているわね」
「ろぬサマの活躍ですから」
「次にそう呼んだら、その非常口から放り出すわよ」
「非常口は守るんじゃなかったんですか?」
露乃は笑顔のまま、康太郎を見た。
「人を選ぶことにしたの」
「麗樹さん。ろぬサマが救済対象を選別し始めました」
「自業自得だと思うよ」
麗樹は笑いを堪えるように口元へ手を添えた。
退魔組織の拠点と呼ぶには、あまりにも頼りない。
だが、この場所には監視設備も、神代一族の紋も、行政機関へ提出する名簿もなかった。
所属するのは五人。
神代麗樹。
本田舞紀。
永野康太郎。
城之内露乃。
そして、大石陽一郎と名乗る男。
彼らは正式な命令系統を持たず、活動記録もほとんど残さない。
助けを求めても、公的な機関には相手にされない者。
金も、後ろ盾も、社会的な立場もない者。
怪異に苦しみながら、それを証明する術を持たない者。
そうした人間たちのために、必要な時だけ集まる。
それが遮光陽だった。
神代一族の会議で見せる、誰にも隙を与えない調整役としての顔とは違う。ここにいる麗樹は、肩の力が抜けていた。
遮光陽が今回扱ったのは、都内の古い集合住宅で起きた怪異だった。
築五十年を超える建物には、低所得の高齢者や、家庭に事情を抱える母子が多く暮らしていた。再開発を理由に退去を迫られていたが、移る場所を見つけられない住民も少なくない。
異変が始まったのは、立ち退き交渉が本格化してからだった。
夜になると廊下の長さが変わる。
階段を下りても同じ階へ戻る。
空き部屋から、住民の名前を呼ぶ声がする。
呼ばれて返事をした者は、その夜から自分の部屋へ戻れなくなった。
建物の中にいるのに、誰にも見つけてもらえない。
三日後、住民の一人である老女が、管理会社を通さず麗樹へ相談を持ち込んだ。
警察には相手にされなかった。
行政には、認知症ではないかと言われた。
管理会社は、退去を拒む住民が作った話だと片付けた。
それでも麗樹は、老女の話を最後まで聞いた。
そして、その日の夜には五人が集まった。
「結局、建物に溜まっていたのは、追い出される者たちの恐怖だったんですよね」
舞紀が資料をめくりながら言った。
「恐怖だけじゃない」
大石陽一郎が低い声で答えた。
「ここにいてはいけないと言われ続けた人間の、存在を消される感覚だ」
長机の端に座る大石は、いつも地味な服を着ていた。年齢も経歴も曖昧で、本人は地方出身の独立した退魔師だとだけ名乗っている。
術の系統も明かさない。
神代一族との関係もないと言う。
麗樹はその説明を一度も追及していなかった。
他の三人も、怪しいとは思いながら、今のところ深く踏み込んではいない。
大石が正体を隠していることに気付いている者がいるかどうかは、本人にも分からなかった。
「人は、場所を失うだけでも弱る」
麗樹は報告書へ目を落とした。
「けれど今回は、住んでいた事実まで否定されかけていた。部屋を出ろ。記録から消えろ。お前たちは最初からここにいなかったことにする。そういう圧力が、建物の中で形を持ったんだと思う」
「契約書から住民の名前を消していた件も関係ありそうですね」
康太郎が言う。
立ち退きを進めるため、管理会社は一部の住民について、正式な契約者ではないように書類を書き換えていた。
同居していた親族。
事情があって名義変更をできずにいた者。
家賃を現金で払い続けていた高齢者。
書面の上で、彼らは少しずつ「いない人間」にされていた。
怪異はその空白へ入り込んだ。
存在を認められない住民を、建物そのものが隠し始めたのである。
「核は三階の空き部屋だった」
大石が続ける。
「過去に、そこで一人暮らしの男が亡くなっている。発見まで四か月。管理会社は事故物件になることを避けるため、死亡記録を曖昧にした」
「亡くなった方の未練が怪異になったんですか」
舞紀が尋ねる。
大石は首を横に振った。
「死者そのものではない。死んだことさえ、まともに記録されなかった人間がいた。その事実が、後から同じように消されかけた住民たちの恐怖を吸った」
「名もない空白が、空白を増やしたということか」
露乃が呟いた。
ふざけた空気が少しだけ静まった。
実際の退魔処理では、大石と舞紀が空き部屋へ入り、怪異の核を探った。
康太郎は建物内の住民を一戸ずつ避難させ、麗樹は住民の名前を確認しながら、誰がどの部屋に暮らしていたのかを紙へ書き戻した。
露乃は非常口を守った。
本人の名誉のために付け加えれば、本当に重要な役割だった。
怪異は建物の構造を変え、避難経路を何度も塞いだ。露乃が出口の位置を術で固定していなければ、住民たちは同じ廊下を永遠に歩き続けていた可能性がある。
ただ、他の四人がそれを素直に言うと、露乃が妙に得意げになる。
そのため、みんなは少しだけいじることにしていた。
「最終的には、麗樹さんが全員の名前を読み上げたんでしたね」
康太郎が言う。
麗樹は頷いた。
「住民だけではなく、亡くなった人の名前も」
「名前が分かったんですか?」
「管理会社の古い帳簿に残っていた。消されかけていたけれど、大石さんが見つけてくれた」
全員の名前が呼ばれた時、建物の中で歪んでいた廊下が元へ戻った。
自分はここにいる。
ここで暮らしていた。
誰かに知られていた。
その事実を取り戻した住民たちの声が、怪異を内側から崩した。
最後に残った黒い影は、空き部屋の隅で、一人分の形を取った。
麗樹はそれを祓わなかった。
亡くなった男の名を呼び、住民名簿の最後へ書き加えた。
影は何も言わず、朝の光の中へ消えた。
「退魔処理そのものは終了」
麗樹が報告書を閉じる。
「管理会社の書類改竄については、別の経路から行政へ渡した。住民たちには、当面の居住支援が入る」
「神代の名前は出してないんですよね」
舞紀が聞く。
「出していないよ」
「相変わらず効率が悪い」
露乃が言った。
「神代グループの支援事業として処理すれば、もっと早かったでしょう」
「早いけれど、借りを作ることになるので」
「誰に」
「神代に」
麗樹は穏やかに答えた。
「助けられた人が、後から神代の都合へ使われる可能性を残したくなかったの」
露乃は鼻を鳴らした。
「善人ぶるのね」
「ぶってはいません」
「なら、なぜこんなことをしているの」
麗樹は少し考えた。
「暇つぶし、かな」
康太郎が吹き出した。
舞紀も肩を震わせる。
「その言い訳、まだ続けるんですか」
「何か問題がありました?」
「麗樹さん、今日だけで行政三部署へ話を通して、住民の仮住居まで確保してますよね」
「暇だったんです」
「随分と充実した暇ですね」
「私も暇だった」
大石が言う。
全員の視線が向く。
康太郎が笑った。
「大石さん、怪異の核を一人で引きずり出しておいて?」
「たまたま近くにいた」
「県外から来たと聞きましたけど」
「近いか遠いかは、本人の感覚次第だ」
「無理がありますね」
舞紀も口を挟む。
「私も暇つぶしです」
「舞紀さんは?」
「避難した人の中に熱を出した子どもがいたので、朝まで病院に付き添いました」
「それ、暇つぶしの範囲を超えてません?」
「でも暇だったので」
全員が同じ言い訳をする。
誰かに頼まれたわけではない。
報酬が出るわけでもない。
功績として残ることもない。
ただ、見捨てられている人間がいた。
それだけで集まった。
露乃は呆れた顔で紙コップの中身を飲み干した。
「馬鹿ばかりだね」
「ろぬサマ自身も含めて?」
康太郎が尋ねる。
「私を数に入れないで」
「非常口を朝まで守っていたのに?」
「役目だったからよ」
「住民が避難した後も、一人で建物を確認してましたよね」
舞紀が言う。
「残っている者がいないか見ただけ」
「ろぬサマ、お優しい」
「その呼び方をやめなさい!」
露乃の声が古い事務所へ響いた。
麗樹はとうとう堪えきれず、声を立てて笑った。
大石は表情を変えなかったが、紙コップを口元へ運ぶタイミングが少し不自然だった。康太郎と舞紀は遠慮なく笑っている。
露乃だけが不機嫌そうに腕を組んだ。
「次の案件は、あなたたちだけで行きなさい」
「そう言って、必ず来ますよね」
「来ないわよ」
「本当に?」
「暇なら行ってあげてもいいけれど」
康太郎が麗樹を見る。
麗樹も笑いながら頷いた。
「では、次も全員参加だね」
「勝手に決めないで」
「暇なんでしょう?」
露乃は反論しようとして、結局何も言わなかった。
長机の上には、空になった紙コップと、食べかけの菓子が残っている。
正式な組織ではない。
命令もない。
誓約もない。
誰かが離れようと思えば、明日にでも消えられる。
それでも五人は、必要な時には必ず集まった。
麗樹が行政や企業との道を開く。
舞紀が負傷者や住民へ寄り添う。
康太郎が人を動かし、現場の混乱を抑える。
露乃が誰も取り残さないための退路を守る。
大石陽一郎は、正体を隠したまま、最も危険な場所へ立つ。
互いの過去をすべて知っているわけではない。
目的が完全に一致しているわけでもない。
けれど、見捨てられた者を前にした時だけは、迷わない。
「次の報告」
大石が資料を一枚取り出した。
「もうあるんですか?」
舞紀が驚く。
「西側の河川敷で、夜になると無数の人影が増えるらしい」
大石が資料を机へ置いた。
「被害は?」
麗樹が尋ねる。
「今のところ確認されていない。ただ、河川敷で暮らしている者たちの寝床が、夜ごと少しずつ川へ近付いている」
それまで脚を組んで座っていた露乃が、静かに姿勢を正した。
「行政は?」
「立入禁止の札を立てた。それだけだ」
大石の答えを聞くと、露乃は机の上の鞄を手に取った。
「いつ行くの」
全員が露乃を見る。
「何よ」
康太郎が首を傾げた。
「次の案件は、俺たちだけで行けとおっしゃっていませんでした?」
「気が変わったの」
「暇になったんですね、ろぬサマ」
「そうよ」
露乃は立ち上がった。
古びた事務所には似つかわしくない華やかな装いと、すらりと伸びた脚へ、康太郎が一度だけ視線を向ける。
「その靴で河川敷へ行くんですか?」
露乃も自分の足元を見た。
「……何か問題が?」
「前回、途中で靴を脱いでいましたよね」
「走る必要があったからよ」
「今回は河川敷ですよ」
「だから?」
「麗樹さん。ろぬサマ用の長靴、買ってから行きません?」
露乃は笑顔で康太郎を見る。
「貴方を川へ投げ込めば、深さも測れるわね」
「現地調査まで兼ねるとは、さすがろぬサマ」
「先に行ってなさい。後から沈めるから」
舞紀は着物の袖を整えながら、二人のやり取りを聞いていた。
「露乃さん」
「何?」
「私の車に、予備の長靴がありますよ」
露乃は黙った。
「……色は?」
「紺です」
「他には?」
「ありません」
しばらく考えた後、露乃は小さく息を吐いた。
「仕方ないわね」
康太郎が笑う。
「そこ、色を気にするんですね」
「当然でしょう」
大石はすでに扉を開けていた。
「早くしろ。怪異は服を選び終わるまで待たない」
麗樹も立ち上がり、外套を手に取った。
康太郎は残った菓子を鞄へ入れ、露乃はそれを見て眉をひそめる。
「それ持っていくつもり?」
「夜食です」
五人は雑居ビルを出た。
表には名前を残さない。
功績も求めない。
何のために集まっているのかと聞かれれば、全員が暇つぶしだと答えるだろう。
けれど、その夜も彼らは、誰にも助けを求められない者のもとへ向かった。
盤石な協力関係とは、誓いの言葉で作られるものではない。
誰かが取り残された時、何も言わず同じ方向へ歩き出せること。
遮光陽の五人にとっては、それだけで十分だった。




