表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
82/86

第八十話 土の下の王

神代苺がその町へ入った時、誰も彼を迎えなかった。


駅前に黒塗りの車はなく、秘書も護衛もいない。神代の名を掲げた者も、頭を下げる者もいなかった。


それでも、苺が改札を抜けた瞬間から、町は静かに動き始めていた。


彼は、深い葡萄色の上着へ豪華な毛皮を羽織っていた。冬にはまだ早い季節だったが、苺は周囲の視線を気にする様子もない。柔らかな毛並みは肩から背中へ大きく広がり、古い王侯がそのまま現代の駅へ降り立ったような姿だった。


人目を引く。


だが、誰も近付かない。


苺は駅前へ出ると、空を見上げた。


地方都市としては大きい。新幹線こそ停まらないが、複数の鉄道路線が交わり、駅前には商業施設と行政庁舎が並んでいる。


その一方で、駅の東側には古い商店街が残っていた。


昭和の頃に建てられた低い建物。


閉じたシャッター。


細い路地。


その奥に、小さな神社がある。


今回の再開発では、商店街の大半と神社を取り壊し、駅前から幹線道路までを一つの商業区画へ造り替える計画になっていた。


表向きの条件は悪くない。


住民への補償。


商店への移転費用。


神社の遷座。


新しい広場。


防災設備。


雇用の創出。


行政、建設会社、地元金融機関、神代グループの一部までが計画へ関わっていた。


反対運動も小さい。


大きな問題はないように見える。


だからこそ、苺が来たのだった。


駅前の喫茶店へ入ると、窓際の席に一人の老女が座っていた。


苺は注文もせず、その向かいへ腰を下ろした。


老女は彼の顔を見なかった。珈琲へ砂糖を落とし、ゆっくりとかき混ぜる。


「市の都市計画課は、来週中に最終決裁を出します」


小さな声だった。


「反対派は?」


苺が尋ねる。


「表向きは沈静化しました。商店主の多くは、補償条件へ納得しています」


「表向きは、ね」


「三人ほど、まだ反対しています」


「誰だ」


老女は鞄から新聞を取り出し、机へ置いた。


それは地方版の記事だった。


再開発計画と住民説明会。


記事の余白へ、小さく三つの丸が付けられていた。


苺は新聞を開かない。


指先で紙の端へ触れただけだった。


「一人は神社の宮司。一人は古書店の店主。もう一人は?」


「元市職員です」


「理由は」


「三人とも、神社の下に古い水路があると言っています」


「記録は?」


「ありません」


「ないのか」


「消されています」


老女はそれだけ言うと、珈琲を飲み干した。


苺が顔を上げた時には、すでに席を立っている。


「報告は以上です」


「ご苦労」


老女は頭を下げなかった。


苺も礼を求めなかった。


二人は赤の他人のように別れた。


老女が店を出ると、代わりに一人の若い男が入ってきた。作業着姿で、建設会社の名札を胸へ付けている。


男は苺の隣の席へ座り、携帯端末を机へ置いた。


画面には、工事予定地の地下構造図が表示されていた。


「地盤調査の数値が、二か所だけ不自然です」


男は前を向いたまま言う。


「空洞か」


「空洞というより、水脈です。ただ、自然な流れではありません」


「人が造った?」


「おそらく。ですが図面にはない」


「施工会社は気付いているか」


「上層部だけは」


「隠している理由は」


「工期が延びれば違約金が発生します」


苺は画面を一度見た。


「それだけではないね」


男の指が僅かに止まった。


「……はい」


画面が切り替わる。


地盤調査を担当した技師の名簿。


そのうち二人が、調査後に退職していた。


一人は県外へ転居。


もう一人は行方が分からない。


「誰が指示した」


「まだ掴めていません」


「では、早く掴め」


苺は穏やかに言った。


男は端末を伏せた。


「承知しました」


彼もまた、苺へ敬称を付けなかった。


それでも、苺の直属だった。


誰が苺の配下なのか。


誰が苺へ情報を送っているのか。


神代一族の中でも、正確に知る者はいない。


行政。


企業。


警察。


金融。


神社。


学校。


病院。


酒場。


それぞれの場所に、一見すれば無関係な者たちがいる。


互いの存在を知らない者も多い。


命令系統は表に出ない。


名簿もない。


会議もない。


それでも情報は、土の下を伸びる根のように苺へ集まってくる。


親株から伸びた走出枝が、離れた場所で子株を作る。


地上では別々の植物に見えても、見えないところでは繋がっている。


それが、神代 伊致寐姑 (いちびこ)(いちご)の組織だった。


駅を離れ、古い商店街へ入る。


苺はゆっくりとその通りを歩いた。


毛皮が風を孕む。


シャッターの閉じた玩具店。


古い菓子屋。


写真館。


酒屋。


その先に、今回取り壊される予定の神社があった。


鳥居は低く、社殿も小さい。


そして社務所には誰もいない。


苺は境内へ入ると、足を止めた。


空気が違う。表面上は静かである。


だが地面の下で、何かが脈打っている。


水に溶けた祈り。そして古い記憶。


それらが細い筋となり、町の地下へ広がっていた。


「根」と呼ばれるもの。


苺は目を閉じて片手を地面へ触れると、その指先から暗紅色の光が走った。


それは植物の根ではない。地下を流れる霊脈へ苺自身の霊力を接続し、人と土地、人と記憶、人と現世を結ぶ経路を可視化したものだった。


途端に、苺の意識に津波のように無数の声が流れ込んでくる。


都市計画課の職員が抱く不安。

建設会社の幹部が隠している契約。

地元銀行の融資担当が受けた圧力。

商店主たちの諦めと宮司の怒り。

技師の恐怖と誰かの嘘。

誰かの沈黙。さらに誰かの助けを求める声。


苺の指先が僅かに震えた。


霊力が強くなりすぎている。


この能力は、自分から根へ意識を伸ばさなければ、遠くの声までは聞こえなかったが、今は違う。


目を閉じるだけで押し寄せてくる。


どれが自分の感情なのか。


どれが子株から伝わったものなのか。


苺自身も判別するのに、少し時間がかかるようになっていた。


「……静かにしてくれ」


苺は小さく呟いた。


声は止まらない。


彼を頼る者。

彼を恐れる者。

彼を利用しようとする者。

裏切ろうとしている者。


何千もの感情が、土の下から一斉に根を這い上がってくる。


苺は片手で額を押さえた。


それでも口元には笑みが残っている。


彼は狂気に蝕まれ始めていた。


そのことを、本人自身は気付いていた。


だからまだ大丈夫だと考えている。


自分でまだ気付けている間は、まだ自分でいられる。


そう信じること自体が、すでに危ういとは考えないようにしていた。


「来ていたのですね」


背後から声がした。


振り返ると、神社の宮司が立っていた。


七十代ほどの男だった。


「神代の方ですか」


「そう見えるかい」


苺は毛皮の襟へ指を掛けた。


宮司は苦笑する。


「この町で、その格好をするような方は他にいません」


「地味にしたつもりなのだが」


「でしたら、普段はもう少し控えられた方がよろしいかと」


苺は笑った。


「貴方が、移転に反対している宮司だね」


宮司の表情が硬くなる。


「私を説得しにいらした?」


「そうじゃない」


「では、何のためにいらしたのです?」


「確認に来た」


苺は本殿の奥へ目を向けた。


「この下に、何がある」


宮司は答えなかった。


「記録が消されている」


「誰から聞いたのです」


「根は、土の上からは見えないものだ」


なんの比喩を伝えようとしているのか。宮司は苺を見つめた。


やがて観念したように息を吐く。


「水路です」


「ただの水路ではないね」


「この町ができる前からあったものだと伝えられています」


宮司は社殿の脇へ苺を案内した。


古い石蓋がある。


普段は落ち葉と土に埋もれているらしい。


蓋には、細い線で何かが刻まれていた。


神紋ではない。


文字でもない。


水の流れを表した古い祭祀図だった。


「町の地下を巡り、最後にこの神社へ戻ります」


宮司が言う。


「昔は、祭りの前に各家が水を汲み、ここへ返したそうです」


「循環させていたのか」


「はい」


「なぜ記録が消えた」


宮司は首を横に振った。


「分かりません。父の代には、すでにほとんど残っていませんでした」


苺はしゃがみ込み、石蓋へ触れた。


冷たい。


その奥で、水が動いている。


同時に、黒いものも蠢いていた。


再開発へ反対する者の怒りではない。


もっと長い時間をかけて溜まったもの。


土地を売った者の後悔。


町を離れた者の罪悪感。


残った者の妬み。


変化を望んだ者と、変化を憎んだ者。


そのすべてが、地下水路の中で混ざり合っている。


「この水路を壊したら、何が起きる?」


苺が言う。


「水が止まるでしょうな」


「それだけでは済まないね」


苺は立ち上がった。


「町中に溜まっているものが、一度に表へ出る」


宮司は青ざめた。


「怪異ですか?」


「すでにいる」



夜となった。


再開発地区の電気が、一斉に消えた。


停電は数分で復旧した。


だが古い商店街だけは、暗いままだった。


シャッターの隙間から黒い水が流れ出す。


道路の側溝。家の床下。閉じた井戸。


地下のどこかで繋がっていたものが、地上へ溢れ始めている。


苺は神社の鳥居前に立っていた。


毛皮の裾を、黒い水が濡らす。


闇の中から声が聞こえる。


――売った。

――捨てた。

――残った。

――奪われた。


人の声。


何百人分もの記憶。


黒い水が盛り上がり、巨大な人型を作る。


顔は一つではない。


町に住んだ者。

町を離れた者。

町を変えようとした者。


そのすべてが泥の中で混ざり、歪んだ身体を作っている。


怪異は苺を見下ろした。


――神代


無数の口が同時に動く。


――また、奪うのか


苺は笑った。


「僕へ聞くのかい」


怪異の腕が振り下ろされる。


地面が割れ、黒い水が境内へ飛び散った。


苺は避けなかった。


腕が触れる寸前。


地面から無数の細い根が突き上がった。


植物の根ではない。


苺の霊力が形を取ったものだった。


赤黒い光を帯びた根が怪異の腕へ絡み付き、動きを止める。


「僕は何も奪わない」


苺は静かに言った。


「必要なものを、土の下へ繋いでおくだけだ」


怪異が叫ぶ。


黒い水が町中から集まり、さらに身体を膨らませていく。


その瞬間、苺の中へ無数の情報が流れ込んだ。


市役所の地下資料室に残る旧図面。


建設会社の端末へ隠された地質報告。


警察が押さえた資金移動の記録。


新聞記者が受け取った内部告発。


宮司が守っていた祭祀図。


すべてが同時に繋がる。


苺は一歩も動かない。


彼の周囲で、地面が赤く光り始める。


この町の地下に伸びていた水路。


人の縁。


配下の情報。


苺自身の霊力。


それらが一つの巨大な網となり、怪異の下へ広がっていく。


「君は、この町のすべてを抱え込んだのだな」


苺は怪異を見上げた。


「だが、その抱えたものを誰にも分けなかった」


根が怪異の脚へ絡む。


胴へ。


首へ。


無数の顔へ。


「だから腐ったんだ」


怪異が暴れる。


建物の窓が割れ、古い看板が落ちる。


それでも根は切れない。


一本を切れば、別の場所から二本が伸びる。


一人の配下が倒れても、別の者が情報を繋ぐ。


一つの経路が潰れても、地下には無数の道がある。


それが苺の力だった。


正面から見れば、苺は一人しかいない。


だが彼と向き合うということは、彼へ繋がる無数の者を同時に敵へ回すことだった。


「返しなさい」


苺が言った。


――何ををををを


怪異の無数の口が叫ぶ。


「この町の者たちへ」


苺の目が赤く光った。


「それぞれの後悔を」


苺が放つ「根」が一斉に収縮する。


怪異の身体から、黒い水が引き剥がされていく。


売った者の後悔は、売った者へ。


残った者の怒りは、残った者へ。


離れた者の罪悪感は、離れた者へ。


混ざり合っていた感情が、一つずつ本来の持ち主へ戻される。


遠く離れた場所で。


一人の男が、忘れていた故郷の夢を見る。

老女が、売却した店の鍵を握り締める。

若い女が、二度と帰らないと決めた町の名を口にする。


誰も理由を知らない。


ただ、自分が何を捨て、何を選んだのかを思い出す。


怪異の身体が小さくなる。


最後に残ったのは、子どもほどの黒い影だった。


――このまま消えるのか


影が尋ねる。


「消さない」


苺は答えた。


――では、我を残すのか


「残す」


――なぜ


苺は少し考えた。


「君も、この町にいたものだからね」


赤い根が影を包む。


潰すのではない。


地下へ沈める。


神社の水路へ戻し、再び町を巡る流れの一部へ組み込む。


影は最後まで燐光を放つ苺の瞳を見ていた。


やがて黒い水と共に、地面の下へ消えた。



翌朝。


町は騒ぎになった。


建設会社の不正な地質報告が報道された。


再開発を推進していた議員の資金問題が発覚した。


施工会社はすぐさま契約解除を申し出た。


対応に追われた市は計画の一時凍結を発表した。


警察は関係者への事情聴取を始めた。


住民説明会のやり直しも決まった。


それらのすべてが、同じ日の午前に起きた。


麻那から連絡が入ったのは、苺が駅へ戻る途中だった。


『何をしたんですか』


「何も」


『一晩で再開発計画が止まりました』


「止まるだけの理由があったんだろうな」


『その理由が、同時に表へ出ることは普通ありません』


苺は笑った。


「はは、根が水を運んだだけだよ」


『誰が苺さんの配下なんですか』


苺は足を止めた。


駅前の交差点。


市役所へ向かう職員。


新聞を配る若者。


タクシー運転手。


コンビニの店員。


通学中の学生。


その中に何人いるのか。


苺自身にも、すぐには数えられなかった。


「知りたい?」


電話の向こうで、麻那が少し黙った。


『……やめておきます』


「賢いね」


『それと、現地から妙な報告が来ています』


「何だい」


『昨夜、町中の人が同じような夢を見たそうです。昔この町に住んでいた人まで』


麻那は苺自身に反動のくる術を行使したのではないかと危惧していた。


「そう」


『苺さん』


「何だ」


『本当に、大丈夫ですか』


その問いに、苺はすぐに答えなかった。


無数の声が、まだ頭の中に残っている。


昨夜、怪異から人々へ戻した感情。


それらの一部が、苺の中にも流れ込んでいた。


自分の後悔ではない。


自分の怒りでもない。


それでも、胸の奥へ沈み、消えない。


「大丈夫だよ」


苺は笑って答えた。


麻那はそれ以上聞かなかった。


電話を切る。


駅へ向かう途中、苺は住宅街を通った。


一軒の家から、夕餉の匂いが漂っている。


窓の向こうで、母親が子どもを呼んでいた。


「早く手を洗ってきなさい」


「はあい」


「お父さんも、もうすぐ帰るから」


子どもが笑いながら道を走っていく。


苺は足を止めた。


豪華な毛皮。


無数の直属配下。


町一つを一晩で動かす情報網。


初代・神代牡丹の力を色濃く受け継ぐ霊力。


それでも。


自分が帰る家には、誰もいない。


何千もの者が彼へ報告する。


何百もの者が彼の命令を待っている。


誰もが苺へ繋がっている。


けれど、彼を息子として待つ者はいない。


窓の向こうから、母親の声が聞こえる。


「おかえりなさい」


帰ってきた父親を迎えた声だった。


苺は目を閉じた。


一瞬だけ。


その言葉が自分へ向けられたものだと思ってみる。


だがすぐに、別の声が流れ込んできた。


遠く離れた場所。


配下の一人。


恐怖。


助けを求めている。


誰かに追われている。


苺は目を開いた。


柔らかな表情が消える。


「誰だ」


土の下で、根が震える。


一人の子株が傷付けられた。


その事実が、無数の経路を通って苺へ届く。


「僕の“根”に触れたのは」


毛皮が夜風に揺れた。


町のあちこちで、苺へ繋がる者たちが一斉に動き始める。


誰も命令を聞いてはいない。


それでも、全員が同じ方向へ顔を上げる。


苺は家族の灯りへ背を向けた。


誰にも見えない根を辿り、暗い道へ歩き出す。


地下には、まだ幾つもの声がある。


怒り。


恐れ。


忠誠。


疑念。


そして、自分自身のものかもしれない狂気。


苺は笑った。


「見つけた」


その声と同時に、土の下で無数の根が一斉に伸びた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ